巻の五 遠見筒

 燃える故郷の森を、三つの瞳で為す術もなく見つめたのはもう何十年以上も前だったか。空に浮かぶ帝国の数多の艦船から、列を成して大型戦闘機が飛来する。

『民は殺すな。我が帝国に有用な人材として登用する』

 相手がいかなるタイプの種族であっても感応し、対話できる、数少ない能力。それが自分達の種族、少数民族エレクシュトンの額にある三つ目の感応能力だった。

「対話するのに、炎はいらないというのに」

 隣に潜む部族の戦士がぎり、と歯噛みして呟く。

「故郷があれば、戻ってくることができる。なければ、それもできない。死ぬまで俺達は帝国の奴隷だ」

 巨大な艦が近づいてくる。列を成して同胞達が吸い込まれるように艦へと収容されていく。

 皆、昨日までは同じ森に住まい、共に暮らした家族同然の者達である。

「私は嫌だ。何故好き好んで奴らの奴隷にならねばならないんだ!」

「ヴァニー!」

 あの日、短剣を握りしめた拳に滴り落ちた汗を、鮮明に思い出す。その途端、耳元でアラームが鳴った。サミュエル・ヴァニー・エレクシュトリームは思わず寝台から身体を起こす。

(………夢を見たのか。故郷を夢に見たのは、何年ぶりだろうか)

 帝国でも評議会が力を持つようになり、今では昔のような蛮行は行われていないという。少なくとも、辺境に配備された名もなきパイロットが呑気に通信講座を申し込んでくるような、そんな世の中になっているのだ。

 あの日、容赦なく撃ち抜かれた両脚は今や義足となっている。それでも、帝国の技術の粋を凝らした義足を着用すれば、暮らすのに何の不自由もない。燃えるような復讐心も、一般的な種族よりも遥かに永く緩慢な年月を帝国そのもので過ごすうちに、諦念へと変わり、そしていつの間にか、静かに凪いだ湖面のように、形を変えていた。

(私は、情けない男だろうか)

 時折、そう自問する。共通言語のプロジェクトの人員に抜粋され、三つ目の瞳が発する思念波の受信プログラムを自ら開発した。

(……故郷を失う者は、少ない方が良い。対話するのに、炎はいらないのだから)

 姿や形は異なっていても、どこの星にも、うつくしいものが根付き、うつくしいものが住んでいる。それを尊重し、守るためにも『理解できる力』というのは、重要なのだ。

(否、これが、私なりの……帝国に対する『復讐』なのだろうな)

 分かり合うことというのは、いかなる暴力にも勝る。相手の気持ちを理解できるようになる者が増えさえすれば、焼かれる森も減るというものだ。自分はもう、長命種ならではのそういった『周期の長い』考え方をする歳になっていた。いつの間にやら『プロフェッサー』と呼ばれるようになり、帝国の首都で惑星研究プログラムの通信講座を受け持つようになり、今年で何年目だったろうか。

 銀河帝国の一兵士として幼い頃から育てられたはずのパイロット、アレックスの、少しどもるような語調で、それでも語っていくうちにどんどん熱く、滑らかに、雄弁になっていった音声レポートを思い出す。

 ほんの僅かしか通じ合えなくとも、言葉以上の何かを、必死で掴み、育もうとする、真摯な思い。相手を、相手の住まう文化を、星を、うつくしいということそのものを、知りたがる青年。

「そろそろ講義の時間だったか」

 どうやら今期は、相互理解、というのを心の奥底にあった個人的な復讐心と結びつけなくても良いらしい。

「さて、今度はどんな手紙を貰ってきたのやら」

 少しばかり楽しみでもある事案を口に出して、彼は故郷で燃えずに済んだ僅かな木々から採取した床材をいつものように重い義足で軋ませながら書斎へと歩いていった。


*


『わたくしの 名前は みなこ

「■■子」と 書きます』


「ミナ、コ?」

 アレックスが、何度も何度も手紙に書かれた名前を口にする。ゴーグルの翻訳機で読める文字と、読めない文字が入り混じる文。

「ミナ」

 自分の知る女性名で一番近い発音を口にする。


「うつくしのみや の ミナ」


 自分が手紙をやりとりする相手は、こんなにうつくしい名前を持っている。

 アレックス・アレキサンダーという投げやりな名前、AX203492という無機質な番号しか持たない自分が、少し恥ずかしくなってしまう。だが、物を知らない自分にはこの味気ない名前すら十分でもある、ということを、アレックスは日々痛感していた。


