第2話 仮面夫婦の本心は
朝餉を済ませた
「また嫌われてしまった……」
伊織は力なく肩を落としていた。
そして思い立ったように調理台に置かれた帳面に手を伸ばし、パラパラとページをめくる。帳面の表紙には『献立帳』と記されていた。
小松菜と油揚げの味噌汁のレシピが記されたページを開く。味噌大匙2と記された箇所に1/2と書き足し、帳面を閉じた。
「料理もまともにできないようでは嫁失格ですね」
溜息交じりに呟いた直後、どこからともなく女の声が聞こえてきた。
「伊織よ、出て来てもよいか?」
周囲には誰もいない。……が、伊織は驚く素振りを見せずに女と会話をした。
「構いません。出ておいで、
伊織が許可すると、背後から人の形をした影が現れる。影は宙で揺らめいてから、白い着物を着た女へと姿を変えた。
紫色の長い髪に肉感的な肢体、顔は狐の面で覆い隠されている。顔が見えずとも、美しき美貌を彷彿させた。
そして背中には、ゆらゆらと九つの尾が揺れている。人間とは到底思えない風貌だった。
彼女は伊織の使役する妖、玉藻前。
その昔、絶世の美女に化け、帝を誘惑して国を傾けようとした九尾の狐である。現代では最恐の妖狐として恐れられている。
玉藻前は宙でふわふわと漂いながら伊織の隣にやってくる。
「伊織、あのような素っ気ない態度を取ったら嫌われてしまうぞ」
心配というよりは、どこか揶揄っているような口ぶりで指摘する玉藻前。その言葉で、伊織はもう一度溜息をついた。
「もうとっくに嫌われていますよ」
夫である
嫌味の一つや二つ言われても仕方がない。むしろ椀をひっくり返さず食事を続けてくれただけマシなのかもしれない。
それに家同士の対立以外にも、嫌われている理由に心当たりがあった。その件に関しては、どう考えても伊織に落ち度がある。
伊織の嘆きを聞いた玉藻前は、やれやれと言わんばかりに両手を仰ぐ。
「これでは屋敷から追い出されるのも時間の問題だな」
「そうならないためにも、旦那様を不快にさせないように気配を消しているのです」
嫌われているのなら、関わり合いにならないのが一番だ。伊織はこの屋敷に来てから、恭一郎との関わりを避けてきた。
会話は最低限に留め、屋敷内でも顔を合わせないよう自室に籠る。食事の仕度や掃除、洗濯などの家事は、恭一郎が出掛けてから手を付けるようにしていた。
そのおかげで、朝夕の食事以外ではほとんど鉢合わせることはない。
関わり合いを持たなければ、これ以上嫌われることもないはず。屋敷から追い出されないためにも、伊織は気配を消して過ごしていた。
そうやって我慢を続けているのには理由がある。この結婚生活が破綻すれば、両家の関係は悪化するからだ。
夫婦関係を継続できなかったせいで両家が対立するなんて事態は、何としても避けたい。波風立てずに過ごすためにも、気配を消しておくのが一番だ。
伊織の心中を知ってか知らずか、玉藻前は励ますように伊織の肩を抱いた。
「案ずるな。いざとなったら
伊織は金色の瞳に圧を込めながら、玉藻前を見据える。
「旦那様には妖の力は使いません。妖の力で当主を陥落させたと知れれば、余計に関係がこじれます」
はっきりとした口調で告げる伊織。強い意思を感じ取った玉藻前は、クククっと可笑しそうに笑った。
「自らの力で鬼の小僧を陥落させるというわけか。それなら少しは鬼の小僧に気を許すべきだろうな。伊織が心を閉ざしているうちは、鬼の小僧だって警戒心を解かないだろう」
玉藻前の助言を聞いた伊織は、悩まし気に両腕を抱える。
「気を許す。それは難しいですね……」
他人に心を許してはいけない。母の姿を見て、そのことを強く実感してきた。
伊織の母は才能のある妖使いだったが、伊織を産んでから妖力を無くした。
よくある話だ。自分の妖力を無意識で子どもに引き継いだのだ。
しかし妖力を無くした後も、母はその事実をひた隠しにしていた。
五年間は何とか隠し通せた。しかし、ふとしたきっかけで母は妖力を失ったことを父に明かしてしまった。
すると父は、妖力を持たない嫁に価値はないと告げ、母を屋敷から追い出した。
伊織がどんなに泣いても、父の決定が覆ることはない。妖力を持つ伊織が母と共に屋敷を出ることも許されず、幼い伊織は泣きじゃくりながら母を見送ることしかできなかった。
母は屋敷から出る直前、伊織を抱きしめながら告げた。
『強く生きるのですよ。あなたの力は人を助けるためにあるのです』
母と別れてから十年以上経ったいまでも、その言葉だけは鮮明に覚えていた。
その出来事がきっかけで、伊織は心を閉ざすようになった。
信用できるのは自分だけ。たとえ伴侶であっても心を許してはいけない。
母がいなくなった日から、そう胸に誓った。
そんな伊織の心が玉藻前に気に入られたのだ。
御三家では、8歳の誕生日を迎えた際に、召喚の儀を執り行う。そこで伊織は、かつて帝を色香で惑わせた最恐の妖狐、玉藻前を召喚したのだ。
『おぬしの気高い精神、気に入ったぞ。契約してやってもよいぞ』
その日から、伊織は玉藻前を使役した。
そんな過去があるからこそ、いきなり伴侶に心を許せというのは難しい話だった。相手が榊家の次期当主なら尚のこと。
「こちらの腹の内を見せずに、旦那様を陥落させられたらいいのだけれど」
