九話 日常


朝の九時半になった。

楓は久方ぶりの、スーパー以外の買い物へと出掛ける日である。

多少のおめかしをして準備は万端。

今か今かとリビングのインターフォン前で行ったり来たりを繰り返し、不安げな表情を浮かべて歩いたかと思えば、次には恥ずかし気にニヤニヤとした表情を浮かべている。

ちなみに勇太は既に仕事に行っているので、この奇行を目の当たりにしている人間はいない。

が、影はいるのだ。

揺らめきもせず、ただ宙に浮かぶだけではあるのだが。


「え?おかしいって?だ、だって。緊張しちゃうけど、楽しみだし……」


傍から見れば独り言ではあるが、ちゃんと意思疎通は出来ている。

そんな奇妙なやり取りをしていると、待ちに待ったインターフォンが突如音を鳴らせた。

楓は身体をビクッとさせて一瞬驚くも、だがすぐに対応する。


「——白百合です、迎えに来ました」


「は、はい!すぐ行きます!」


モニター越しの芽唯にそう言って駆け足で廊下を飛び越える。

秒で靴を履き、玄関の扉を素早く開け放った。


「お、お待たせしました!」


「いや、殆ど待ってないけど」


息を切らしている楓に端的にツッコんだ芽唯は、早速乗って来たタクシーへと誘導する。


「ま、一応芸能人なんで。公共の乗り物はあまり使いたくないのよ」


「は、はあ……」


乗り込んだタクシーに揺られ、二人は目的地である近隣の携帯ショップを目指す。

人生初めてのタクシーは、何だか楓を大人にさせたような気分にしてくれた。

日頃レクサスの高級車に乗り慣れているせいか、乗り心地が良いかと訊かれれば微妙なところ。

けれどそういう問題ではなく、タクシーに乗るという行為そのものこそが醍醐味なのだ。

大人への三大階段とも言われる、酒、元カレ、タクシー。

その内の一つを今実践しているのだ、まあ楓の中のイメージでしかないが。


(勇太さん。楓は今、大人への一歩を踏み出しました。……何だかちょっぴり、寂しい気もしますが)