《言語は、その星の文化や精神、考え方などをもっともわかりやすく反映するものである》


 プロフェッサーから送られてきた資料の読み途中の頁がモニターに映ったままになっている。

 もう一度アレックスは實奈子からの文に目を落とす。静かに紙の上をひたひたと歩くようなうつくしい文字。この星の民は皆こんなうつくしい文字を書くのだろうか。それとも『ミナ』の文字が特別にうつくしいのだろうか。

 ふと、ミナの書き送ってくれるこの手紙の文字が特別にうつくしいのだ、と信じることは、何故か少し照れくさく、そして誇らしいことだと気付く。

(この気持ちは、何だろう)


『うつくしの宮の 女王の ■筆』


 動物の毛をまとめてペンのようにしたものを『筆』といい、古くはこれを使って文字をしたためていた民族も多くいるという。毎晩寝る前に必ず聞いている副艦長から貰った物語で覚えた事柄だった。

 動物の毛で作ったペンで、どうやってこのように不可思議な、そしてうつくしい文字を綴っているのだろう。しかし

「女王の……筆?」

 一文字だけ判読できない文章に、紙を何度も持ち替えながら何度も目を凝らす。

 筆、という文字に付随する一文字は何だろうか。データベースを紐解いても、ピンとくるものがない。

 艦長や副艦長ならわかるだろうか。ちょうど艦内は朝食の時間である。アレックスは手紙を片手に、補給船シュトルムのコクピットを出ると、格納庫から船内の食堂がある区画の方へ歩いていった。


*


 ヘレネ副艦長とブースで朝食を取っていた艦長が、アレックスの姿を見て手招きする。

「ちょうどおぬしの手紙の話をしていたところじゃよ。その後はどうかね」

「上手くいっていますか」

 二人に見つめられて思わず背筋を伸ばして敬礼しながら、

「はい。問題はないのですが……」

 アレックスは真面目に、今までに起きたやりとりの内容を報告する。

「まだ、読めない箇所がありまして」

「それが、この『筆』の謎、というわけかね」

「物語が少し役に立っているようでよかったけれど。女王の『何かしらの』筆、と名乗っているのね」

「女王の筆、か。不思議な言い回しじゃが………」

 三人で文を覗き込んで首をかしげる。しばらく考え込んだ後に、ヘレネ副艦長が言う。

「……筆を使ってうつくしい文字を書く人を、そのまま『筆』と呼ぶのかもしれません」

「ああ、成る程。辺境には今でも代書屋があるというしな」

「代書屋?」

「銀河共通語が行き届いてない居住惑星で、代わりに二言語間通信や翻訳を担う仕事があってな。昔は紙を使っていた。それに近いのではないかな。このミナ、という女性、きっと女王陛下の勅書なり何なりを、代わりに書き記す係なのかもしれぬな。つまり『書記官』とでもいうべきか………」

 この星にも代書屋があればいいのに、と心底思いながら、ただただ頷くアレックスに艦長は聞く。

「今度は、どんな返事が来たのか、聞かせて貰っても良いかね?」

 アレックスが頷いて、そっと手紙を開く。

 そして、頭をかいてから、少しどもるような声で

「……『あなたが見ているものを わたくしも見てみたい』と」

 呟くように、後半部分を読み上げた。艦長と副艦長が揃って、ほぉ、と息を吐く。

「素敵な言葉ですね。本当に」

「しかし自分は、女性とこういったやりとりをしたことがなく……」

 艦長がニッと笑う。

「女性、ということをあまり気にかけすぎないようにな」

「何故です?」

「古来より手紙は、『心の友』と送りあうものじゃからなあ」

「心の、友………」

 兵士育成プログラムの訓練を共にした仲間達とも、特に親しくなることはなかった。生まれも育ちもよくわかっておらず、勉強の機会もなかった自分は、兵士として生きる道の他は知らず、そして、自分に与えられた『兵士』という人生のプログラムに従って、『友人』というものが必要であるということもよく知らないまま、ただ生きていた。

