巻の三 かささぎ

 コクピットの椅子を倒して横たわり、手紙に挟まれていた黒い羽根を手にしたまま、アレックスは何度も何度も寝返りをうつ。人生で初めて書いた手紙。それに返ってきた返事に添えられていた黒くうつくしく輝く羽根。

 そして自分が撮影した写真には流れるような文字であれやこれやと書き込まれている。あの燃えるような、知りたいという思いがどうやら通じたらしい。

(こんなにも嬉しいものなんだな………)

 ひとりでに笑みがこぼれてきそうになる。

 手紙を書いてくれたのはあの少年なのだろうか。しかし、ああいった年頃の少年達がこの眼下にある王宮のあちらこちらを走り回っているのは既に知られている。ただ単純に、誰かに頼まれて届けてくれただけかもしれない。

(手紙の主の名前も知らないままだった)

 今度はそれを聞いてみよう、と操縦席の横に置かれているレポート用紙を手に取り、ゴーグルの翻訳機能をオンにする。


『この山の火は、山の神にささげる灯火。

毎晩欠かすことなく灯す、うつくしく神聖なもの』


 神。自分は神を信じたことがあっただろうか。毎晩神に炎を捧げるのは不思議な感じがしたが、山にすむ神も夜には明かりが必要なのだろう。

 一度だけ自分の所属を登録するためだけに出向いたことがある帝国の首都星の中心部の、夜になっても昼のように煌々と輝いていた街明かりを思い起こす。

 夜になると灯火だけがちらりちらりと微かに輝くこの星の様子とは大違いである。神とやらに縁遠い自分であっても、どちらかといえば、日がな一日まばゆく輝く人工光より、丁寧に毎晩灯される山で瞬く柔らかな火の方が神聖に感じる様な気がした。

(一晩中あんなに明るい首都の星のことを書いたら、びっくりするだろうか)

 色々なことを書き綴ることができたら、という気持ちと、

(……だが、俺はあまりにも『足りてない』)

 読み書きなど、共用語で名前をサインする、そして報告書を読める程度のものしか教わっていないのである。帝国の平均的一般人よりも劣ると言わざるを得ない。

 戦災孤児センターでの逼迫した日々や、兵士育成プログラムの三食と訓練を繰り返す日々。苦しくはないが、何の彩りも喜びもなかった日々。成績はずば抜けているわけでも悪かったわけでもなく、こうして辺境の任務に送られることになった自分。今更になって、それがとても情けないものに感じてきて、少し胸の痛みにも似た何かを押さえるように、アレックスはもう一度贈られてきた一枚の羽根をじっと眺める。


 こんな自分が、どうすればうつくしいものをうつくしいと言えるようになるのだろう。


 そこに、タブレットからアラームが鳴る。

(……そうだ、副艦長にアポイントを取ったんだった)

 手紙を胸ポケットに大事にしまい込み、アレックスは立ち上がる。そして兵站補給船シュトルムのコクピットから出ると、アナベル・リー号の格納庫のドアを開け、古い艦内の少し暗い通路をひとり歩いていった。


*


「話は艦長からも聞いていますよ」

 ヘレネ副艦長の部屋は艦長室の隣にあった。

「この部屋は元々、倉庫だったんです」

 そう言いながら椅子を用意し、直立不動のアレックスを座らせる。

「私が学生時代に使っていた辞書のデータがまだあったはず……」

 そんな副艦長ヘレネはアレックスより二回りほど歳上らしい。もっともアレックスにとって女性の年齢を推し量るというのは未知の領域であり、この手紙のやり取りよりも難しいかもしれないものでもあった。

 ヘレネ・スターグリング。金色の髪をひとつにまとめて編み上げられている古風なヘアスタイルが特徴的な一般的ヒューマノイド女性であり、艦長との付き合いも長いらしい。

 そして艦長室の机同様、年季の入ったステンレスで出来た無機質な机の上には、数々のモニターや機材が積まれていたが、よく見ると機材の合間合間に様々なアンティークの絵が飾られている。

 そんな机の引き出しから古いタブレットを取り出して、スイッチを入れる。

「きっと、あなたはこの星に来るべくして来たのでしょう。……私はここに着任して数年ですが、うつくしいとは知っていても、ただそれだけだった。何かを知りたい、という気持ちは、生きる上で最も重要なことのひとつです」

