第七場 漱石先生、みんなに心配される

明転。鏡子、奥の様子を心配そうにうかがっている。



医師   (声のみ)ごめんください


鏡子   ああ先生、どうぞお上がりになってください


医師   (袖から登場)やあどうもどうも、どうですかな、ご様子は?


鏡子   急に及びたてして申し訳ありません


医師   まだ厠から出てきませんか


鏡子   ええ、もう小一時間も籠もりっぱなしで……


医師   またやりましたか、今度は何を?


鏡子   文明堂のカステラをまるまる半斤も


医師   あちゃー、そりゃまたハイカラなものを。まあ吐くもんもなくなっちまったら少しは塩梅よくなるとは思いますが、しかし、あの隠れてつまみ食いする習慣だけは何とかならんものですかなあ


鏡子   お恥ずかしい限りですわ、食い意地ばかりが強くてみっともない……


医師   いや、奥様や先生を責めているのではないんですよ。ご主人のあの食い物に対する執着というかアレは、単に腹が減っているからというわけではなく、おそらくは精神的な「強迫観念」みたいなものから来ているのでしょう


鏡子   強迫観念?


医師   さよう、なんと言いますかな、病気に対する不安だったり「健康になりたい」という強い願望だったりが「食欲」という形になって表れているんだと思います。まあこれも一種の精神的な病気と言っていいのかも知れません



鏡子   いったい、どうしたら良いのでしょう


医師   ふーむ、まあ「食べさせない」のが一番良いのでしょうが、そうすると精神的な不安は拭い去れない、かといって何か食わせればまたこうなってしまうわけで……難しいですな


鏡子   どうも、お手数をおかけいたします


医師   いえいえとんでもない、これが仕事ですからな。まあ根気良く付き合っていきましょう。では取り急ぎお薬だけお持ちしましたんで、申し訳ありませんがあとの面倒は奥様お願いします。私ぁもう一軒回らなきゃいけないもので


鏡子   まあすみませんお忙しい中を


医師   いえ、そちらの方はもうもので、後は残りの始末に向かうだけですから


鏡子   済んだって(察して)ああ……


医師   まあ、老衰でどうにもならなったですから、いわゆる「大往生」というやつでしたよ。いい死に顔でした。死んだ後にね、こう、パアっと明るい笑顔になりましてね


鏡子   亡くなられた後に……ですか


医師   ええ、人間と言うものはですね、まあ心臓が止まると体中に血が回らなくなって死ぬわけなんですが、それでも体内には若干の酸素や栄養素が残っていて、そいつを残らず使い切ってようやく脳が「死」に至るわけです。つまり心臓が止まってから完全に死ぬまでにはいささかの時間差があるという事になりますな



鏡子   はあ


医師   ですから、その間患者さんはわずかながらにも感覚が残っているものらしいのです。たとえば、聴覚


鏡子   聴覚?


医師   耳のことです。もちろん意識は当に失われているし、本人も「聞いている」という自覚などはないのでしょうが、耳から入ってくる情報、つまり「音」や「声」といったものは死ぬ直前、最期の最期まで聞こえているものなのだそうです


鏡子   ……


医師   その患者さん、亡くなられた直後にご家族が何か言ったのでしょうなあ、いいお顔でしたよ。そんな時に、我々はどんな言葉をかけてやるべきなんでしょうなあ。あ、いや、患者さんのご家族にするような話題ではありませんでしたな、これは失敬


鏡子   いえ……


医師   どうにもこのような家業をしておりますと、人様より余計に人死にに立ち会う機会が多いもので、ついこのようなことを考えてしまいます。ではこれで



医師去る。鏡子、壁に掛かった子規の絵をぼんやり眺める



鏡子   正岡さん、あなたが亡くなられた時……うちの人がその場にいたら、どのような言葉をかけられたんでしょうねえ……



鏡子去る。奥で激しい音。同時に医師と鏡子の悲鳴が聞こえる。



暗転。

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