 何も書きこまれていない、古い倉庫の隅に落ちて忘れ去られたままの空っぽのメモリーカードのような自分に、今は何故かこの星のうつくしいものが次々に詰めこまれようとしている。

 けれど、自分には意志がある、ということさえ先日までは考えもしなかった空っぽの男に、なにが出来るというのだろう。

「なれるでしょうか」

 ぽつりと、手紙に視線を落として呟くと、ヘレネが微笑む。

「なってみたいのでしょう? 何者でもない人間は、何者にもなれる証です」

 思わずアレックスが顔を上げる。

「………はい。自分は、何者かに、なりたい。そんな気がするのです。まずは……心の友、それはすごく、いいものだ、と、思います」

 朴訥と、そしてぽつりぽつりと語る青年の真摯な言葉は何と心地よいのだろう。

 思春期も、青春も、どこかに置き忘れたはずのこの若い一兵士が、正直な心だけは捨てずに持っていたことを、艦長と副艦長の二人はいわゆる『この銀河のあらゆる神様と運命』に感謝する。

「それで、今度は何を贈ろうか、と。写真は以前贈ってしまったので……」

 艦長が顎に手をやって考え込む。

「……見ているもの、か。アレックス、ヘレネ君、ちょっとついて来なさい」

 艦長に連れられてやってきたのは、アナベル・リー号の倉庫だった。

「昼夜兼用天球観測レンズがついた……小型のやつはこのあたりに埋もれていた覚えがあるんじゃがなあ」

「観測レンズ?」

「『月』も観れて、うっかり昼間に日の光を直で見てしまっても安全なやつがいいのう。そう、我々は毎日のように見ていて、この王宮の民が見たことのないものじゃよ」

 倉庫の隅から筒のようなハンディタイプの望遠鏡をいくつか取り出して、

「外装の傷がどれもけっこうあるのう。整備班に頼んで塗り直して貰うとするかね」

 艦長は楽しげに埃を服の袖で拭ってヘレネ副艦長と笑う。

「良い考えですね。贈り物っぽくなるかと」

 アレックスが目を白黒させながら問う。

「ですが、いいのですか」

「まあ我々にはこの星と『良き関係』を結ぶ義務が課せられておるでな。古い機材のひとつを贈ったところで問題はなかろう」

「使い方がわかるでしょうか」

「取扱説明書を作るか。ヘレネ君、任せていいかね」

「はい。絵入りにすれば、文字がなくともどうにか理解して頂けるかと。写真の出力機を使わせて頂きますね」

「じゃあアレックス、すぐに諸々を用意するからちょっとばかりの時間を貰っても良いかね。心の友に宛てる手紙をじっくりと考える時間も、必要じゃろうて」

「は、はい、サー。心遣い、ありがとうございます。その間に手紙の文面を、考えておかないと……」

 無機質な若き新米兵士『AX203492』が、いつの間にやら色んな表情を見せるようになった。本人は気付いていないであろうその表情の移り変わりが、なんとも心地よい。

 おそらくは同じことを考えているのであろうヘレネ副艦長と、ちらりと目を見交わして小さく頷いてから、ガードナー艦長は、ぽん、とアレックスの肩に手を置いて微笑んだ。

「頑張りなさいアレックス。おぬしの頑張りが、今やこの艦と地上を結びつけておる。それはきっといつか、誰にとってもいいことがあるに違いないからな」


*


 自分は今まで一体何を見ていたのだろう。艦の外の真っ青な空に視線を投げてアレックスは自問する。

 青い空に浮かぶ白く形豊かな雲も、夜の空に浮かぶ『月』や星も、つい先日までは、自分の人生を彩るものではなかった。

(毎日のように見ていたはずなのに)

