第20話 誘惑
目を覚ますと、伊織は薄暗い部屋の中で横たわっていた。板張りの床に高い天井、目の前には絢爛豪華な仏像がある。その光景から、ここが寺だと推測できた。
東雲家は寺から派生した一族だ。恐らく帝都で烏天狗に攫われた後、東雲家の本山に連れてこられたのだろう。
いまはもう正常に思考ができる。烏天狗の術中からは逃れられたようだ。
伊織は身体を起こしながら玉藻前を呼ぶ。
「玉藻前、聞こえますか?」
「ああ、聞こえる。随分厄介なことに巻き込まれたものじゃ」
玉藻前と意思疎通ができることにひとまず安堵する。とはいえ、この先何があるか分からないため、伊織は保険として玉藻前に指示した。
「明日までは私の許可を取らずに外に出ても構いません。もし私の身に危険が及んだら、守ってください」
「あいわかった。天狗の小僧が伊織に危害を加えようものなら、落としてやるさ」
「お願いします」
声がしたことで意識を取り戻したことに気付いたのか、本堂の戸が開いて飛駕がやって来た。
「目覚めたようだね。手荒な真似してすまなかった」
口では謝っているが、まるで悪いとは思っていないように見える。
「こんな場所に連れて来て、どうするつもりですか?」
単刀直入に尋ねると、飛駕は伊織の隣にどかっと腰を下ろして、作り物めいた笑みを浮かべた。
「どうもしないさ。ただ、少し話をしようと思っただけだ」
「あなたと話すことなんて何もないと言いましたよね?」
「強情だねえ。そんな態度だから、恭一郎から愛されないんじゃないのか?」
図星をつかれて反応が鈍る。その隙を突くように、飛駕は距離を詰めてきた。
伊織の肩に手を回して、熱の帯びた瞳で顔を覗き込む。
「なあ、恭一郎とはどうなんだ?」
「どう、と申しますと?」
「満足しているのかって話」
にやりといやらしく微笑んでいることから、下世話な質問をされていることに気付いた。
「あなたには関係のないことでしょう」
バッサリと切り捨てる。親族ならまだしも、赤の他人に夫婦間のことを言及されるのは不愉快だった。
「そんなに冷たくあしらわれたら俺だって傷つく」
甘えるような声色で囁く男を、伊織は冷めた視線で見下ろす。
飛駕は世間一般で見れば整った顔立ちをしているのだろう。憂いを帯びた表情で見つめられれば、靡いてしまう女性もいるのかもしれない。
しかし伊織の心はいたって冷静だ。一瞬たりとも心を乱されることはない。
伊織が何も言わないことを良いことに、飛駕は甘い笑みを浮かべながら誘ってくる。
「本当は満たされていないじゃないの? 俺ならあんたのことを満足させてあげられる」
手を伸ばし、伊織の後頭部をゆっくり撫でる。かと思えば、髪を束ねた紐を解いて、首筋から手を滑らせて髪をかきあげた。
強引に迫るのではなく、あくまで相手の欲望を引き出した上で事を進めようとしている。ここで甘い反応を示したら、一気に付け込まれるような気がした。
「不快なのでやめてください」
冷ややかな視線で拒絶すると、飛駕はひくりと口元を歪ませる。
「この状況で顔色ひとつ変えない女は珍しい。享楽に溺れてみたいとは思わないのか?」
「思いませんね。そんなこと考えたことすらありません」
そこまで伝えると、飛駕は何かを察したかのようににやりと笑った。
「なるほど。まだ知らないだけか。恭一郎にはまだ手を出されていないんだな」
下世話な推測をする。その直後、飛駕は伊織の肩を掴み、組み敷くような体勢になった。そのまま耳元で吐息交じりに囁く。
「知らないなら教えてあげるよ。知れば虜になるかもしれない」
伊織は両手で飛駕の肩を掴み、引き剥がそうと力を籠める。
「結構です。知りたくもありません」
