第3話 始まりの刻Ⅲ

「貴女のお名前は何ですか?」


「私? 私は……」


 教えてしまって良いのだろうか。もしかすると、両親が私のせいで脅迫などされてしまうかもしれないのに。

 俯いてしまった私の手に、そっとアリアの手が触れる。


「花岡実結、です」


 多分、この人は怖いだけの人ではない。これまでのアリアの行動がそう思わせ、口を開いていた。


「ファーストネームはどちらでしょう? ハナオカ様ですか? ミユ様でしょうか?」


「実結だよ」


「ミユ様ですね」


 変な質問だなと思いながらも小さく頷いてみせると、アリアはそっと微笑んだ。

 隣に居るアリアがリゾットを食べ始めたので、私もスプーンを使ってリゾットを頬張ってみる。

 甘いミルクとコンソメの味が口いっぱいに広がった。今まで食べてきたリゾットの中で一番美味しいかもしれない。


「美味しい……」


「エメラルド城のシェフは腕が良いですから」


「エメラルド城? シェフ?」


「……いえ、今のは忘れて下さい」


 アリアは私が話を理解出来ない事を認識したのだろう。囁きながら、小さく首を振る。

 私も、きっとアリアもそれ以上何を話して良いか分からず、静かな食卓は続いた。

 リゾットの他にはバニラアイスも用意されていた。

 濃厚なミルクの味を楽しみながら、家族に思いを馳せる。

 もう捜索願が出されたのだろうか。警察は私を見付け出してくれるだろうか。

 鞄もどこへ行ってしまったか分からず、スマホで連絡を取る事も出来ない。通報する事も出来ない。


「私の鞄は何処?」


「鞄、ですか? ミユ様はそのような物をお持ちではありませんでしたよ」


 やはり、か。期待はしていなかったものの、心に重たいものが圧し掛かる。

 アリアは本当に私を帰す気は無いらしい。

 最後の一口を食べ、ガラスの小皿をテーブルに置く。

 アリアも食べ終えたらしく、一息つくと今度はクローゼットの方へと向かった。


「今夜はこちらをお召しになって下さい」


 どうやらナイトウェアを取り出してくれているようだ。

 白色のそれをベッドの上へと置き、ゆったりとした歩幅で此方へと戻ってきた。


「今日はこれで失礼致しますね。明日、またお会いしましょう」


 食器たちをトレイに移すと、アリアはそれを持ち、ドアへと向かう。

 途中で此方に振り返ると、そっと微笑み、部屋から出ていってしまった。

 部屋の中がしんと静まり返る。

 眠くはないけれど、もう眠ってしまおう。もしかすると、明日には誰かが迎えに来てくれるかもしれない。

 僅かな期待を心に秘めながら、ゆっくりとベッドへと向かった。

 茶色の編み上げブーツを脱ぎ捨て、白色の衣服も椅子に脱げ捨て、まるでヨーロッパの貴族が着ていそうなナイトドレスを身に着け、ベッドに大の字で寝ころんだ。

 ダブルベッド並みに大きなこのベッドでは、何だかソワソワして気が休まらない。

 瞼を閉じ、大丈夫、眠れる、私は疲れているのだと自分に言い聞かせる。

 時計の秒針の音が耳にこびり付いて離れない。


――――――――


 ふと気が付いて瞼を開けた。いつの間にか私は眠ってしまったらしい。

 白い天井と天蓋――どうやら昨日の出来事は夢ではないらしい。

 小鳥の鳴く声が聞こえる。時間が気になり、木製の丸い掛け時計に視線を向けてみた。目を凝らしてみれば、針は八時を指していた。

 むくりと起き上がり、周囲を確認してみる。

 誰も居ない。

 溜め息を吐き、膝を抱えた。


「そうだよね……。私の居場所なんて誰も知らないのに、助けなんか来ないよね……」


 駄目だ、このまま考え込んでは涙が出てきてしまう。

 少し気分転換をしよう。

 そうだ。この場所が何処なのか分かれば、スマホが戻ってきた時に助けを呼べるかもしれない。

 レースカーテンが掛けられた大きな窓――ううん、バルコニーを目指した。

 右手でカーテンを除け、ガラス張りのドアを開る。

 目の前に広がるのは空ばかりで、建物は何も無い。

 どういう事だろう。此処はもしかすると高所なのだろうか。

 小首を傾げ、ゆっくりと目線を下へ持っていと――


「何……これ……」


 眼下に広がったのは赤い三角屋根ばかり。日本の景色とは明らかに違う。まるでヨーロッパのような街並みだ。


「嘘……でしょ……?」


 てっきり此処は日本だと思っていたのに。違うのだろうか。

 そう言えば、アリアが変な事を言っていた。


 ――魔法でちゃちゃっとやってしまいました――


 ――貴女の使い魔だからです――


 ――エメラルド城のシェフは腕が良いですから――


 もし、此処が日本では――地球ではないのだとしたら。


「ミユ様、おはようございます」


 今、小さくアリアの声が聞こえた気がした。

 ううん、そんなものはどうでも良い。

 私を助けに来てくれる人なんて居ない。私も帰る方法を知らない。

 嫌だ、何も考えたくない。眩暈がする。


「ミユ様?」


 どうしてこんな事になったのだろう。

 きっかけは――そう、あの雫形の緑色の石だろうか。

 誰が、どうしてあれを私にくれたのだろう。

 

「ミユ様? 何処にいらっしゃいますか?」 


 きっと、これはファンタジーな物語でよく見る異世界転移――

 意識が遠のくのと同時に、身体は後方へと倒れていった。

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