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デマン氏は当初、その聞きなれない単語に、またその様子に明らかな不安をいくつも抱えたが、やがて——氏は少々怒りという感情が不安などのストレスに反応して突発的に出てしまうところがあって、それが彼が精神科に通院する理由である——顔を真っ赤にして息子の両肩を掴んで思いっきり揺さぶった。
「息子よ、息子よ。ふざけているのではあるまいか。イかれたのではあるまいな」
掴まれた頭はガクガクと前後に揺れて、しかし止めるとまだ同じ言葉を繰り返していた。平手打ちをしたり、頬をつねったり、最後には体を掴んで彼をベッドに放り投げた。俯せになった息子は口元をモゴモゴと、自身で仰向けになるとやはり同じ言葉を繰り返す。氏の額に三筋を浮かんだ。
いっそ首を絞めてやりたくなった気持ちを正直に打ち明ける。息子は今年中学三年生、高校受験を控えている。氏も一般的な親と同じく息子を“普通”にしたかった。しかし、肝心の息子がこの体たらく。デマン氏の精神が怒りに満ちるようになったのは息子が引きこもってしばらくもしなかった。でも、彼にも親子の情はあるわけで、踏み止まる代わりに、物には当たらず息子が最も執着した物の中身を調べ上げることにしたのだという。幸いなことに電源が点けっぱなしになっているおかげでパスワード等の入力もなかった。また肝心の息子本人は二人を心配した妻が物音を聞きつけて部屋に来ており、狂った息子の肩を抱いて(息子は素直に体を貸して)夕食の席に連れて行った。
デマン氏は前々から息子が引き篭もった原因ないし、こうなった原因をこのパソコンの中にあるとみていたから、この千載一遇の機会を逃すわけがなかった。
「それでわかりましたかな?」
トールス医師は興味津々といった様子で聞いた。デマン氏は答えた。
「いいえ。あっても恐らくそれと判らなかったでしょう。私はその手のものに疎いのです。そればかりかこの子のいうマビスコ・プルトクフスという言葉すらも出てきませんでした」デマン氏は続けた。
しかし、息子にパソコンを買い与えた一年後に引き篭もりが起こったこと、虐めなどが原因の可能性も考慮して調べ尽くした結果、これしか残らなかったことから原因は明らかであることを述べる。なるほど、とトールス医師は頷く。そして、なぜここに一刻も早く連れてこれなかったのかを問うた。
「それがおかしいのです。この呟き続ける我が息子は、しかし食事を与えると呟きを止めて食べ、完食するとまた呟き始めます。風呂の用意をすっかりしてやって風呂に入れというときっちり二十分で上がって服も着ます。そして寝ろというと翌朝の六時まで寝るのです。何もかも言う通りに動きます。きっとあなたを殺せと言えば殺そうとするでしょう」
氏のいうところによるとその様子がおっかなくも正常に見えたため二日程度様子をみたのだという。試しに勉強をしろといったら(無論、マビスコ・プルトクフスと呟きながら)勉強を始めた。デマン氏は息子が勉強なんていってもやらないところから、この様子に益々恐怖を覚えたという。
トールス医師は腕を組んで唸った。「視線の移動は目自体が乾燥して血走っていること以外は何も問題はありませんでした」試しにアイウエオをいってごらんというと、アイウエオと胡乱であったりはっきりしなかったりはせず、若い声ではっきりと返してくる。そしてまた「マビスコ・プルトクフス」と呟き続ける。トールス医師はまた唸った。こんな症例は似たものはあれど合致するものがなかったのだ。また試しに自分の家族の名前や住所、誕生日などを告げるようにいうと全くその通りに答えた。医師は益々頭を抱えた。
悩んだ末に言うことは聞くことからひょっとすると前頭葉が萎縮したのかもしれないと大学病院の脳外科へ紹介状を書こうかと提案した。するとデマン氏から実はもういっており、しかも脳自体に何の異常も診られないことが判明したのであった。むしろ、脳外科の先生が精神科に行くことを勧めここに来たのだという。言葉を呟き続けること以外健常者である少年をどう治療すればいいのか。尚も悩んでいると、デマン氏の電話が鳴って、氏は「妻からです」といって出る。会話を数回交わすと、彼は驚きの声を漏らす。
「え! マビスコ・プルトクフスが見つかっただって!」
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