 どう返事を返せば良いのかさっぱりわからないが、艦長は『望遠鏡』を用意してくれるという。ヘレネ副艦長の物語によると、人は星々を渡る技術を得る前までは、それぞれの星に各々が考えたうつくしい名前をつけたり、星に住まう人々のことをあれこれ想像したりして過ごしていたらしい。

 そんなことをつらつら考えながら、アナベル・リー号の最上階の展望室にやってくる。

「あなたが、見ているもの……か」

 今頃『ミナ』は何を見つめて、何を考えているのだろう。プロフェッサーの授業によると、空の色には色々な表現があるという。

 ミナ達もこの空を『青い』と表現するのだろうか。海の青い色と空の青い色には違いがある、ということにやっと気付いたばかりの雛鳥が、自分の見てきたものを表現できるだろうか。

 思わず、誰もいない展望室の椅子にひとり座り込む。

(心の、友)

 目に見えない糸を掴むような、心もとない手紙。切り取った色とりどりの紙や写真、鳥の羽に貝殻。細々としたものを贈りあいながら続くそれに、翻訳機やゴーグルを使って一晩かけて読み解き、つたない返事を書くその行為には確かに『歓び』と言う名前がある。

(ああ、でも、いいのだろうか)

 ただの兵士としての生き方しか知らず、それでいて戦場をまだ知らない新米である自分。語り聴かせる物語のひとつも、星の名前も知らない自分。そんな自分を、『ミナ』もまた『心の友』と思ってくれるのだろうか。

 望遠鏡で、人の心の奥まで見ることが出来たらいいのに、とアレックスは思わず息を吐く。そして、持ってきていたレポート用紙をふとめくると、ゴーグルの翻訳機のスイッチを入れる。ペンのキャップをあける音が、妙に大きく無人の展望室に響き渡る。



『わたしの 見たものは

山の火 かささぎの羽 貝がら 海の色 空の色

どれも みな うつくしい』


 どんな望遠鏡でも、人の心は覗けない。


『あなたは わたしの 心の友 でしょうか

わたしは そうなりたい いつか』


 思わず手紙をこのままどこかにしまいこんでしまいたくなるような、少しの照れくささにも似た感情を、何度も何度も深呼吸して抑える。

 そうしているうちに、先日贈られた黒くうつくしい羽根を、ふと思い出す。望遠鏡で何を探してみるべきか、もう自分達は知っているではないか。

 思わず背中を丸めてレポート用紙に覆いかぶさるように、勢いよく心のままにアレックスは書き綴る。


『これで よるの かささぎを さがしてみて

わたしも さがします

よるのそらを いっしょに みましょう』


 何となく気恥ずかしくもあったが、自分の気持ちを、以前より少しずつ多く書くことが出来るようになった気がする。

 夜になるのが楽しみだが、それまでに終わらせておきたいことや、やらなければならないことが山積みである。

 黄色いレポート用紙に書いたいつもの手紙を丁寧に折り畳み、アレックスは足早に展望室を後にしていった。


*


 整備班から戻ってきた望遠鏡は、見事な金色に塗られていた。

「少し派手かもしれませんが、あの王宮への贈り物と聞いたんでね」

 整備班の班長が言うと、ガードナー艦長はそんな班長の広い背中をポンと叩いて笑う。

「上出来じゃよ。ここの民は、あの衛星を見るのが好きなようでな」

「ああ、だから先日この艦を動かしたんですな」

「長らくここの民の楽しみを奪ってしまっておったらしくてなあ」

 整備班の班長が笑う。

「艦長は本当にお優しい。そういうところが、我々の誇りってもんですよ」

「辺境勤めという閑職に付き合わせて申し訳ないのう」

 そんな艦長に、整備班長が笑う。

「それぞれ好きなことがやれて万々歳でさあね。最近のうちの班の流行はゲーム開発ですが、この星にも妙なボードゲームがあるという噂で……」

「成る程。手に入れられる機会があったら考えておくよ。最近、ほら、あの新米のパイロットのアレックスが頑張ってくれているでのう」

「ああ、今年配属された……」

「うつくしい女官と手紙を交わしておるよ」

「なんですと。それは初耳だ」

「何かあったら手伝ってやってくれるかね? 王宮との『友好関係』は大事でのう。さし当たって、市や王宮に行く手段を考えておいてくれると、いつの日か役に立つかもしれない」

