第22話 最恐の嫁
「伊織! 大丈夫か?」
誰かが呼んでいる。
「おい! しっかりしろ」
聞きなれた声で呼びかけられると、だんだんと意識が覚醒してくる。伊織はぼんやりとした頭で、先ほどの出来事を思い返した。
飛駕に組み敷かれた後、伊織は玉藻前を呼んだ。そこから先は……正直あまり思い出したくない。
目を背けたくなるような光景が繰り広げられていたため、本堂の隅で目を閉じていたら、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
ゆっくりと目を開けると、ここにいるはずのない人物がいた。
「旦那様……どうしてここに?」
恭一郎が血相を変えてこちらを見下ろしている。伊織が目を覚ますと、安堵するように頬を緩めた。
身体をゆっくりと起こした直後、恭一郎の腕が伊織の背中に回された。
力強く抱きしめられている。突然の出来事に伊織はその場で固まることしかできなかった。
「無事でよかった」
決して痛いわけではないのだけれど、あまりにがっちりと抱きしめているものだから簡単には逃れられそうにない。伊織は戸惑いながら尋ねた。
「もしかして、助けに来てくれたのですか?」
なぜ、という疑問が先行する。すると迷いのない答えが返ってきた。
「当たり前だろ。大事な嫁が危険な目に遭っているんだ。助けに行かないわけがない」
大事な嫁という言葉に、胸の奥が締め付けられる。いままでに味わったことのない感覚だった。思わず身を捩らせて離れようとしたが、恭一郎は離してはくれない。
「もう少し、このままで……」
どこか悩まし気な声で告げる恭一郎。伊織はその指示に黙って従った。
抱きしめられていると、恭一郎の身体付きをもろに感じる。がっちりとした厚い胸板に、ほどよく筋肉がついた逞しい腕。それは自分のものとはまるで違った。
すると恭一郎は溜息を漏らすように囁く。
「伊織は甘い匂いがするんだな。花の蜜のように甘い。一緒に暮らしていたというのに知らなかった」
うなじの辺りで息遣いを感じると、途端に恥ずかしくなる。自分の匂いなんていままで気にしたことはなかったけど、恭一郎にとっては心地よいものだったのかもしれない。
恭一郎はゆっくりと伊織を解放する。向かい合って視線を合わせると、恭一郎は慌てたように視線を逸らした。
「悪い。急にこんなことをして……」
「いえ……」
驚きはしたが謝られることではない。お互い気まずさを感じながら視線を逸らしていると、不意に声をかけられた。
「遅かったな、小僧。天狗の小僧はこっちで片付けておいたぞ」
玉藻前が片手をひらひら振りながら声をかける。その下には頭の上で両手を縛られた飛駕がいた。
飛駕は着物はひん剥かれた状態で、譫言のように「もう無理だ、これ以上は……」と呟いている。その光景を見て、げんなりした。
あの後、玉藻前は飛駕に襲い掛かり、地獄のような仕打ちを施した。その間、飛駕は何度も烏天狗を呼んでいたが、烏天狗がこの場に現れて主を助けることはなかった。
おおかた烏天狗には別の命令が下っていたのだろう。
使役されている妖にとって、主からの命令は絶対だ。一度下された命令を放棄して、自らの判断で動くような真似な対応はできない。酒呑童子に限っては、その辺りのルールは無視しているようだが。
飛駕はその辺りの事情を把握していなかったのか、助けを呼ぶことも叶わず玉藻前に蹂躙されていた。
玉藻前は高笑いしながら飛駕を見下ろす。
「これだけ絞り取れば、当分は女に反応しないだろう。最悪トラウマになってるかもしれない」
その光景を見て、恭一郎は眉を顰めた。
「……あれはなんだ? 玉藻前は何を搾り取っているんだ?」
嫌なことを追求されてしまった。伊織はスッと視線を逸らしながら答えた。
「妖力、でしょうか……」
恭一郎は何かを察したのか顔を引き攣らせる。
だがそれはほんの一瞬で、涙でぐちゃぐちゃになった飛駕の顔を見た途端、吹き出すように笑いだした。
「そうだった。俺の嫁は最恐だった。俺の出る幕なんて初めからなかったわけだ」
卑下しているかのようにも捉えられる言葉だったが、恭一郎はどこか嬉しそうだった。それから玉藻前はひらひらと手を振りながら恭一郎を呼ぶ。
「鬼の小僧、おぬしも一発どうじゃ?」
飛駕が「ひいいい」と怯えたように悲鳴を上げると、恭一郎はにやりと笑いながら立ち上がった。
「ああ、そうだな。俺からも一発やらないと気が済まねえ」
鬼の形相を浮かべた恭一郎を見て、飛駕が慄く。
「待て、恭一郎。早まるな……」
両腕を抱えて震える飛駕に、恭一郎はにじり寄る。その背後には、どす黒いオーラが漂っていた。
恭一郎は拳を強く握る。その直後、飛駕の頬に鉄拳を食らわせた。
「俺の嫁に手を出すな!」
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