マピスコ・プルトクフス

穴倉 土寛

1



 マビスコ・プルトクフス。マビスコ・プルトクフス。マピスコ・プルトクフス……


「彼がこうなったのはいつからですか?」


 一昨日の夜にはこうなっていましたと、デマン氏はいった。自宅とほど近いマリア精神病院の診察室にはデマン氏を含めて三人いる。向かい合って座るトールス医師はデマン氏お抱えの精神科医で彼は、ずっと同じ単語を呟き続ける氏の十五になる息子を診ていた。目にペンライトを当てて瞳孔反射をテストしたり、立てた人差し指を目で追わせたりしている。今の質問はその合間のことだった。額に汗を浮かべたデマン氏は事の詳細を述べる。


 始まりは一昨日の夜、その日は雷を伴う雨が激しく降っていて、デマン氏も妻も息子も家の中で過ごしていた。晩餐の用意ができた氏は妻と——朝昼夕三食ともデマン氏が用意をしている。彼は著名な料理学者であり、著作のレシピ本は三本ともベストセラーだ——件の息子を呼んだ。しかし、息子は五分を待っても来なかった。これは然程珍しいことではない。息子は所謂“引きこもり”であることをトールス医師に以前から打ち明けており、夕食に呼んでも来ないことなどザラにあった。だがその場合、長年のデマン氏の我慢と部屋に直接的な呼びかけを続けたおかげ——これはトールス医師の助言だ——で少なからず応じるようになっていた。今回も息子の部屋の前まで(手を前掛けで拭きながら)赴き、ノックを数回、「息子や息子や。夕食であるぞ」と呼びかけた。間も無く「うるさい」か「わかった」と返ってくるはずである。確率は今や後者はゼロから三分の一にまで増えていた。


 ところが、待ってみても返事は来ない。息子の部屋には鍵が付いていないから、一言、入るぞといって息子の、実に乱雑した汚らしい部屋に踏み入った。まず景色の前に尖った臭気が鼻を刺し、氏は(この部屋に来るたびに)鼻を摘んだ。窓はおろかカーテンを閉め切った部屋で、雑誌が本かゲームソフトか、厭らしい本すら顔を見せて散らばって、忌々しい丸めたティッシュがそこら中に転がっている。臭いの元はいつもこれだ。氏は眉を顰めて息子を見た。彼は部屋の隅で小学校の入学時に買い与えた背凭れのある椅子に膝を立てて抱え込むように座り、同じく買い与えた学習机に乗った二つ横並びに光るモニターの半分を食い入るように目を大きくして見つめており、何事かを呟いている最中だった。足元に置かれた筐体がゴウと唸りをあげ続けて赤いランプを点灯させている。氏は近づいて「息子や息子や」と再度呼びかける。その肩に手を置いてやると、まるで目の大きな梟が首を回すようにデマン氏をその食い入る瞳を一切動かさず、顔ごと向きを変えて見つめてきたのである。その間も小さく口を動かし、そのまま顔は微動だにしなかった。目を大きく開けているのにも関わらず、瞬き一つしない。これ以降、氏は息子の瞬きを見ていないという。氏はその反射行動と、何よりその瞳が梟の目のように見開いて鋭く感じて驚き、小さく悲鳴を上げた。肩から手を離して両手を目の前に翳したが、以降、何かが来る気配はなく、恐る恐る、とてもではないが尋常とはいえない息子が口を動かしているのを見て気になった。しかし、ここから耳をそばだてても何も聞こえない。デマン氏は耳を食い千切られるやもしれないと不安を抱えながら息子の口元に耳を近づけていった。すると、冒頭でも記した通り、一つの単語を繰り返していることが判ったのである。



「マビスコ・プルトクフス。マビスコ・プルトクフス。マピスコ・プルトクフス……」

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