「任せてください」

 どん、と胸を叩いて整備班長のハドソン・ゼルゼーレが豪快に笑い、艦長に囁く。

「そのアレックス君のアツい手紙とやらの行く末も、是非知りたいものですな。こっそりと、でいいのでね」


*


 羽虫鳥がきらりと昼の光を浴びて、いつにもまして輝きながら中庭の上空を旋回している。

「……今日は何を持ってきたんだろう」

 思わず歳助が目を瞬かせて、いつものように中庭に降りてきた羽虫鳥のところへ足を運ぶ。黄色い紙の手紙が、今日は2枚あった。そして、

「金色の、筒……?」

 羽虫鳥が差し出してきたのは、日の光を浴びて煌めく金色に輝く筒状のものだった。

「これは………なんだろう」

 透明な玻璃のようなものが金の筒の両先端についている。先日の不思議な布といい、星の民はこういった『透き通ったもの』の扱いに長けているのだろうか。そしてこんなにもきらきらとうつくしく輝く金の筒は、主上ですら見たことがないのではないか。

 金の筒をおそるおそる受け取って、思わずその場で考え込む歳助を尻目に、いつものように羽虫鳥が飛び去っていく。

「もうちょっと愛想があってもいいのにさ」

 鳥なのか虫なのか、そもそも生き物なのかもよくわからない相手に思わず愚痴をこぼしてから、歳助は足早に、文と筒を両手に抱えて踵を返す。

「姉上、姉上!」

 局の御簾が掲げられ、實奈子が顔を出す。

「また『荒草の君』から不思議なものが……」

「まあ、今度は何かしら? わたくし、とても楽しみに待っていたのよ」

 春の真昼間に咲く花のように暢気な姉の声に、歳助は思わず深々と溜息を吐いてしまう。

「主上の祐筆がそんな浮かれてていいんですか。それより、これです」

 御簾の下から押し込むように、金色の筒と手紙を實奈子に手渡して歳助は言った。

「一体何でしょうか、この筒は」

 實奈子が渡された文を開く。

「……あら、こちらを見てちょうだい。何か絵が描かれていてよ」

「絵?」

 筒の狭い口の方に目を当てて覗き込み、空の方を向けている絵が、すっかりお馴染みになった黄色い紙に精緻に描かれている。

「つまり、こうやって使う、と?」

 思わず姉弟で顔を見合わせる。

「『荒草の君』は何て言ってるんです?」

 實奈子がもう一枚の紙を開く。すっかり馴染みになった、拙いが熱量のある、紙の上を走るような文字が、いつもより少しばかり多めに綴られている。目を凝らして、つづられた文字を一文字一文字読んでいく。

「………姉上?」

 少しの沈黙の後、

「かささぎを、そう、かささぎをさがす筒ね」

 實奈子が、文から顔を上げずに、呟くように言った。

「わたくし、書いたのよ。あなたがみているものを、見たいって。だから、きっと、贈ってきてくれたのね。星が、使っている不思議な……物見の筒を」

 祐筆であり、文と言うものに慣れているはずの姉が、まるで初めて恋文を贈られた少女のような、ぼんやりと夢見るような瞳で呟く。

「ねえ歳助。その筒を、わたくしも覗いてみてもいいかしら」

「え、あ、えっと……姉上に何かあったらいけないので、僕が先に試しますよ。これ、主上にもお渡しするんでしょう?」

「えっと、そうね、じゃあ、そうしましょう」

 はっと目を瞬かせて、實奈子が少しばかり上の空で答える。一体今回は『荒草の君』は姉になんと書き送ったのだろう、と歳助が思わず口を少しばかり尖らせながら、息を吐いて筒の細い口の方をおそるおそる覗き込み、絵に描かれていた通り、広い口の方を空に向ける。

