巻の十一 星の少将

「一体、これはどういうことだ」

 丁重に運ばれていくアレックスと、自分達一隊に注がれる『女王陛下』らしき女性からの剣呑な視線を前に、レジスタンスのリーダー、シャーガン・リングラムドが困惑を隠せずに言う。電磁ベルトで拘束されたままガードナー艦長が悠然と言った。

「……あのパイロットはこの王宮との交流に力を入れておってな。このままではおぬし達がこの星の民の敵になるが良いかね?」

「交流だと」

「おぬしらの考える銀河帝国の搾取や支配は、残念ながらここにはないよ。つまり今この瞬間、おぬしらは正義ではない」

「………」

「帝国も大きくなりすぎた。このような『資源のない星』にはわしのような老いぼれ艦長に、老いぼれ船を宛がって、定義だけは『占拠』ということにしたんじゃよ。実態は、こうしてのんびりと親交を築き、信頼を得て、ああして怪我の手当てもして貰えるまでになった。言葉は通じずとも、我らは『友』なのだよ」

「それが帝国の洗脳か。このような未開の地の、文明度の低い場所で……」

 ガードナー艦長が呵々と笑う。

「洗脳もなにも、言葉も通じない、機械もない国で、信頼を勝ち得るには時間が必要じゃよ。……そうそう、女王陛下のおわす王宮の奥に土足で踏み込むなどという蛮族の仕草は、文明度の高いこの星では特に、おすすめしかねるがね」

 電磁ベルトで拘束したはずの艦長の足元に思わず目をやると、いつの間にか靴を脱いでいる。運ばれていったあの戦闘員が何故素足だったのか、そして何度も『土足で入るな』と言われた理由もまた、ようやくのことで理解する。そして、理解が遅かった、ということも、初手から『間違えた』ということも、同時に。

「おぬしはどこから来たのかね」

「……西域357エリア」

「西域は昔から激戦区じゃからなあ。帝国もレジスタンスも引っ込みがつかぬ、泥沼の不毛な争いだ。こうして、靴を脱いで王宮に上がるような穏やかな星は、はじめてかね?」

「………」

「わしは年寄りじゃからな。面倒な締め付けの要るブーツは合わなくてのう。着任前に、屈まずに脱げる靴を新調しておいてよかった。おかげで、女王陛下の部屋に土足で入らずに済んだでな」

 深々と、うつくしい高御座の方へ頭を下げる。そして、振り返ると目を細めて付け加える。

「船を破壊し、我々帝国の者を皆殺しにし、このうつくしい星を占拠したければそうしなさい。……だが我々もまた、生きる意味を知らぬ者に、無意味に殺されてやる義理はない。おぬしも、辺境の星で無様に死にたくはなかろう」

 己の船のクルー達には聞かせたこともない、低く冷徹な声だ。

「……命乞いにしては強気だな」

「いいや。年寄りの義務として、より良い命の使い方を説いただけのこと。だがわしは、アレックス……あのパイロットほど心優しくはなくてな」

 くつくつと笑って付け加える。

「………わしもまた、この星のうつくしさは理解しておるが、善きものうつくしいもの全てがつまらぬ虫に食われる前に処分してしまう、という古き良き銀河帝国ならではの悪辣な方法にも、それなりに理解は示しているのだよ」

 そして、ちらりと胸元のポケットに、意味ありげに視線を落とす。シャーガンがその胸ポケットを見て息を呑んだ。

「こいつの威力は半径幾らだったかな。歳を取ると忘れっぽくていかん」

 胸ポケットに入っていたのは、帝国製の小型特殊爆弾のケースだった。

「指紋声紋二重認証式でな。生きているこのわし以外に解除はできんよ。こいつがたった1匙分で隣近所が軽く吹き飛ぶエネルギー源なのは、おぬしらもよく知っているじゃろ。アナベル・リー号は古い船。今ではご禁制の危険な兵器もそれなりに積んでいるのだよ」

