変わり者たちに花束を!!

夏場

第1話 

日曜日は、大学の図書館は閉まっていた。

予定表を見ずに来てしまった僕も悪いと思うが、数年間毎年100万近い学費を収めているのだから、土日に関わらず図書館は常に開いているべきだと思う。

今日の予定が潰れてしまった。18時くらいまで図書館にいてからDenny'sで夕飯を食べて帰るつもりだったがそうもいかなくなった。

さっきコンビニで買った2リットルの天然水がその存在を見せつけるように机の中央に鎮座する。いつもは1.5リットルのお茶を買うのだが、水の方が量が多いくせに値段も数十円安いから今日に限ってこっちにしてしまった。パンパンに入った水は見ているだけでも重く見える。バッグに入る大きさでもないから持ち運ぶしかない。

僕は運がない。


さすればどうしよう。今から家に帰るつもりはないし、帰りたくもない。帰りたくない理由は色々あるけど一番大きいのは兄の存在だ。僕には3つ上の兄がいるのだが、彼とは趣味や嗜好、物の小さな考え方に至るまで何もかも馬が合わない。

僕はおとなしい性格だが、彼はいつも躍動的なのだ。

それは威勢がいいとか活気があるとかそういのじゃなくて、単にうるさいだけ。

彼と一つ屋根の下(マンション住まいだから正確にいえばそうではないのだが)で暮らすのは酷く疲れる。

だから、僕は本来の時間まで大学にいることにした。

重い腰を勢いよくあげて、一度外に出る。図書館の横、上下2つのエスカレーターの下りの方に向かうと、僕の存在をキャッチした、それまで音を立てずに制止していたエスカレーターが騒々しい発動音をたてて動き出す。

そのまま下に降りると、天井のガラス窓から日光が優しく指すその場所についた。誰もいない静寂な渡り廊下に僕の足音が大げさに響く。

警備室にいる警備員さんが常駐していたから、流れるように会釈をしてエレベーターに向かう。

そのまま、3階に向かった。

教授たちの研究室と授業教室が軒を連ねるように左右に並ぶここも、いつもなら学生たちがうるさいが、今日は静かだ。

すぐ右を見れば、小学生の時に使っていたような無機質な茶色をした机が4つ等間隔で並べられていた。

今日はここで時間を潰そうと思う。

椅子をゆっくりと引くと、4つ足が床に重々しく擦れる音が練内に響いた。さっきの警備員さんと僕、どうやらそれ以外の人はここにはいないみたいだ。

昼前の空は、白の光が空全体を映しているのがわかった。その光だけで十分明るかったため、わざわざ机に備え付けられたライトをつけるまでもない。

少し埃っぽいそこの場所で、僕は英単語帳を開いた。

英検準1級の単語帳だ。一年浪人して慶応大学に行った友達から、3年ぐらい前に借りたまま結局返さずにいる。

何気なしに開いた単語帳はいくつものチェックが溢れていた。覚えているものを再び覚えようとするのは時間の無駄なので、完全に頭に入った単語にはチェックを入れているのだが、いつの日かだらけた日に、「なんとなく頭に入っていればいい」とハードルを下げてしまってから、結局今や見境なく多くの単語にチェックが入っている状態である。

つまり、気持ちを新たにしてまた一から単語をすべて覚えていくしかない状態である。

一つ一つ覚えていく。abadon 捨てる、adapt 順応する、affect 影響を及ぼす、……最初は調子が良かったのに、段々とだらけていく。

fine 罰金を科す、harass 悩ます、prove 判明する……。

「……」


次第にスマートフォンに手が伸びていって、エックスやインスタグラムを数分見ては、数分英単語を見て、を繰り返すようになってしまった。

それでもある程度ぺージ数が進んで、試しに今覚えた単語をどれだけ覚えているかチェックしてみた。

最初の「abadon」から今の「overlook」まで、半分以上の単語を全く記憶できていなかった。

集中できない。それに、さっきからじわじわと汗が額に溜まていっているような気がする。

クーラーも効いてないこの場所で、一人勉強しようという方が無理なことなのかもしれない。

とりあえず、今やったところまででわかるように、しおりを挟もうとバッグから取り出した。単語帳を閉じて天井を見上げる。この練は4階、5階とあるが、その2つの壁は2階、3階とは違いガラス壁ではなくモザイクになっているため中の様子を知ることはできない。