頑なに拒絶をする伊織を見て、飛駕はおかしなものでも見るように笑った。
「難攻不落とはまさにこのことか。恭一郎が苦戦しているのも頷ける。それを奪ってやるというのも最高に気分がいいな」
伊織は小さく溜息をつきながら牽制する。
「これ以上続けるなら、こちらも相応の対処をしますよ?」
「そういうなよ。御三家なんていう厄介な家に生まれたんだ。享楽に溺れていないとやっていけないだろう、お互い」
どこか諦めを含んだような言葉が耳に残る。すると、いつぞや聞かされたある言葉が脳裏に過った。
「愛のない行為になんの意味もありませんよ」
飛駕の動きが止まる。余裕の笑みが消え、驚いたように伊織を見下ろしていた。
その隙をついて、伊織は拘束から逃れて身体を起こす。乱された髪を手櫛で整えながら、冷ややかな視線で飛駕を見据えた。
伊織の言葉に面食らっていた飛駕だったが、しばらくすると俯きながら小刻みに肩を震わせる。声を押し殺して笑っているようだった。
「あんただけには言われたくないなぁ。和平のために好きでもない男と結婚生活を続けている奴には」
確かに伊織のいまの状況は、そう思われても仕方がないのかもしれない。だけど噂として語られていることが全てではない。
「好きでもない男、というのは大きな誤解ですね」
伊織の言葉で、飛駕は笑いを引っ込めて訝し気に眉を顰めた。
理解してもらえるとは思っていない。だけど牽制を兼ねて伝えた。
「私は旦那様を心から尊敬しています」
それは飛駕を欺くためだけの言葉ではない。本心からの言葉だった。
伊織の言葉を聞いた飛駕は小馬鹿にするように鼻で笑う。
「尊敬? あんな臆病者のどこに尊敬する要素があるんだ? 単に生まれ持った妖力が強いだけだろう?」
どうやら飛駕は、恭一郎の弱さを見抜いているようだ。それなら話は早い。
「あなたの仰る通り、旦那様は臆病な気質です。とくに人の死に立ち会うことを恐れています」
先日の黄泉桜討伐の際も、恭一郎は首を吊った令嬢を見て顔を真っ青にして立ち尽くしていた。
その事実だけを切り取ると、臆病者の烙印を押されてしまうかもしれないが、決してそうではないことを伊織は知っている。
「恐怖で足が竦んでも、旦那様は気丈に振舞って役割をまっとうしています。力を持っている自分にしか、できないことがあると信じているから」
一呼吸おいてから、伊織は告げた。
「この国の平和は旦那様の正義感で成り立っています。そんなお方をどうして嫌いになれましょうか」
怖いものと向き合うことは簡単なことではない。それでも正義感を胸に立ち向かっていく姿は尊敬に値した。
自らの旦那を賞賛する伊織を見て、飛駕は白けたように目を細める。
「要するにあんたは、恭一郎の力だけでなく、弱い部分も認めているってことか。あんたみたいな理解者が傍にいるなんて、あいつは幸せ者だな」
飛駕は奥歯をギリっと噛み締め、憤りを露わにする。その直後、伊織の腕を掴み、もう一度組み敷く体勢になった。
「その話を聞いたら、余計にあんたを奪いたくなった。何もかも持っているあいつから大事なものを奪ってやる」
浅い呼吸を繰り返す飛駕。その勢いのまま首筋に顔を埋めた。
首元に吐息を感じたかと思うと、突如痛みが襲い掛かる。
「っ……」
飛駕は伊織の白磁気の肌に歯型を立てて、思いっきり噛みついた。
どうやらこれ以上の交渉は不可能らしい。
「玉藻前」
伊織の冷ややかな声に、玉藻前はすぐさま反応する。
「分かっておる。天狗の小僧を落とせばいいのだろう」
伊織の影から姿を現した玉藻前は、背筋が凍るほどの禍々しい気配を発していた。
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