 ガードナー艦長の真意を、そして真実か虚偽かを測りかねてレジスタンス達がざわめく。

「頑丈とはいえ古い艦。どの道、長時間の戦闘には向きはせん。ならば艦とご禁制の品々が辺り一帯のレジスタンスと一緒に吹き飛んでくれれば、わざわざ処分する手間も省けて帝国にしてみれば一石二鳥、それこそ三鳥というもの。わしがこのまま帰らなければそうなるが、試してみるかね? アナベル・リー号は呪われた女、そう言われていたのをご存じかな」

 ぞっとするような視線をレジスタンスのリーダーに投げかけてから、ガードナー艦長は何時ものように鷹揚に笑う。

「………というわけじゃ。この電磁ベルトを、解いてはくれないかね、リーダー殿。腰痛に効きもしないベルトを長時間巻かれるのは、老骨に響くんじゃよ」


*


「レジスタンスが撤退した、と」

「はい、艦長。クルーからの連絡もありました。皆アレックスの船に隠れていて怪我もないと」

「世話をかけたな、ヘレネ君。おぬしが無事で本当によかったよ」

 砲撃されていた艦内に最後まで残っていたのはヘレネだった。

「アナベル・リー号の損傷は?」

「我々の船は老朽艦ですが頑丈なのが取り柄ですよ艦長。損傷50パーセント未満。墜落の危険はなしと判断しました。艦底に積まれていた予備の滞空用電子空挺セイルが無事でしたので、念の為展開して空中待機および燃料を温存中です。それよりアレックスは………」

「この王宮の奥で手当てされておるよ」

「手紙が、功を奏したのでしょうか」

 艦長が人差し指を唇に当てる。

「まあ、老朽艦には老朽艦なりの戦い方があってな」

「集音マイクで全部聞いていました。何て無茶をするんです艦長。そんな危険な兵器なんてアナベル・リー号にはひとつも積んでいないというのに………」

 ヘレネが大きく息を吐いて、思わずその場に座り込む。

「まあわしは口八丁だけで何十年も軍を渡ってきた男じゃからのう。心配をかけてすまんかった」

 いつも冷静なはずの副艦長が、泣きそうな顔で艦長を見上げて無言で頷き、息を吐く。

「それに、この星には資源がない、と言ったのも良かったと見える」

「え?」

「……星の解放、も大義名分じゃが、いつの世も反乱分子に足りぬのは補給物資じゃよ」

「もしかして、アレックスの兵站補給船でクルーを避難させたのは……」

 片目を器用に瞑って、艦長が微笑む。そして、胸元から特殊爆弾によく似せただけの技術班謹製のただのプラスチック製のケースを取り出して、ブーツの踵でのんびりと踏みつぶす。

「補給船が拿捕されたら、どこに何の資源があるか丸わかりじゃからな。このうつくしく静かな星を不毛の地にするのは惜しい。そう思わないかね、ヘレネ君?」

「艦長」

「苦労をかけるね」

「いいえ。私の艦長は貴方以外にはおりません。捕まったときは、本当に、どうしようかと……」

「よくやってくれたよ、いつも通り」

 『星から降りてきた女性』が珍しいのか、庭に面する御簾がちらりちらりと揺れている。

「見られて……いますね」

「そうかね」

 王宮の中庭で、ガードナー艦長が鷹揚に微笑む。そして

「ヘレネ君」

「なんでしょう」

「手を」

 座り込んでしまったヘレネ副艦長をそっと立ち上がらせてから、その手の甲にゆっくり唇を落とす。

「わしは生きている限り、おまえさんの艦長でいるよ」

 耳の先まで真っ赤になったヘレネ副艦長が

「………もう若くない女をからかうのも大概になさってください」

 やっとのことで、言葉を絞り出す。

「艦の修繕を整備班に指示して、皆にあなたの無事も知らせなければ」

 そこに、一人の少年が足早に駆けてくる。二人の前で、何やら言いたげに言葉を探しているらしい。

「困ったのう。レジスタンスどもから翻訳ゴーグルのひとつでもぶんどっておくべきだったか」

「命を捨てるおつもりですか」

「それで………もしや、アレックスのことかね」

 少年がその言葉の意味するところを察したのか、何度も頷き二人を手招きする。

「行きましょう。まずは彼の無事を確認しましょう。緊急医療キットを持ってきてあります」

「うむ」

 二人が急ぎ足で歳助の後へついていった。


*


 孤児になるよりも昔、誰かと見たのだろうか。温かい腕に抱えられて眺めた、入館料もないような古めかしい全方位キネマスコープに映るうつくしい世界が、ぼんやりと漂う意識の中に、鮮やかに展開されていく。

