第2話

あれから随分時間がたった。きりのいいページまで進んで、机に備え付けられた電波時計を見ると、「12:07」と表示されていた。

クリーム色の紙に並ぶ文字列に目をやる。最近、東京スカイツリーのソラマチの書店で買ったこの小説、僕の好きな芸人が執筆して今話題沸騰中である。滅多に本は買うことはない僕も、これは思わず買ってみた。値段は1600円。すぐ隣に並んでいた著名な女性作家の新作は1200円だった。こちらの方が芸人のものよりも本の厚みもあったが、僕は芸人を信じることにした。

これは短編小説で、全5編ある。たった今、2編までを読み終えたところだ。

正直、がっかりした。この後同じようなものが3編も残っていると思うと、気が滅入るほどに。つまるところ内容をどうこうを言うなら、くだらない純文学のそれだった。

もう、あの芸人のYouTubeチャンネルを見ることはないだろう。僕は1600円の怒りをぶつけるがごとく、本を乱雑にバッグに放り込んだ。物は大切にした方が良いが、金の方がもっと大切だ。

ふと、身体の下のあたりがぐぅっと音を立てた。

コンビニで昼飯を買おうと、ちょうど立った時に思い出した。気を紛らわすために小説を読んでいたが、そういえば彼女はどうしているのだろう。

まだ、ここにいるのだろうか。あるいはもう、帰った可能性もある。しかし、小説を読んでいるとき、辺りはずっと静かでこの世界には僕しかいないように思えるほどだった。

彼女は帰った、と踏んで遠慮もなく椅子をひいた。また、足が床に擦れる音が練内に響いた。

階段を下りながら、何を食べようか考える。近くに確か牛丼屋があったからそれでもいい。

2階に降りて、何気なしに机に目をやった。少し緊張する。階段から見るそこは、ちょうど死角になっていて、人がいるか確かに確認することはできなかったが、一瞬、机下の空間から、わずかにはみでた黒のスニーカーが見えたような気がした。

多分あの女は、まだ残っている。

僕は、そのまま1階に降りた。

長い渡り廊下を歩きながら、右のガラス壁に描かれた大学の歴史を遡るように移動する自分が反射していた。



まったく髪は伸び切っていて、だらしない顔つきをした僕が映っていた。



昼食は結局、松屋で食べることにした。一番安い牛丼並、味噌汁付きで300円。コンビニでおにぎりを2個買うよりも安く済む。書店での痛手の出費は、この先数日間の昼食を節約することで賄うことにした。

静かな渡り廊下、さっきは教会か何かと思ってやけに神聖な場所だと思い込んだけど、牛丼を食べて帰ってきたらなんてことない、ただの大学だった。

警備室の横を通る。もしもバッグを覗いた件を彼女が訴えるとしたら、それはきっと警備員さんだろう。防犯カメラの映像をはじめ、この大学内のシステムは全てここに集約されるはずだから、小細工などはきっと効かない。少しばかりの恩情をもらおうと警備員さんにまた会釈をしようと思ったが、休憩中なのかそこにはいなかった。

本当に、一人ぼっちの気分である。

十分膨れ切っていない腹に多少の重みを感じながら、階段を登っていく。また、2階を上がる途中、伺うような視線で机を見た。また黒の足、みたいなものが見えた。事なき主義の僕だから、ここでまじまじと見るわけにもいかず、またすぐに階段を登った。

机について息を整える。静寂な世界に、ギギギ、と床に椅子が擦れる音がいきなり響く。真下、多分彼女が椅子をひいた音だった。

帰るのだろうか、だとすればありがたい。僕が立てる一挙手一投足の音が誰かがいると思うと、それも、よりによもよって僕を警戒しているであろう彼女が真下にいると思うと、何をするにも集中できない。

