第2話 始まりの刻Ⅱ

 どれくらいの間そうしていただろう。

 不意にドアの開閉音と足音が聞こえてきたのだ。

 足音を聞くに、どうやら犯人は一人――

 固く目を瞑り、息を殺す。


「起きてらっしゃいますか?」


 淑やかなその女性の声からは、私を今すぐどうこうする気は無いように感じられる。

 でも、油断しては駄目だ。相手は誘拐犯なのだから。

 どうか、今すぐに部屋を去って。願いながら、手を握り締める。それなのに。

 なんと、被っていた布団が頭の方から剝がされていったのだ。


「ひゃっ……!」


 あまりの出来事に、思わず目を開けてしまった。

 そこにあったのは女性の顔だった

 穢れの無いクリクリな緑色の瞳はじっと私を見詰めている。


「いや……」


 お願いだから殺さないで。歎願してみるものの、相手に伝わっているかどうかは分からない。

 そのまま動けずにいると、女性は困ったように口をへの字に曲げる。


「怯えられてしまうのは仕方無いとは思いますが……」


 女性は「ふぅ……」と溜息を吐くと、その場にしゃがみ込んで震える私の両手をその手で包み込む。


「大丈夫ですよ。私は貴女を取って食うつもりはありませんから」


「う……うぅ……」


 では、何故、私を誘拐したのだろう。身代金を要求する程家は裕福ではないし、恨みを買うような事だってしていない。


「貴女は……私をどうしたいの……?」


「そう言われると、困ってしまいますね。したいのではなく、もう既になってしまっていますから」


「え……?」


 意味が良く分からない。

 その人はそっと微笑み、私を宥めるように頭を撫で始めた。


「お茶を用意してあります。どうか少しでも飲んでください。……起き上がれますか?」


 言われ、震える身体を何とか起こしてみる。


「大丈夫そうですね。此方へいらして下さい」


 何とか頷き、立ち上がったのは良いのだけれど、違和感に気付く。

 私、制服を着ていない。今着ているのはマントも付いているし、まるでファンタジー漫画に出てくる魔法使いのような服装だ。


「私の制服、何処にやったの……?」


 と言うか、誰が着替えさせたのだろう。

 まさか裸を見られたのだろうか。

 一気に顔が高熱を帯びていく。


「あっ。それは、貴女があまりにもへんちくりんな格好をしていたので、魔法でちゃちゃっとやってしまいました」


「へんちくりん……? 魔法……?」


 制服の何処がへんちくりんな格好なのだろう。しかも、魔法とは一体――

 絡まっていく思考は更にうねり、解けなくなってしまいそうだ。


「取り敢えず、此方へ」


 女性は部屋の中央に置かれたソファーを手で指し示す。

 段々と痛くなってきた頭を抱え、何とかそこへ辿り着く事は出来た。

 ソファーに腰を下ろすと、女性は湯気の立つ甘い香りのするティーカップをテーブルの上に乗せた。


「これ……飲んでも大丈夫なの?」


「はい。毒なんて入っていませんよ」


 女性はにっこりと笑う。

 素直に「ありがとう」と言う気にもなれず、無言のままティーカップに口を付けた。ほんのりと苺の香りがする紅茶だ。

 温かいものを飲んでふと気が緩んだのか、右目から一粒涙が零れ落ちた。


「私、家に帰れるの……?」


 知らない所に連れてこられ、変な服を着せられ、目の前に居るのは緑色の髪と瞳の、まるで中世ヨーロッパを思わせるようなドレスを着た不思議な女性で――

 心配にならない方がおかしい。

 尋ねられた人は悲しそうに目を伏せ、小さく口を開く。


「残念ですが……これからは此処が貴女の家だと思って下さい」


「えっ……?」


「私は貴女を帰して差し上げる術を持ち合わせていないのです」


 きっとこれは夢だ。そうに決まっている。

 思い切り右頬をつねると、確かに鈍痛を感じた。


「そんな……。皆心配させちゃうし、定期演奏会だってあるのに……」


 私にはしたい事が沢山ある。帰らなくてはいけないのに。

 途端に滝のような涙が両目から溢れてきた。


「今日は何も考えないで、ゆっくりしましょう?」


 こんな訳の分からない状況なんて嫌だ。頭がどうにかなってしまいそうだ。


「何で誘拐したの~……? 帰りたいよ~……。やだ~……」


 不安を、恐怖を吐き出していく。


「魔法って何~……? そんなの、漫画じゃないんだから~……」


 ただただ子供のように泣きじゃくる。そんな私の傍を女性はひと時も離れなかった。

 泣き止んだとしても、その人は私の頭を撫で続ける。

 夕食も一緒に摂る程だ。


「どうぞ、お召し上がりください」


 テーブルに置かれたのはチキンとチーズが入ったミルクリゾットだった。

 そうは言われても食欲は全くと言って良い程に無い。


「……食べたくない」


「駄目ですよ。少しでも食べて下さい」


 スプーンを近付けられ、溜め息が漏れてしまう。

 仕方無くそれを受け取った。


「何で貴女は私に優しくしてくれるの……?」


「それは、貴女の使い魔だからです」


「使い魔……?」


 また訳の分からない単語が出てきてしまった。

 首を横に振り、今聞いた事を無かった事にしてみる。


「貴女の名前は?」


「アリアです」


「アリアさん?」


「『さん』は要りませんよ」


 その女性――アリアは「ふふっ」と笑い、そっと座り直す。

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