「……それが、あまりにも突然すぎて、自分でもよくわからないのです」

 アレックスが率直に言うと、ヘレネが微笑む。

「……まずは言葉をいっぱい覚えましょう。その古いタブレットには様々な星で収集された珍しい物語も収録されています。もうずいぶん古いフォーマットですが……データのコピーは出来ますか」

 いつものゴーグルを額から外し、内蔵コネクターを引っ張り出す。

「可能です」

「物語に触れたことは」

「……恥ずかしながら、覚えがありません」

「今のあなたはまさに、物語の中にいるのでしょう。手紙を交わす、というのは、そういうことですよ。どんな最先端の通信機器でも味わえない体験が出来る。まだ見ぬ相手に思いを馳せながら、書き綴る喜びというのは帝国本星ではもはや味わうこともできない貴重なものです」

 物語の中にいる。まさにそのような心持ちだ、とアレックスは思わず小さく肯く。胸ポケットに入れた黒い羽根の挟まったうつくしい手紙に、服の上から手を当てる。まるで今の自分の心臓を動かしているのが、この手紙であるかのようだ。

「本件は必ずあなたを成長させます。兵士AX203492ではなく、この世界でたった一人の、アレックス・アレキサンダーとして」

 電子音が、辞書や物語のデータのゴーグルへの転送完了を告げる。もしもこのデータの転送のように一瞬で心の中に物語の全てを転送できたら、自分はもっと心豊かになるのだろうか。そんな心の内を見透かしたかのように、ヘレネ副艦長は言う。

「ここには時間だけはたっぷりあります。ゆっくりと、焦らずに。心を耕していきましょう」

 『心を耕す』という表現を初めて耳にして、アレックスは目を瞬かせる。

 既にコンクリートで塗り固められているとばかり思っていた自分の心を『耕す』とはいったいどういうことなのか。不思議で、少しこそばゆい気持ちになってくる。

「は、はい」

 思わずどもって顔を赤くしたり目を白黒させているアレックスを見て穏やかに

「学習プログラムから学習要項は届きましたか。勉学のスケジュール管理は大事ですよ。わからないことがあったら聞いてください」

 ヘレネ副艦長は言った。


*


「吾のうつくしい筆よ。實奈子よ。星より届くつたなき言の葉、そしてこの絵巻、誠に興味深いものよな」

 高御座の向こうで、女王が呟く。

「この不思議な絵巻ほどにうつくしいものも珍しい」

 矢羽のような印が付いていなかった分の『四角い絵巻』を、實奈子は己の主に献上したのである。

「また届くようなことがあれば、主上にお渡しいたしますゆえ」

「このつたなき紙に、童のような文字。おもしろくも、吾と、吾が筆の心に染む、不思議な文よ」

「わたくしは、ここに、燃えるような『思い』を見出しましてございます」

 女王が、御簾の向こうで平伏する實奈子に視線を投げる。

「良きことよ。この宮に手紙を送ってくる星の民など、今までにいなかったゆえにな。あの者らは、吾らと使う言の葉も何もかもが異なっていると聞き及んでいる。そもそも、星の民が文字を使うのかも知られてはおらぬ。……そういえば、不思議な羽虫のような、鳥のような『なにものか』が文を届けに中庭に来るとな」

「はい。我が弟歳助が申しておりました」

 そして檜扇を開き、歳助が渡してくれた花びらを載せて御簾の下から差し入れると

「その『なにものか』ですが、文を手にして舞いあがった際に、枝を揺らして歳助にこれを降り与えたとのこと」

「ほう」

 女王のうつくしい指先がまだ萎れていない花弁に、つ、と触れる。

「もののあはれを知る者もいると見ゆる」

「わたくしと歳助は、この文の主を『荒草の君』と呼んでおります。文字も、紙も、文使いも皆奇妙なことばかり。けれど、どこかに童のような純粋な心持ちを、持っているような……」

 御簾越しに、どこか夢見るような實奈子の瞳が見えてくるようだ、と、女王がくつくつ笑う。

「……文を続けるがよいぞ。吾が筆よ。そのつたなき『荒草の』文は、汝をいつか、うつくしい筆以上の者にするやもしれぬ」


*


 いつもより少し遅い時間に補給船シュトルムで海に出る。眼下の宮にはぽつぽつと灯りが灯りはじめており、いつもの山にも灯りが灯りはじめていた。見慣れた光景も、それに意味があると知ると更に新鮮に感じる。

「神聖な光、か」

 コクピット脇のダッシュボードに、丁寧に羽や文がしまい込んである。早く仕事を終わらせて、手紙を読み解きたい。その後にプロフェッサーの授業にも備えなければならない。物語を読み、それを楽しむことが自分には出来るだろうか。目の前にあること全てが未知の世界である。