 自分の小さな指が、暖かい、だがもう顔も思い出せない誰かの指を掴んで離さない。何か、話してみたいことがあるはずなのに、頭に靄がかかっていて、言葉もまた出てこない。

 うつくしい森、海、色とりどりの種族が炉端で愉しく語り合う、うつくしく穏やかな、優しい世界が目の前で展開されていく。ヘレネ副艦長から貰ったデータの中にもあったような、古のうつくしい物語の数々。

 戦争に巻き込まれ、孤児になり、帝国に拾われて戦闘訓練プログラムを受けている間に忘れてしまっていた、自分のささやかな原風景。こういうものを、自分は確かに見ていたのだ。

 うつくしい、ということを、自分は確かに知っていて、それをあまりにも長い間、記憶の底へと埋めてしまっていたのだ。

 戦災孤児センターでの暮らしはあまりにも逼迫していた。そして兵士不足を補うために、一定の年齢を超えると帝国の兵士養成所へ送られる。腹を空かせることはないが、世界は味気ない灰色でしかなかった。

 けれどそんな自分の心の一番深い場所に、うつくしい種をそっと植えてくれていたのは、おそらくは亡き両親だったのだろう。自分に何も残さずに戦火の中で息絶えたはずの両親が植えた種が、この星でようやく、そして偶然にも芽吹いたのだ。

 月の光、山の灯火、宇宙をとぶかささぎ、うつくしい宴。

 次々にぼんやりとした霞の向こうから、記憶が蘇ってくる。

 ふ、と掌に、誰かの掌が、否、指先が僅かに重なっているのを感じ、アレックスは目をゆっくりと開く。

「ミナ」

 黒く長い髪が、カーテンのように目の前で揺れる。熱を持っている焼けた傷口には何重も布が巻かれ、冷たい水で冷やされている。

 そして、黒くうつくしい瞳、短い眉、そして長い黒髪はひとつにまとめられて、うつくしい色の服を身にまとっている女が、ゆっくりと振り返った。年の頃は少し自分よりも年上だろうか。穏やかな表情のせいで、そう見えるだけだろうか。

「目が覚めたのですか」

 あれだけの出血で、よく生きていたものだ。何発も殴られた痕が青黒く変色し、強打した顎にも冷えた布が巻かれていた。思わず目を瞬かせる。

「先王様の御代になる前に大いくさがあって、医術に長けた者もこの宮にはいるの。祈祷も執りおこなっているのよ」

 気を失ってもゴーグルは握りしめていたらしい。枕元に置かれたそれを、あまり動けない体で見つめると、實奈子が不思議そうにそれを手に取った。

「これはなにかしら。それに、わたくし、いまのあなたを、なんと呼べば良いのかしら」

 このうつくしい王宮を血で汚すことを躊躇いさえしなければ、このような大怪我を負うことはなかっただろう。レジスタンス制圧プログラムに、このようなうつくしい場所での戦闘は想定されていただろうか。想定されていたとしても、自分はプログラム通りに対応できただろうか。