伊織のぼやきを聞いた玉藻前は、クククッと可笑しそうに笑った。
「それはなかなかに手練れな芸当だな。まあ、妾の得意分野ではあるが」
「だから玉藻前の力は使いませんって」
「分かっておる。だけどまあ、助言くらいなら聞き入れてもよいのではないか?」
伊織はしばらく考え込んだ後、静かに頷く。
「それくらいなら」
その反応を見て、玉藻前は口元に手を添えながら笑った。それから伊織の顔を覗き込んで怪しげに告げる。
「では手始めに、鬼の小僧を夜伽に誘え」
伊織は玉藻前を凝視した状態で固まる。沈黙に包まれた後、伊織は力なく首を振った。
「私のような小娘では相手にされませんよ」
◇◆◇◆
一方、居間に取り残された恭一郎は、畳の上で両手両足を放り出して、天井を見上げていた。
「今日も駄目か……」
先ほどの出来事を振り返りながら溜息をついた。すると、どこからともなく男の声が聞こえてくる。
「連戦連敗じゃないか。小娘一人ものにできないなんて、情けない男だな」
恭一郎の背後から人の形をした影が現れる。影は宙で揺らめいてから、筋肉質な男へと姿を変えた。毛の逆立った赤髪に鋭い眼光、額には二本の角を携えている。
彼は恭一郎が使役する妖、
数多の鬼を従えて都を騒がせた鬼の頭領で、最強の鬼として恐れられている。
恭一郎は目の前でせせら笑う鬼をギロっと睨みつけた。
「勝手に出てくんじゃねーよ、酒呑童子」
威圧する恭一郎だったが、酒呑童子にはまったく通用しない。
「そう邪見にするな。お前が思い悩んでいるようだったから、相談相手になってやろうと思って出てきてやったんだ」
「お呼びじゃねーんだよ。さっさと消えろ」
追い払うようにシッシッと手を払う恭一郎だったが、酒呑童子は嘲笑うかのようにニヤニヤと笑うばかり。
「いくら小娘の気を引きたいからって、飯にケチをつけるのはいかんだろう。あんなのは
「じゃあどうしろって言うんだよ? 話を振っても『ええ』『そうですか』『かしこまりました』の一言で済まされるんだぞ? まるで相手にされてない。あいつが屋敷に来てから、ずっとこの調子だ。少しばかり嫌味を言えば反発してくると踏んでいたが、それも駄目だ」
「小僧の話の振り方が悪いんじゃないか? もっと会話が続くようにすればいいものを」
「話が続くようにこっちから質問したこともあったさ。だけどあいつは『はい』か『いいえ』でしか返してこない。俺以外の人間とは普通に話しているから口下手ってわけでもないんだろうけど」
「それはあれだな。小僧が嫌われているだけだ」
酒呑童子の言葉に、恭一郎は意気消沈したように項垂れる。
「そうなんだろうな……」
もともと敵対している家同士の政略結婚だ。こちらに良い印象を持っていないことは少なからず予想していた。
だけど、一方的に嫌われるのはやっぱり堪える。
「せめてちゃんと会話がしたい。もういっそ、喧嘩でもいいから……」
恭一郎の弱気な発言を聞いた酒呑童子は、小馬鹿にするように鼻で笑いながら言った。
「哀れな男だな。好いている女から嫌われているなんて」
「おい、やめろ」
「照れるな、照れるな。俺はお前のことなら大抵理解できる。伊達に長い間行動を共にしてきたわけではないからな。お前があの小娘にご執心だってことも、よーく分かっておるぞ。縁談の話が出る以前から、ずっと気に留めていたんだからな」
「それ以上続けるなら、祓うぞ」
恭一郎は酒呑童子を睨みつける。あからさまに敵意を示された酒呑童子は「ほう」と呟きながら大きな手の平で恭一郎の頭を鷲づかみにした。
「生意気な小僧だ。言っておくが、俺とお前の関係はあくまで対等だ。俺がその気になれば、お前の魂を食らうことなんて容易い」
「そんな真似しようものなら、二度と現世に出て来られねえようにしてやるよ」
恭一郎と酒呑童子はジリジリと睨み合う。お互い一歩も引く気はなかった。
「少しばかり妖力が強いからって調子に乗りやがって」
「少しばかりじゃねえ。当代最強だ」
いまにも戦闘が始まりそうな緊張感が漂う。睨み合う二人だったが、酒呑童子がフッと馬鹿にするように笑ったことで直接対決は免れた。
「まあでも、あの性悪女狐と関わるのは俺もごめんだ。あいつには過去に何度もしてやられたからな」
「なんだ? 玉藻前と因縁でもあんのか?」
「昔の話だ。あの女狐と恋仲になったら酷い目に遭った」
恭一郎は「ふーん」と興味なさげに呟く。すると酒呑童子は口の端を持ち上げてにやりと笑った。
「だが小僧、ひとつ忠告しておくぞ。女を知らずに死ぬのは味気ないものだぞ。お前のような奴は、いつどこで足もとをすくわれるか分からない。死ぬ間際になって後悔しても遅いぞ」
恭一郎は冷めた表情で酒呑童子を睨む。
「余計なお世話だ」
◇◆◇◆
冷え切っているように見える二人の関係だったが、実際の所は互いに嫌われていると思い込んでいるだけだった。
むしろ恭一郎に至っては伊織に好意を持っている。しかし、伊織があまりに素っ気なさすぎて距離を詰められずにいた。
そんな二人が新時代の平和を象徴する、仲睦まじい夫婦になる日が来るのか?
これは人の愛し方を知らない不器用な二人が、相思相愛の夫婦になるまでの過程を綴った物語である。
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