巻の十二 終幕
療養ということで地上に滞在し、少しの会話ならゴーグルの翻訳機能がなくとも交わせるようになってきていた頃、
「やはりアナベル・リー号を専用のドックで修繕する必要があってな。少しばかり、戻ってくるまでに時間がかかることになろう、という話じゃ」
頑丈とはいえあれだけの砲撃を受けたのだ。冷静に考えれば当たり前のことである。しかし、
「……では、自分も、ここを離れる、と」
思わず、口ごもってしまう。歳助に案内されて庭先にやってきた艦長が身体を揺らして、王宮の装束を着たアレックスの前で呵々と笑った。
「自分の人生の意義をようやく見つけたばかりの男に、そんな不粋なことは言わぬよ。しばしの別れ、ということにしようじゃあないか」
そして、ガードナー艦長は静かに言った。
「艦長から操縦士アレックス・アレキサンダーへ辞令を。惑星909985『うつくしの宮』通訳兼正使として本日より再着任を命ずる。旗艦アナベル・リー号が修理を終え戻ってくる時まで、当地との交流、研究、言語習得などよく励むように。それらに必要な機材として『シュトルム』を貸与」
そして、片目を閉じていたずらっぽく笑う。
「……という名目で、おぬしに必要なものはこうして置いていくから安心しなさい」
「艦長」
「わしらも、修理が終わったらこの星にまた戻ってくるよ。少しばかり時間はかかるが、必ず。それと……例の布を半分貰っていこう。然るべきルートで売れば、艦の修理費にもなる。ありがたく使わせて頂くが、いいかね?」
「もちろんです」
「半分は残しておくゆえ、おぬしがこの星で自由に使いなさい」
「ですが、自分は………」
「アレックス。……ただただ収奪するのではなく穏やかに共存する。そういう道もあるのだと胸を張りなさい。おぬしこそが、ここでそれを成せる唯一の男なのだから。……帝国は大きくなりすぎておる。新たな道を模索する時期が、近いうちに必ず来るとわしは見ておるのだよ。そう、近いうちに、必ず」
収奪ではなく、共存。それこそが目指すべき場所なのである、と、この星に滞在して知ったのは他でもない自分である。
「そうなれば、ここは我々の『占領地』ではなくなる。しかし、それでもおぬしを必要としている者達が、この王宮にはたくさんおるようでな。通訳や正使を務めた者がそのままその星で独立するなどということは、比較的よくあること。違うかね?」
アレックスが思わず目を見開いた。
「わしとていざという時は老朽艦一隻を買い取って、辺境の星でのんびり余生を送る程度の老後の貯蓄はあってのう。その時はよろしく頼むよ、正使殿。麗しの女王陛下と、ミナとサイスケにもよろしく」
「はい。必ず、伝えます」
王宮前の広間に、気球型の船が降りてくる。遠巻きに人々が眺めるその視線も、以前ほどに剣呑なものではなくなっていた。ゴーグルを通してほのかに香る香のように感じ取れる、人々の感情。
「何から何まで、お世話になりました」
「これからも、な。いつでも『手紙を』送ってくるんじゃよ。もちろん、端末の方に、な」
「……かしこまりました、サー。副艦長にも、ハドソン整備班長にも、クルーの皆にも、宜しく」
艦長が乗り込んだ気球型の船がアナベル・リー号に収監され、大きな船が緩やかに動き出す。去り行くものに手を振るという行為は色んな星に共通しているらしい。人々に見送られながら去っていく船を眺めて歳助が呟く。
「……いつか、ああいうものに、乗ってみたいものです。あれに乗れば、星の向こうにも文を届けられるのでしょう?」
もしかすると、この星からパイロットが輩出される日も近いかもしれない。
「いつでも教えよう」
宮の外の市場に繋がる大広場には、シュトルムを駐めたままにしてある。位置を行きかう人々の新たな『名所』と化しているらしい。振り返って歳助に言うと、
「……姉上の部屋に三日以上も泊まっておいて何もないだなんて」
歳助はつんとそっぽを向いて呟いた。
「三日泊まると、何かあるのか?」
實奈子が手にした檜扇を取り落としかけながら、慌てた素振りで真っ赤になって言う。
「あれは、傷の手当てだから、しょうがないの。だから、そんなことを言われるとわたくし、困ってしまうわ……」
「この宮では男が三日、女人の部屋に寝泊まりするのは……」
「歳助!」
「婚儀の証なんだ。だから、しっかりしてくれよ、星の少将!」