 どこからか、人の声の波の様な不思議な調べが聞こえてくる。握りしめていたゴーグルのスイッチは入ったままだった。

「あれは なんですか ふしぎな ひとのこえ きこえる」

「祈祷のことかしら。我が君があなたのために祈らせるよう取り計らってくれたのよ」

 ゴーグルに『女王陛下』『祈りの言葉』『命じる』などと表示される。

「ありがとう」

 何やら自分の回復を祈ってくれたらしい、ということを察して、思わず頭を下げようとし、呻き声を上げる。

「まだ治っていないのよ。ゆっくり身体を休めて」

 そこに足早な複数の足音が聞こえる。

「アレックス、無事かね」

「緊急医療キットを持ってきました。万能造血剤と抗生物質です。簡易注射型なので早急に注入できます。応急手当は……」

「丁寧にしてくれたようで何よりだ。感謝せねば」

「傷を縫いとめるキットもあります。早急に出血だけは止めておかねば」

 ぼんやりと二人の顔をようやく視認し、

「ご心配をおかけして、申し訳ございません」

 やっとのことで、頭を少し下げる。

 ヘレネ副艦長と艦長が、差し出した腕のパイロットスーツを捲りあげて、素早く簡易注射を打ち、實奈子と歳助がぎょっとするよりも早く腰の部分もめくると、大きなホッチキスのようなキットを直に血で濡れている肌に当てる。ガシャリ、という音と共に直接ずぶりと肌に針が打ち込まれる感覚。アレックスが小さく声を上げると、實奈子と歳助が思わず硬直する。

「レーザー銃は銃創が焼けるが広がらない。ひどくやり合ったようじゃが骨も折れてはいないようだ。あとはここでの手当だけでも大丈夫じゃよ」

 傷を冷やすパッドを貼り付けて、再度布を巻き直し、冷たい水で冷やされた布も、丁寧に置き直す。そして二人は、深々と實奈子達に頭を下げた。

「言葉が通じないのは不便じゃなあ」

「ええ、ですが」

 戸惑いながら、それでも深々とした傷口に何かを施してくれたと判断したらしい實奈子と歳助が、その場に座り直して静かに平伏する。艦長とヘレネ副艦長もまた、慣れない座り方で同じように平伏して、四人で静かに視線を交わす。

「………問題ない、と判断します」

 ヘレネ副艦長が優しく微笑んだ。横たわるアレックスの手に小型端末を握らせる。

「予備の小型端末をあなたの番号で登録しました。持っていなさい。しばらくはここで療養したほうがいいでしょうから」


*


 聞き慣れないアラームが耳元で鳴った。そういえば予備の小型端末を借りたのだった、ということを思い出して、アレックスは目を瞬かせながら、起き上がろうとする。

 不思議な形の高い枕から、身体が揺れないようにゆっくりと頭を降ろし、苦労して端末のスイッチを入れる。プロフェッサーからだった。

『……一日も休まなかった君が昨日の最終講義に限ってこなかったからどうしたものかと、おや?』

 そういえば昨日の夜は最終講義の日だったということをようやく思い出して、端末の全方位映像機能をオンにしつつ、まだ朦朧とした頭でアレックスは答える。

「その、戦闘に巻き込まれて……少々負傷しまして。小型端末からで失礼します」

『……やはり、レジスタンス軍は動いていたのか』

「あの時忠告していただいたおかげで、こちらも早く動くことが出来ました、なんとお礼を言えば良いか」

『礼には及ばない。しかし随分とうつくしい部屋にいるものだ。実に興味深い。それと怪我をしているようだが、最優先事項を伝えよう』

「最優先……事項?」

『おめでとうアレックス君。惑星研究プログラムの言語研究部門、文化研究枠での特別奨励賞だ。帝国中央部にある翻訳機データベースへのアクセス権限と思念波受信AIゴーグルのフォーマットを送信する権限が認可された。喜ばしいことだ』

 ゴーグルからいつもと異なる電子音が響く。

『今から送るデータを自分のゴーグルと端末にインストールするように。これからの君の研究にいくらか役に立つだろう』

 プロフェッサーが三つ目のうちの、普段は閉じている額の目を開く。

『……我々の種族はこの三つ目の瞳で心と心を通わせている。帝国には、我が一族の星の存続と種の保存と引き換えに、この非接触交感能力を演算して数値化することに協力したのだ。実現までには数十年を要した。私達長命種にとってはあっという間だったがね』

