第六場 漱石先生、妻と語る

漱石、布団の上で鏡子に体を拭いてもらっている。漱石は心なしか元気なさ気である。



鏡子   どうですか


漱石   ん


鏡子   頭も後で洗いましょうか


漱石   ん


鏡子   お髭はどうなさいますか、随分と伸びてきましたよ


漱石   ん


鏡子   なんですよ、さっきから「ん、ん」ばかりで


漱石   ん


鏡子   もう


漱石   箱根はどうだった?


鏡子   え?


漱石   箱根だよ。温泉、どうだった


鏡子   そうですね、お湯はとても気持ちよかったし、お食事も美味しくて。なにより、仲居さんが支度を

みんなやってくれるのが楽でありがたかったわ……あ、そうそうこれ箱根で買ってきたんですけど、部屋着にいいんじゃないかしら



と言って箱根駅伝のTシャツを持ってくる。



鏡子   似合わないわね


漱石   なんでやねん


鏡子   でも箱根、やっぱり少し物足りませんでしたわ


漱石   物足りない?


鏡子   女同士で気兼ねなくくつろげるのもいいですけど、どうせだったらあなたとご一緒したかったわ



漱石   何を馬鹿な、女房と二人っきりで旅行なんぞ冗談じゃない。それに第一温泉はもう修善寺でこりご

りだ


鏡子   まだあの時胃潰瘍が悪化したのは温泉のせいだと思ってらっしゃるんですの?それじゃあ修善寺の方々に失礼じゃないですか


漱石   まあそれはともかく、女と二人っきりだなんて俺はいやだよ


鏡子   あら、でもヨーロッパでは殿方がご婦人と連れ添って出歩くものなんでしょう?


漱石   確かにそうだが、あの習慣だけはついぞ慣れなかったな。男と女が二人っきりで街中を歩くだなん

て事はとうてい日本人の気質には合わないよ。西洋文化もいろいろ入ってきちゃあいるが、ああいうのだけは御免だなあ


鏡子   そりゃあわたしたちの世代はそうかもしれませんが、今の若い子たちが大人になる頃には普通に見られる光景になるかもしれませんわね


漱石   ふん、ぞっとするねえ。そのうち街中でも平気で物を食ったりいちゃついたりするようになるのかねえ


鏡子   そうかもしれませんわね


漱石   おい


鏡子   はい?


漱石   ……いや、なんでもない


鏡子   はい。あの……あなた


漱石   ん?



鏡子   ……いえ、いいですわ


漱石   なんだよ気持ち悪いな、言いたい事があったら言えよ


鏡子   (無理に話題を変えようと)そういえば、洗面器、どうしたのかしら


漱石   洗面器?


鏡子   あなたが使っていた洗面器ですよ、どこにやったのかしら


漱石   はて?そういえばどこかで何かに使ったような……?



漱石、素で忘れている



鏡子   ……どうして「清子」なんです?


漱石   え?


鏡子   「明暗」の、あの女性の名前ですよ。なんで「清子」なんです?


漱石   何だお前、俺の小説なんか読んでやがるのか


鏡子   ええ、そりゃあまあ


漱石   女が小説なんか読むもんじゃないよ、小説書いてる俺が言うのもなんだが


鏡子   ね、なんで「清子」なんですの?


漱石   なんでって訊かれても、そりゃあその時の思い付きだからなあ


鏡子   本当にそうですか?


漱石   なんだよいやに拘るじゃないか


鏡子   だって気になるじゃありませんか、なんでわたしの本名と同じ名前をつけたんです?


漱石   ん?ああそうだったっけな……


鏡子   嫌だわ、わたし、あなたにああいう風に見られているのかしら……


漱石   ああいう風にってなんだよ


鏡子   だって「清子」は、結局あの「関」っていう男に金を積まれて、恋人である津田さんを見限ったわけでしょう


漱石   お、お前あの人物像をそんな風に解釈してたのか……


鏡子   それでいて、偶々たまたま旅先で津田さんと再会したからって自分の部屋に呼び込むようなはしたない真似をして……


漱石   いやいやないない、あれはお前でも他の誰かをモデルにしたわけでもないから


鏡子   ほんと?


漱石   ほんとほんと


鏡子   じゃあ延子は?


漱石   は?


鏡子   津田さんの奥さんですよ、あの人もそうですか


漱石   そうだよ


鏡子   でもあの人もわたしと同じように、その、赤ちゃんを……


漱石   おい!


鏡子   ごめんなさい……でもわたし、いやなんです


漱石   あ?


鏡子   あなたが小説を書くたびに、小説で女性を登場させるたびにわたしの事をモデルにして書いているようでなんだか恥ずかしくて


漱石   あー、はーん、だからか


鏡子   「だからか」って、なにがです?


漱石   お前、自分の事を書かれるのがイヤだったから俺に小説を書かせまいとしてやがったのか


鏡子   そ、そんなわけじゃ……


漱石   ははは、ないないない、ないから安心しろ。第一お前をモデルに書くなら……


鏡子   書くなら?


漱石   あれだ、あんな艶っぽい女じゃなくて、もっとゴリラみたいなおっかねえ女になる


鏡子   ぬぁんですってえ!?(つねる)


漱石   いて、いて!ほらそれだ!延子も清子もそんな凶暴じゃないだろう


鏡子   もう!


漱石   わかったわかった、もうお前をモデルにはしないから勘弁してくれ


鏡子   やっぱりしてるんじゃありませんか!


漱石   冗談だ冗談、ほら、仕事をするから一人にしてくれ


鏡子   はいはい、岩波さんがミルクを差し入れてくださったから後で温めてお持ちしますね


漱石   いや、いい


鏡子   あら、いいんですの?


漱石   いい、少し仕事に集中したいんだ


鏡子   あなた……


漱石   うん


鏡子   またなにか食べ物隠してるんじゃないでしょうね?


漱石   隠してないよ!なんだよ信用ねえなあ、お前は亭主の言う事が信じられないのか!?


鏡子   信じられるわけ無いじゃないですか今まで散々あれだけ隠しておいて


漱石   あー、言ったな、言いやがったな!これでもか(布団を開けて見せる)これでもか(敷布を開いて見せる)これでもか(自分の寝間着をはだけて開く)



タイミングよく岩波が入ってくる。岩波、漱石の痴態(?)を目の当たりにして驚愕。


暗転。

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