第15話 ただならぬ事件の香り

 日が傾いて空が茜色に染まった頃、任務を終えた恭一郎が屋敷に戻った。引き戸に手をかけた直後、酒呑童子が姿を現して神妙な表情で呟く。


「玉藻前の気配が遠のいたな」


 恭一郎は眉を顰めながら尋ねる。


「遠のいた? どういうことだ?」

「そのままの意味だ。小娘は屋敷には居ないぞ」


 怪訝そうな顔をしながらも戸を引こうとすると、鍵がかかっていることに気付く。いつもは鍵を使わなくても戸は開くから、閉まっているということは出掛けているのだろう。


「出掛けているみたいだな」


 伊織はあまり屋敷から出ないが、まったく出掛けないわけではない。用事があれば一人で出掛けていく。行先も帰宅時間も告げられずに、ふらっと出かけていくのは若干不服ではあるが。


「どこに行ったんだ?」


 何気なく呟くと、酒呑童子は腕組みをしながら答えた。


「先ほどまでは、そう遠くない場所にいた。距離と方角的に恐らく帝都の中心街だろう」

「はあ?」


 恭一郎は驚きの声を上げる。驚いたのは伊織が中心街にいたことではない。中心街に伊織がいると酒呑童子が把握していたことに驚いていた。


「まさかお前、ずっと玉藻前の気配を追ってるのか?」

「ずっとではない。気になった時に探っているだけだ」

「だとしても重すぎんだろ。いくら昔の女だからって……」


 恭一郎がゾッとするように両腕を擦っていると、酒呑童子に頬を鷲掴みにされた。


「おい小僧、その言い草はないだろう。これも鬼の習性だ。前にも教えただろう?」


 恭一郎は睨みを利かせながら、酒呑童子の手を振り払う。これ以上揶揄うと本格的な喧嘩に発展しそうだったため、話をもとに戻した。


「で、さっきまでは中心街にいた伊織と玉藻前は、今度はどこに行ったんだ?」


「分からん。俺が察知できないとなると、帝都の外に出たのかもしれない。一時間ほど前までは中心街にいたはずなのに、そこから急に帝都の外に出たというのは不可解だ。まるで瞬間的に移動したようだ……」


「瞬間的に移動って、そんなことできんのかよ? 玉藻前の能力か?」


「いや、玉藻前はそういった類の能力は持っていない。そんなことができるのは、大天狗か烏天狗くらいだろう。恐らく神足通じんそくつうを使ったのか……」


「烏天狗ってまさか……」


 烏天狗と聞いて、真っ先に飛駕の顔が思い浮かぶ。背中に冷や汗をかいた直後、門の方から声をかけられた。


「ごめんください」


 振り返ると、藤色の着物を着た女人がいた。しかしすぐに、相手が女人ではないことに気付く。


「涼晴さん! どうしてここに?」


 門の前に立っていたのは、伊織の兄である涼晴だった。思わぬ来訪者に驚くと同時に、女の着物を纏っていることにも面食らった。


「恭一郎くん。久しぶり。伊織の結婚式以来だね」

「そうですね……」


 女装していることに関しては触れていいのか悩む。のっぴきならない事情があってそのような恰好をしているのかもしれないし、単なる趣味なのかもしれない。後者だった場合にはどんな反応をすればいいのか分からなかった。


 恭一郎が口の端をヒクヒクとさせていると、涼晴は薄ら笑いを浮かべながら話を続けた。


「聞いたよ、伊織とはあまり上手くいっていないようだね」


 前触れもなしに夫婦仲の話題が出されて目を丸くする。取り繕うべきか、事実をありのままに伝えるべきか悩んでいると、涼晴は作り物めいた笑顔のまま話を続けた。


「伊織は警戒心が強い子だからね。兄の僕ですらあまり信用されていない。あの子の心を開くのは容易ではないだろうね」


 警戒心が強いというのは頷けた。伊織と共に過ごしていても、気を許されていると感じたことは一度もなかった。


 とはいえ、こんなところで夫婦仲の相談をしている場合ではない。伊織がただならぬ事件に巻き込まれている可能性があるのだから。


「涼晴さん、何の御用ですか? いまは世間話をしている暇はないんです」

「異変には気付いているようだね。それなら話が早い」


 涼晴は狐のように目を細めると、衝撃的な事実を語った。


「伊織が天狗攫いに遭った」

「はあ?」


 烏天狗が絡んでいることからその可能性も過ったが、涼晴も知っているというのは予想外だった。


「なんで涼晴さんがそんなことを知っているんですか?」

「伊織が攫われる現場を傍で見ていたからね」


 その言葉を聞いた瞬間、驚きが苛立ちへと変わった。


「だったらなんで助けなかったんですか?」


 目の前で妹が攫われているなら、助けるのが普通だろう。それなのにみすみす逃がすなんてどうかしている。


 恭一郎の苛立ちを感じ取ってもなお、涼晴は飄々とした態度を取っている。


「僕は飛駕くんには近付けないからね。だから助けることもできなかった。でも、伊織が心配だったから、君に報告をすることで間接的に助けているんだけど?」


 涼晴の言い分はイマイチ理解できない。だけど、こうして榊家に赴いて報告をしていることから、伊織を見捨てているわけではなさそうだ。


 涼晴が信用に足る人物なのかは分からない。戸惑っている間にも涼晴は話を続けた。


「君も知っていると思うけど、飛駕くんはすこぶる女癖が悪い。そんな彼に伊織が攫われたらどうなるかくらい、想像がつくでしょう」


 想像した途端、全身の血が沸騰しそうなほどに怒りが沸き上がった。


「伊織はどこにいるんですか?」


 何とか冷静さを保ちながら、状況を把握しようとする。


「恐らく東雲の本山だろうね」


 東雲の本山は帝都から離れた山奥にある。電車も通っていない田舎で、すぐに向かうのは困難だった。


 恭一郎は苛立ちを露わにしながら酒呑童子に訊く。


「おい酒呑童子! いますぐ東雲の本山まで飛べないのか?」


 酒呑童子は小馬鹿にするようにフッと鼻で笑う。


「そんな芸当はできん。俺は最強だが万能ではない」

「使えねえな」


 苛立ちから酒呑童子に八つ当たりをする。一刻も早く伊織を助けに行きたいのに、駆けつける手段が見つからない。


 馬車を手配しようにも今から手配をするのは時間がかかる。それに馬車はそこまで速い乗り物ではない。途中で馬を休ませながら向かっていったら、辿り着く頃には夜が明けてしまうだろう。


 自動車も普及しはじめた時世ではあるが、民間人が乗り回せるような代物ではない。御三家である榊家でも自動車は保有していなかった。


「一刻も早く助けに行きたいのに、足がないなんて……」


 恭一郎が嘆いていると、涼晴は両腕を組みながら考え込む。


「早く走れる乗り物か。それなら心当たりがあるな」


 その言葉に恭一郎が反応する。


「まさか、安隅家には自動車があるんですか?」

「いや、自動車はないよ。だけど同じくらい速い乗り物はある」


 涼晴はにやりと含みのある笑みを浮かべてから、ちょいちょいと手招きをした。


「一度、安隅の屋敷に行こう。良いものを見せてあげるよ」

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