別に大した勉強をするわけでもないが、変な緊張感をもってしまうのは余計な心理的負担がかかる。だからなんとなく警戒したまま階段の方を見ていたが、彼女は現れなかった。

何事もなく帰ってくれた、やっとそう思って安心した。



英単語帳を開き、牛丼のおかげかスラスラと単語が頭に入っている途中だったから、彼女が急に現れたのはひどく驚いた。

1時間ぐらい前にとっくに帰ったのではないだろうか。机の電波時計は「14:52」とあった。

僕はすぐに目をそらす、何か3階に用でもあるのだろう、と思うことにしていたが、その足音はどんどんこちらに近づいていた。

「あの」

「……はい?」

「私の六法全書返してください」

「はい?」

「私のバッグからなくなっているんです」

「……は?」

返答のすべてに「?」がついてしまう。もちろん僕は彼女のバッグを漁ったことには違いないが、六法全書の行方までは知らない。

「いや、知らないです。ってか、僕は何もしてないです」

「嘘つかないでください。あなた、私のバッグいじってましたよね」

なんとなく、彼女は気の強い人だと思った。普通ならここまで言い返すこともないだろう。

しかしなんとか弁明しないといけない。このまま窃盗犯になってしまえば、それこそ大学に居場所がなくなって、あの兄がいる家にいなければいけないことになってしまう。

「ごめんなさい、それは確かにそうだけど、だけど本当に六法全書は知らないですよ」

彼女は僕をじっと睨み続けている。完全に黒だと決めつけるような目。これ、前に、成田空港に密着したテレビ番組で、保安審査官が何か怪しいベトナム人を見る目にそっくりだった。

「じゃあバッグチェックしてもいいですか?」

「……あぁはい、もちろん」

本当に保安審査官に詰められているようだ。



彼女はついに僕の目の前まで来た。意外と身長が低い。僕は男子の中でも身長が高い方だから、おどおどしている様子は、情けない木偶の棒そのものだろう。

彼女が僕のナイキのバッグに手をつけた。ファスナーを開け、慎重に中身をチェックしていく。その時は、僕と距離をとっていた。当然だ。彼女の身になれば、逆上した男に急に襲われる可能性もゼロではないと思う。

静かな空間で、バッグの中身が擦れる音がしていた。数十秒立って、厚み的にも絶対にそこはないだろうと、いうサイドポケットのファスナーまで彼女は開けて確かめた。

全てのポケットを開けて満足したのか、彼女はそこでやっとバッグから手を引いた。

「ないです」

「……良かったです」

終わった、と思いきやまた彼女はこちらに近づき、机の下に屈みこんでみたり、横の机の脚の隣の空白、おまけに僕の身体をゆっくり上から下まで見た後、僕の周りをぐるっと回てみた。

僕もなぜか両手をあげた姿勢で、潔白の証明をする。銃を捨てろ、と言われてるよう。

一連の動作が終わった後、

「本当に盗んでないんですか?」

と再度確認するように聞いてきた。

「はい、盗んでないです。本当に」

僕がそう言い切ると、彼女は急にうなだれたように首を下に折り曲げ、何か声にもならぬ小さな音を発し始めた。

最初はそれが何かわからなかったが、次第にはっきりと彼女の泣き声に変わった。

「あれ、高かったのにぃ!」

そう言って、大声で泣き始める彼女。それまで張り詰めていた静寂な空間は一瞬で破られて、なんとも抑揚のない声が響く。

一方、焦った木偶の棒の僕は何をしたらいいかわからずおどおどするばかりだった。こういう時、なんて声をかければいいのか、正解がわからない。

「あの、なんかすみません。え、その六法全書って高いんですか?」

「何言ってるんですか!高いですよ!」

「いやぁそうなんだ。僕、全然知らなくて」

彼女は、その腫らした目のまま僕を睨んできた。

「あなた、学部はどこですか?」

「あ、えっと社会学部です」

「社会のことを勉強してるのに、六法が高いことも知らないんですね」

怒りをぶつけるような、完全な嫌味を言われた。

しかし、何か嫌な気分はしなかった。彼女のその口調が、幼い子供がゲームで負けたような言い方だったためだと思われる。

「……すみません」

「もう、じゃあ誰が盗んだんだよぉぉぉ。返せよぉ」

彼女はもはや、悲鳴にも近いようなもので叫び続けている。警備室まで届きそうな勢いだった。

「ちょっと、ちょっと落ち着いてください」

「落ち着けないですよ!奨学金もあるのに!」

「わかった。わかりました。じゃあ犯人を捜しましょう」

思わずそんなことを口走ってしまった。彼女は、急に泣くのをやめて、こちらを伺うような視線を向ける。

「なんで私があなたみたいな軽犯罪者と犯人捜ししなきゃいけないんですか?」

「軽犯罪者って僕?」

「他に誰がいるんです」

「あ、あははは」

笑いにもなれぬ、乾いた声が出た。多分、上手くできてない。

彼女は泣くのには疲れたのか、黙った。

嫌な間が生まれる。数十秒そうしたのち、彼女がおもむろに口をひらいた。

「まぁでも、1人より2人いた方が検挙できる可能性もあがりますし、やむをえない時ってやつかもしれません」

何やらそう言った彼女は、「しかもあなたが犯人だという可能性もまだあります」と続けて階段の方を向いた。

何やら交渉炸裂かと思って少し安堵する。しかし、次の彼女は平然と僕の方を振り返っていった。

「なにボケッとしてるんですか。見つけるんでしょ?早くきてください」

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