 端末に興味を持ったのか、實奈子が目を丸くしてそっと後ろから覗き込み、三つ目の男を見て小さく声を上げる。

『もっとも、真の交感は数値化できないところにあるのだがね。驚かせてしまったようだ。恋人かね?』

 思わずアレックスが真正直に答える。

「い、いいえ、まだ……」

『まだ?』

「あ、その、えっと、まだ……言葉も、少ししか通じませんが……彼女と手紙をやりとりしていなかったら、今こうして生きてはいなかった。そういう、ことです」

『命の恩人かね。大事にしなさい。言われずとも、君はきっとそうするだろう。交感せずともわかることだ』

 プロフェッサーが、再度おそるおそる端末を覗き込んだ實奈子に深々と礼をする。三つ目の瞳が柔らかく光っている。

『我が優秀な生徒の一人、アレックス君を宜しく』

 實奈子もまた深々と礼をする。アレックスがふとデータのダウンロードが終わったゴーグルを再度かけると、

「………はい、はい。通じております。ああ、なんという不思議なこと」

 實奈子のうつくしい声が、ゴーグルを介して『自動的に』自分にも理解できる言葉になって聞こえてくる。思わずアレックスは声をあげた。

「ミナ、聞こえるか」

 ぎょっとして實奈子が振り返る。小型端末の方から、自分の喋る声が、この星の言葉に変換されて響いている。この宇宙で感情と言葉を持つ者であれば、完全に語り合うことが出来る、完全互換の翻訳機。

「荒草の……いいえ、アレックス、アレックス? 聞こえているの? これはなあに? どうしてこちらから、この小さな板から話しているの? わたくしの言葉が、わかるようになったの?」

「『ゆかしがる』の意味を、聞こうと思っていたんだ」

「そういう何でも知りたがる人のことを、『ゆかしがる人』っていうのよ………」

 アレックスが微笑んだ。

「まるで、今のあなたみたいだ」


*


 血まみれになったパイロットスーツは宮の皆が苦労して何度も水で洗い直してくれたらしく、庭先の木に干されている。この宮の男達が着ている独特の白い装束と黒く高さのある帽子を与えられ、歳助の手助けと共に時間をかけて着込む。傷痕はまだ生々しかったが、それでもようやく起き上がれるようになり、三日が経っていた。

『星の少将』

 いつの間にか自分にはそんな呼び名が付いているらしい。空を飛んで庭に降りてきた、という警固の男達の目撃談もあっという間に、いくらかの大げさな話になって共に広がってしまっているらしい。新しい布を巻き直してくれる實奈子にこの宮における官職一覧を教わった時には素直に仰天したが、

「俺は艦でもそこまで偉い役職ではないのに、いいんだろうか」

「大丈夫でしてよ。あなたがここの宮を守ろうとしてくれたのは、皆が知るところだもの」

 確かに、王宮で彼らに声をかけてくる者達からゴーグル越しに微かに伝わる感情や視線に明確な敵意がないのも、挨拶を交わすことができるのもありがたかった。

 この装束にゴーグルをかけて、歳助や實奈子に連れられながらこの王宮独特の長い渡り廊下を歩いていると、すれ違う白い服の警固の男達や、官僚らしき華やかな色の衣裳をまとった身分の高い人々、時には御簾の裏にいる女性達からも、声をかけられることも増えてきている。

 端末とゴーグルを使えば、意思疎通も以前とは比べものにならないほど出来るようになった。星のことやアナベル・リー号について問われ、廊下で話し込むこともある、そんな穏やかな日々。

 日暮れには、實奈子や歳助を相手に、筆で言葉や文字の書き取りの練習をしたり、ヘレネ副艦長がくれた物語をこの星の言葉で語り聴かせる。

「一度、これを使ってみたかったんだ」

「筆を?」

「この星で初めて見たんだ」

 ペンと、黄色いレポート用紙を實奈子に見せて

「……紙は、船にいいのがなかった」

 と言うと、

「やっぱり、そうだったのですね」

 實奈子が檜扇で口元を隠しながら微笑む。アレックスも頭をかいて笑い、筆を手に取って、手習いの草紙を開く。薄明かりと夜の暗さにも似た墨の香りが二人の間を彩り、思念波を受診するゴーグルに、優しい色が表示される。

 この優しい色が何を差しているのか、誰に言われずとも自分は既に知っている。ただ、『心の友』であり、良き『師』でもあるこのうつくしい女性に、今何かを告げるのは、少しばかり早いのではないか、とアレックスは御簾の向こう側で輝くうつくしい月に同意を求めるかのように、視線を投げた。

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