外はさんさんと晴れているのだろう。穏やかな陽だまりがこの場所全体を包んでいる。



息抜き、といえるほどの勉強はしていないが、とりあえず練全体を歩いてみることにした。気分転換だと自分に言い聞かせて、階段で5階まで登り一階ずつ下りてゆく。

5階には、一番右の広い空白のスペースに何故かシルクがあった。一人暮らしにも十分なほどの大きさのそこには、洗剤やらタワシやらが散らばっていて、実際に使われている様子である。

4階に降りる。特になにもなかったから、3階は飛ばして2階まで降りた。

机が並べられているのは、3階と2階だけ。構造も3階と同じような造りだったから、特に何もないだろうと思ったが一応周回する。

研究室のドアにかかるプレートには「史学史」や「ヨーロッパ研究」などそれぞれの教授が専門しているであろう分野がそこに張り出されていた。

わかってはいたが、当然何もない。角を右に曲がって階段までの直線に差し掛かったところで、3階と同じ位置のところで、無機質な机が4つ並べられていた。

万一誰かいるかもしれない、と何か変な期待感を抱いたため、何かを伺うように横切ったが誰もいなかった。

なんだか裏切られたように感じ、少し落胆したまま階段を登ろうとすると、机の椅子に寄りかかった黒のバッグが目に入った。

持ち主を待っているかのようなバッグは、静けさを保ったままそこにくたびれている。

スルーして素通りすればいいものの、なんだかそういう気にはなれなかった。

誰かが忘れていってしまったのかもしれない。そう思ってバッグの方まで足を向かわせる。

ネイビー色の無地のシンプルなバッグは、2つの肩掛けがあまり主張しないシンプルな造りだ。

中身は何が入っているのか、そんなことが気になった。

いつもなら、というか常識を持ち合わせた人間であれば、わざわざ近くに寄って他人のバッグをまじまじと見るなんてことしないであろう。もちろん、僕もしない。

そして仮に何かのはずみでそうしたとしても、すぐにその場から立ち去ることが常識範囲内の行動である。

ただ、現実世界と隔離されたようなここは、静けさに包まれ穏やかな光が灯っている教会みたいだった。ここでやる悪事は全て許されるだろう、とそんな風に思ってしまったが最後、僕はバッグのファスナーを開けて中身をのぞき込んでいた。

何やら教科書やキャンパスノートが見える。それだけ見てすぐ行こうと思ったのだが、なんだか一つだけ横にも縦にもスペースを大きくとっているそれが目に入った。

一番分厚い青みを帯びた本みたいなそれは、「六法全書」とあった。こんな仰々しいものが、このバッグに入っていたことはなんだか意外だった。



「なにやってるんですか?」



背中にそう声を受けて、全身がビクリと音を立てたように挙動した。中々後ろを振り返れない。脳内で様々な考えをめぐらす。しかし、背後のその声は、僕に考える余地を与えないように追随してきた。

「それ、私のバッグです」

さすがにここまで言われたら、後ろを振り返ざるを得ない。首だけゆっくりと振り向かせると、女が僕をみていた。

黒髪は肩辺りのところで均一にまとめられていて、それはボブカットというやつだろう。白のブラウスシャツにタイトなロングスカートをはいた彼女は、その性格が服装に表れているみたいだった。

彼女は警戒するような口調に加え、少し震えたような声色で僕を睨んでいた。

無理もない。見ず知らずの男に勝手にバッグを漁られるなんてことは、怖い以外のなにものでもないはずだ。

「あの、ごめんなさい」

とっさに出た第一声はそれだった。自身の保身の言い訳よりも、まずは謝る。母に散々しつけられた毎日の成果がここにきて発揮される。

それ以上の言葉は、彼女は発しないように思えた。心地いい静寂が支配するこの場所も、今や苦しさが溢れるばかりだった。

数秒の沈黙の後、僕から口を開いた。

「いや、その忘れ物かなって思って」

「……あぁそうですか」

彼女だって、もうこれ以上話したくないのだろう。その言葉は早く終わらせるような消えるようなものだった。

「いたずらとか、そういうのは本当にしてないので、なので、すみません。失礼します」

これ以上会話を長引かせたくないのは、こちらも同じだった。早々に切り上げるように、急いでそれだけ口にした。

彼女が目線だけを、こちらに追うのがわかる。そのつきまとう視線をなんとかくぐり抜けて、僕は階段を静かに、それでも早足に上った。

3階の机につくころには、大分息が上がっていた。僕は帰ろうか迷ったが、やっぱり兄のことが浮かんでしまって結局ここに残ることにした。

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