「………これは」

 歳助が言葉を失い、筒を目に当てたまま硬直しているのを見て、實奈子が思わず手紙を取り落とす。

「歳助、どうかしたの!?」

「姉上………これは、何でしょう、空が、僕の目の前に………ああ、すごいや、こんなの、見たことがない」

「まあ、どういうこと? わたくしにも見せてちょうだいな」

「あ、えっと、大丈夫ですかね」

「大丈夫よ。だって、これを贈ってきてくれたのは、わたくしの………心の友、ですもの」

「心の、友?」

 筒から目を離した歳助の手からそっとそれを取り上げて、實奈子は御簾の外に出ると、筒を目に当てる。

「ああ」

 真っ青な空に、初夏の白い雲が間近に迫って見える。まるで自分が鳥になって、空に飛び出したようだ、と實奈子はただただ筒の中に広がる青い世界を凝視する。

「素敵ね。星の民というのは皆、こんなにも青い空を、毎日見ているのかしら。………ああ、鳥だわ。鳥が、こんなに大きく見えるなんて、すごいわ。どうしましょう。こんな素敵な贈り物は、生まれてはじめて……」

 ふと歳助が、姉が取り落とした手紙に視線をこっそりと投げる。


『あなたは わたしの 心の友 でしょうか

わたしは そうなりたい いつか』


 今までに数々の手紙を届けてきた歳助でも見た覚えがない『心の友』という語句。だが、それはあまりにもしっくりと、姉と不可思議な文を交わしている不可思議な『星の人』に、ぴったりな言葉だった。


『これで よるの かささぎを さがしてみて

わたしも さがします

よるのそらを いっしょに みましょう』


 恋文以外では滅多にお目にかかることなどない『夜の空をいっしょに見る』などといった誘い文句を、こんな不思議な筒と共に贈ってきた『荒草の君』。真摯にただ空を共に見る相手を求めている。

 そんな人間が、今まで姉に文を送ってきた者達の中にいただろうか。

「昼も、夜も、これで空を見ていたいわ。ずっと、ずっと。ああ、けれどそうね。主上にもこの筒をお見せしなければいけないわ。こんな素敵なものを、独り占めしてしまっては、だめね……」


*


 宮の一番奥の、一番広い部屋へといつものように實奈子は静かに足を運ぶ。

「主上、まかり越して参りました。實奈子でございます」

 御簾の前にひれ伏して、黄色い紙の文と金の筒を御簾の下から差し入れる。

「『荒草の君』より贈物が。遠見筒、とでも、申しますか………」

「遠見筒?」

「これを空に向けて覗けば、まるで……空を翔ける鳥の瞳を得たかのように、空がうつくしく見えます」

「鳥の瞳、とな」

「わたくしは、問うたのです。星の民は、いつも、なにを見ているのかと。宙には、かささぎは飛んでいるのかと」

「ほう」

「返答が、この筒と共に贈られてきた次第にござります。これを、その文の絵と同じように……こうして、覗き込めば、空が間近に、うつくしく見えます。夜になれば月も見ることが出来るかと」

 両手で、筒を目に当てる仕草をしながら語る實奈子の声に、いつもより熱が篭もっている。女王が指先で、黄色い紙をかさり、と音を立てて開く。

「ああ、わたくしは、この不思議な筒で、かささぎを早く探してみとうございます。心の友と同じものを見ゆる、というのはなんと心躍ることでしょう」

 二十歳を過ぎても浮いた話もなく自分に真摯に仕え続けている仕事熱心な女房が、跳ねる鈴のような声で、頬を紅潮させながら語る。

 開いた黄色い紙に、『心の友』という文字が見える。文に関しては百戦錬磨に等しいはずの女が、このような拙い文字の拙い言葉に心揺らしている様は、新鮮かつ妙に愉快でもある。