などといった考えに更けている楓に対し、何かを察した芽唯が話し掛けてくる。


「夜御坂さん、今すっごいどうでもいいこと考えてるでしょ」


「え!ああ、えっと……。あはは」


愛想笑いでやり過ごす楓に、芽唯はハアと一息溢してそれを見逃した。


車は目的地を目指す為、住宅街を抜けて大通りに出る。

栄えている駅の方向を目指しはするが、そこまでは行かずに途中の道路沿いにある携帯ショップが目的地。

今回芽唯は楓の事を気遣い、近場で最も人入りの少ない場所を選んでくれた。

まあ取り揃えは少ないかもしれないが、楓にとっては初めてのスマホの為どれにしたって未開の領分。

スクーターに次いでの大きなおもちゃである、楽しみで仕方がなかった。


けれどそれ以上に、友達になりたいと言ってくれた芽唯がこうして誘ってくれた事を嬉しく思う。

初めての友達はトップアイドルで将来の上司で、ちょっと強引な所もあるけれど。

あの日、針葉樹林の奥で楓を見つけてくれた芽唯が、こうして共に並んでくれている事に感謝しか湧かない。

今の楓には誇らしい友達がいるのだと、誰に対しても胸を張って言える気がしていた。


「さ、着いたわよ」


「はい!何だか、緊張してきますね……」


「大丈夫でしょ。何なら私が選んであげるし」


駐車したタクシーから降りた二人は、左程人入りのない店舗へと足を進める。

初めての携帯ショップに臆する楓だが、芽唯が先陣を切ってくれた。

手慣れた様子で受付を機械で済ませ、案内係の店員に目的を告げて店内を見て周る。

楓は着いて行くのがやっとであり、説明も全く理解できずにうわの空であった。

それを見越していた芽唯が初心者でも使い易い機種を選別してくれる訳だが、楓は色でしか判別できなかった。


「けっきょくこうなったわね」


「すみません……、想像以上の難解さでした……」


なんやかんやで契約を済ませ、後は支払いを済ませるだけとなった二人はそんなやり取りをする。


「まあ夜御坂さんには丁度いいくらいのスペック選んだから、後は使い方をレクチャーするだけ」


「何から何まで御丁寧に、ありがとうございます。あの、白百合さんも良いもの買えたんですか?」


「私は最新型。欲しかったやつだから気にしないで。夜御坂さんの三倍は値段するやつだし」


そうして二人は買い物を済ませ、店を出る。

お揃いの紙袋を手に再びタクシーへと乗り込んだ。


「じゃ、これから私ん家行くから」


「はい。……え!?白百合さんの家に行くんですか!?」


「そ。だって外じゃ教えるにも気が散るでしょ?運転手さん、お願いします」


芽唯がそう言うとタクシーがエンジン音を鳴らす。

楓は気まずいような気持ちのまま、車に揺られ始めた。


「別に何も取って食おうなんて思ってないわよ。藤堂さんの家にばかりお邪魔するのも悪いでしょ?それにお昼ご飯も用意してあるから」


「え、白百合さんが作ってくれたんですか?」


「……あまり期待しないでよ?どっかの料理男子みたいなレベルは無理だから」


「あはは、勇太さんは物事に夢中になりやすい人ですからね」


何だか勇太が褒められているような気がして、楓はちょっと嬉しくなった。




「ここが私の家」


「……は、はあ」


関東のとある地域。

勇太の家からは街を二つ程挟んだ場所が芽唯の暮らす街であり、白百合家の管轄区域に当たる。

その高層マンション最上階の角部屋のリビングで未だ呆けている楓に、芽唯は座るよう促す。


「待ってて、今ご飯持ってくるから」


沈黙のまま椅子にちょこんと座った楓を見て、何がそこまで衝撃的だったのかイマイチ分からない芽唯。

まあ確かにそれなりの家賃の物件に住んでいる訳だが、職業柄収入があるのは知っているだろうに。

しかも稼げる芸能界と稼げる裏家業なのだ、自慢ではないが宝くじなど金輪際必要ないくらいには潤っている。

だがそれも今更な話だろう。


「はい、お待たせ」


芽唯がテーブルにサンドイッチを運んでそう言うと、楓が目をキラキラと輝かせ始めた。

持っていたトレーには紅茶も淹れておいてある。

二つのティーカップを並べてそれを注ぐと、途端に華やかでフルーティーな香りが広がった。


「た、食べていいんですか?」


「言っとくけど、クレームは受け付けないから」


「は、はい!頂きます!」


楓が頬張ると、すぐに表情を変えた。

恍惚な表情が既に感想を物語っているので、まあ概ね良かったのだろうと芽唯は解釈した。


「美味しいです!」


「そ。じゃあ私も食べよ」


そう言って芽唯も一口。

料理など殆どしないので、今回は珍しくレシピサイトを漁った甲斐があったのか。

BLTベーコン、レタス、タマゴサンドイッチは思いのほか美味しくできていた。


「ほんとだ、結構美味しいじゃん」


「ですよね!あの、もう一ついいですか?」


「どうぞ。遠慮なんかしなくていいから」


パクパク夢中になって頬張る楓を見て芽唯は思う。

勇太が料理上手になったのは、この顔が見たいからではないだろうかと。


(なんか分かる気がするなあ。夜御坂さんって控えめな性格のくせに食事になると豪快って言うか。……なんか犬みたい)


楓の頭に犬耳が付いているように見えてきた芽唯は、撫でたくなる気持ちをグッと抑え込んだ。


「ほら、がっつくと喉詰まらすよ?」


「はっ!すみません、つい……」


「ちゃんと多めに作ってあるから、ゆっくり食べなって」


そう言った芽唯に従い、楓はがっつくスピードを落とした。




食事を終えた二人は早速、紅茶を堪能しながらもスマホのレクチャーに移っていた。

簡単な手ほどきから始め、電話の使い方、メッセージアプリの使い方、ネットの使い方等々。

本当に一からの説明だった為、それなりの時間が既に経過していたが、楓も夢中になって芽唯の教えに耳を傾けていた。


「そうそう、そこはこの機能を使って」


「こうですか?」


「ああ違う、ここじゃなくてそっちの」


時刻は午後五時半。

楓が今から帰るとなると、タクシーを使っても勇太の帰りには間に合わない時間帯となった。

だが芽唯にとってこの状況は想定済みである。


「あ、もうこんな時間なんですね。あっという間でした」


そう言ってくる楓に対し、芽唯は不敵の笑みを浮かべる。


「あれ?夜御坂さんこれから帰るつもり?藤堂さん家まではこっからじゃ一時間は掛かるから、買い物も間に合わないんじゃない?」


「ああ、そうですね。勇太さんには謝らないと——」


「謝る必要ないから。だって今日、藤堂さんには家に泊めるって言ってあるし」


得意気な表情で言った芽唯に対し、理解できているのかいないのか微妙な表情を見せる楓。


「……?誰をですか?」


「いや、夜御坂さんしかいないでしょ」


「えーと、私が白百合さんのお家にお泊りする。って事でしょうか?」


「そ。それ以外になんかある?」


「……。」


黙り込む楓に対し、あれ?と思う芽唯。

何かまずかったのだろうか、枕が変わると眠れないのか。

世間一般では友達の家にお泊りとなったらテンションが上がるところではなかろうかと芽唯は自分の常識を引っ張り出すのだが、如何せん芽唯自身も友達とお泊りなど初めてであった為、感覚的にはよく分かっていなかった。

そう思った途端、微妙な空気が流れている事を感じ取る。


「あ、嫌だった?今からタクシー呼んでもいいけど——」


「いえ!違うんです!」


そう声を大きくした楓に驚き、芽唯は言葉の続きを待った。


「嫌なんかじゃなくて、そうじゃなくて……」


「そうじゃなくて?」


「……私、パジャマを持って来てないんです!」


「は?パジャマ?」


何故そんなにパジャマに熱くなっているのだろうか、芽唯にはその真意が理解できない。


「だって、友達とのお泊りって事はパジャマパーティーって事ですよね!?」


「いや、必須事項ではないから」


かくして芽唯と楓のお泊り会が幕を上げた——。

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