(一日が、早いな……)

 そのような気持ちを抱くのはこの星に着任してから初めてだった。一体今まで、どうやって毎日を過ごしていたのだろう。

 そして、あの手紙が届いた時はただただ『厄介なことだ』と思っていた事柄が、どうしてこうも心を急かし、沸き立たせるのだろう。

 『月』の光がコクピットに差し込み、ダッシュボードに入らなかった花の枝を照らす。冷凍処理されて永遠に咲き続ける花が、光を反射して鉱石のように輝く。

(俺はいつの間に、こういうものをうつくしいと思うようになったのだろう)

 窓の外を見ると、昇りかけの大きな『月』のすぐ近くに星々が輝いている。海辺にそっと船を着水させて、アレックスは静かにそれを眺めながらダッシュボードを開く。一刻も早く手紙を読んで、返事を書きたい。手紙を取り出して、急かされるようにゴーグルのスイッチを入れた。


『この田の米は、とても大事な実り。

秋になれば金色に実る。

ここ、うつくしの宮では、米の粒は金や絹と同じ』


 うつくしのみや。あの王宮は、そういう名なのか。それとも、この星そのものを指すのか。『うつくしい』という言葉そのもののようなその名前に、舌で触れるように、慣れない音を何度もひとり発音する。

 そして、

(そういえば、共通貨幣が使えないと艦長が以前に言っていたような……)

 ふと、そんなことを思い出す。

 写真に書き込まれた文字によると、空からいつも眺める緑のカーペットのような場所が『田』らしい。秋になるとあの緑が金色に『実る』という。何か花でも咲くのだろうか。コンソールパネルを指先で叩いて宇宙文化辞典を紐解くと、似たような自然環境がある星もいくつか該当する。

 そして『米の粒』。つまり、この星では金と同じほどの価値があるものが、どうやらあの緑のカーペットには実るらしい。「秋」や「絹」というものもひとつひとつ、辞書で紐解いていく。

 「秋」という文字は、どうやら季節を指すらしい。艦長によるとこの星は季節の移り変わりが定期的に発生し、四種類にわけることができるという。おそらくは、そのうちの一つのことだろう。今は四種類のうちのどこに相当するのだろうか。他の三種類の季節にも名前はあるのだろうか。自分が息をするのと同じように、ここには全て名前がある。

(きっと、ここでは当たり前のことなのだろうな……)

 絹というのは高級な布のことらしい。高級な布が、何故か虫から生み出されるメカニズムはよくわからなかったが、時には他の星から帝国本星にも輸入されるという。


『星や月に近しいのは、とてもうらやましいこと』


 艦に乗りさえすれば、様々な星へ足を運ぶことができるというのに、近しくとも、その価値など全くわかっていなかったのが、恥ずかしくすらある。きっとこの手紙の送り主の方が星や月をより愛し、その価値を理解しているのだろう。


『星と星の間には、かささぎが飛ぶと言います。

宙に住まい、星にすむ人らを結びつけるとのこと』


 『かささぎ』というのは何だろうか。飛ぶ、と書かれていることと、同封されてきたうつくしい黒色の羽から察するに、黒い鳥のような何かの一種、だろうか。

 宇宙空間を飛ぶ鳥などというものは、見たことも聞いたこともなかった。だが、そんなことをそっけなく返事するのは『違うことなのではないか』とアレックスは顎に手を当てて長い間沈思する。

 ヘレネ副艦長から貰った物語のデータに、宇宙を飛ぶ鳥の話のひとつくらいはあるかもしれない。そもそも、この銀河は広く、自分が知っていることはほんの僅かでしかないのだ。



「あなた方が 言うのなら、

この広い 宇宙の どこかに いる

のかも しれません」


 この感情に、なんと名前を付ければ良いのだろう。何度もレポート用紙を回して、紙に顔を近づけ、あまり綺麗ではない文字で、ゴーグルに映る文字をそのまま写し取る。もっと伝えたいことが、それこそ星の数ほどある様な気がするのに、言葉に出来るのがたったこれだけだというのが、恨めしくもあった。


「宇宙を わたる かささぎ

もしも 見ること あれば、

あなたに すぐ 教えたい」


 そう信じるのは何故か、どこか楽しくもある。大きく息をついて腕を伸ばし、僅かに波に揺れる船内のコクピットで、ペンを握りなおしてアレックスは綴る。


「あなたの なまえは なんですか」

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