 文字も言葉も拙いが、一人前に『吾がうつくしい筆』の心をこうも揺らすとは、『荒草の君』とやらもなかなか見所があるではないか、と、思わず女王が口元に笑みを湛える。

「吾がうつくしい筆よ。もっと筒を眺めていたいのであろう? この遠見筒はおぬしのものゆえ、安心して空を眺めるが良いぞ」

 心の底を見透かされたかのように、赤くなったり青くなったりしながら、實奈子が思わず深々と平伏する。

「お心遣いに深謝致します主上。ですが、あの、わたくしは……」

「然れど吾も、そのうつくしい筒を少しばかり楽しんでも良いかのう?」

 御簾の奥のうつくしい声がくつくつと笑う。

「久方ぶりに、月見の宴でも開こうかと思っておったゆえに。この金の筒、返して貰った月を眺めるのに良いものであろうて」

「月見とは、ええ、ええ、とても良い考えかと存じます」

 ぱっと思わず顔を上げて、實奈子が声を弾ませる。自分のうつくしい主が、自分の『心の友』が贈ってくれた金の筒で、月を見上げる姿を想像すると、胸に火が灯るような心持ちになる。

 女王が脇息の脇に置かれた銀の鈴を慣らして侍従を呼びつけると、

「次の月が満ちる夜に、月見の宴を催す。支度をするように」

 と、恭しく入ってきた白装束の侍従の男達に、御簾の奥から涼やかに命じる。深々と礼をして足早に退出する侍従達を見送って、言った。

「實奈子よ。星の民を友とし、良き文を交わしておるようで、吾までもが日々愉しい」

 そして、御簾からそっと、金色の房のついた扇をひとつ差し出していった。押し戴いた實奈子がゆっくりと扇を開くと、そこにはうつくしい月が金泥で描かれている。金色の房は、女王の持ち物にしか許されていない色だった。

「筒の礼として、おぬしの『心の友』を、そう、星の民を宴に呼ぶことを許そう」

 深々と扇を押し戴いて、實奈子が言葉もなく床に額づいた。


*


 檜扇を手に奥の間から退出し、歩きながら實奈子は沈思する。

(宴に、呼んでもいいなんて)

 しかしながらその相手は、歳も姿も知らない、言葉ですら少ししか通じない相手である。次の満月までは、あと5日あった。

「きちんと伝わるかしら……」

 部屋に戻り、いつものように文机に肘をついて息を吐き、目を閉じる。しばらくそのまま考え込んだのち、實奈子は筆をとった。


『次の満月の日に、

この宮の主が催す月見の宴があります』


 庭中が管絃や歌に彩られる月見の宴。


『我らが女王が、あなたが贈ってくれたあの金の筒で

月を見ると仰せになりました。

わたくしもまた嬉しく、

そして誇らしいというもの』


 月の描かれた扇を汚さないように閉じて、いつもの引き出しから月のように淡い黄色の紙を取り出し、黒々とした墨に筆先を濡らすと、黒い墨が夜の空のように見えてくる。


『あの筒で夜空のかささぎを探すのは、

どうやら月見の宴の後になりそうです』


 少しばかり寂しくもあったが、楽しみが先に延びただけのこと、と實奈子は気を取り直す。


『どうかあなたもお越しください。

我らが女王も、わたくしも、

星の民、そして心の友の来訪を心待ちにしています』


 そして御簾を掲げ、思わず落ち着かない心待ちのまま廊下に出る。淡い色の花が廊下のすぐ近くに咲いているのを見つけ、實奈子は廊下から手を伸ばして一輪そっと手折ると、

「ごめんなさいね。でも、わたくしの思いを届ける使いになってちょうだいね」

 花に囁きかける。

「宴に星の人を招くのは、きっとはじめてのことよ。上手く行けば良いのだけれど。それに、そう………」

 夜の宴。自分の居場所は、女王の為に庭に建てる予定の、月見の宴用に四方を布で囲った『月の御座』の後ろである。そこに几帳を建てて、贈られる文を受け取り、交わされる言葉ひとつひとつを主のために書き留める『祐筆』。紙と硯、墨は足りていたかを確認して、言葉ひとつを聞きもらすことのないように、宴に臨まねばならない。

 そんな中で、自分と文を送り合っている『荒草の君』に会うことはできるのだろうか。

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