思わず目を白黒させるアレックスの背中を叩いて、歳助が走り去っていく。
「……えっと、その、三日目の朝に、二人で一緒にお餅を食べるのを、三日夜餅(みかよのもちい)っていうのです。ああ、でも、まだ、食べていないわ。だから、その、大丈夫でしてよ。それに、何人も奥様をお持ちの殿方だってここには普通にいらっしゃるわ」
「え、えっと、なるほど、そうか。そういうものなのか……俺は、その、妻は一人で十分だと思うんだが、やはりここの王宮は、すごいな………」
「え、ええ」
なんと答えるべきかわからなくなったのか、實奈子も珍しくしどろもどろになって、檜扇についた紅い房を指先でもじもじといじっている。その妙に愛らしい仕草に、微笑みをこぼしながらアレックスは言う。
「それで、『みかよの、もちい』か。不思議な名前だな」
やはりここには、自分の知らない数々の風習がまだまだ山のようにある。しかも、一夫多妻制も良しとされているらしい。
「でも、それを食べないと……あなたはいつか星の向こうに帰って行ってしまうのかしら。あなたは、星を渡るかささぎ鳥だもの」
實奈子が少し寂しそうに微笑む。
「いや、俺はまだ、この星にいたい。できれば、ずっと。これを、なんて言うのかわからないが……」
風が吹いて、そんな彼女の髪が揺れる。この長い髪が風に揺れるうつくしさに感動すらしている心持ちを、不器用な自分は一体どう伝えれば良いのかもわからない。きっと自分の心も、この黒く長い髪は絡め取ってしまったに違いないというのに。
「『代書屋』というものがあるらしい。この王宮の言葉と、星の言葉を、繋ぐ仕事だ。文字と言葉を一人前に習得して、俺はそれに、なってみたい。女王陛下……主上から頂いた布もある。きっと独立するときに役に立つだろう。……アナベル・リー号が戻ってきたら、艦長達に相談してみようと思う」
生まれたときから死ぬまで定められていたはずの生き方ではない、もっと別の生き方。それを恥じることなく歩んでいけるだけの場所と人々に恵まれた幸せを噛み締めながら、アレックスは言う。
「この星で、この宮で………あなたと共に生きるというのはきっと、幸せなことなのだろうな」
そして、自分の人生というものを絡め取った、黒くうつくしい髪に触れて、不器用に小さく微笑んで空を仰ぐ。
「ええ、ええ、花の月夜も、雪の月夜も……わたくしはあなたと見てみとうございます」
實奈子が顔を上げて、同じように空に視線を投げる。
「あなたがいなければ、『月』という文字もわからないまま、生きていたと思う。花だって、うつくしいとは知らないままだっただろうし、雪を見るのがこんなにも楽しみになるなんて、思いもしなかった」
空に浮かんでいた大きな鯨の様なアナベル・リー号が去り、何年かぶりに遮るもののなくなった王宮の青い空の下で、しばし共に無言で佇んでから、ゴーグルを外して翻訳機を切り、自分の言葉で、アレックスは言った。
「………ミナ、俺は、あなたと三日、共に夜を過ごしてみたい」
「返事は、もう、文でなくともよいのですね」
そんな空の眩しさと、そしてこの星でたったひとり茶色の瞳をしている、遠い宙からやってきた青年の真摯な視線を受け止めるように、實奈子は檜扇を閉じると、降り注ぐ日の下で頬を染めながら柔らかく微笑んだ。その紅く優しい唇に、アレックスはそっと人差し指の先で触れる。
何かを待ち焦がれる女の唇は、こうも熱いのか。
「ああ。言葉を、文字を、うつくしいものを、こうして、知って、知って、あなたに、今やっと届いた気がする」
そして何かを求め続ける男の魂もまた、燃えるように熱い。この初めて知ったはずの自分の魂の熱量が、次に己が何をすべきなのかを、静かに教えてくれる。
「ええ。アレックス、うつくしが宮のかささぎ鳥、そして……わたくしだけの、荒草の君」
衣と衣が擦れあう音が、妙に大きく耳元で聞こえる。幾重もの衣を纏った女の背中のしなやかさを、背中に回した掌の感触が教えてくれる。實奈子の白い腕がするりとそんなアレックスの耳の横を通り抜け、背後の御簾を静かに降ろす。心を尽くした言葉と文字を、深く深くやりとりした後にのみ訪れる、魂と魂が燃えるような交歓。
星から降りてきた男は、生涯他の女を娶ることなく、ただ一人の女房を愛し添い遂げたという。
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