第84話 がんばって!

「よっ!」


 貴樹は右手を上げて軽い調子で美雪に返した。

 しばらく呆然したような顔で、肩を荒く上下させていた美雪だったが、やがてどんどん眉間にシワが入り始めた。


「なにそれ! めっちゃ元気そうじゃない! 心配して損した!」


「そ、そうか……?」


「当然よ!」


 そう言いながら、彼女は着替えの体操服が入っているバッグを貴樹のベッドの上に勢いよく置いた。

 そして、そのまま自分もその横――ベッド脇にどすんと腰掛ける。

 一瞬スカートがふわっと翻ったが、残念ながらぎりぎり見えなかった。


「まぁ落ち着けって。周りに迷惑だろ?」


「心配ないよ。だってこの部屋、入院してるの貴樹だけだもん」


「え、そうなん?」


 カーテンで仕切られているから、てっきりほかにも入院患者がいるものとばかり思っていたけれど、言われてみると確かにこれまで声や気配は感じなかった。

 慌てているように見えて、ちゃんと確認しているところは彼女らしいと思えた。


「はあぁー……。本当に心配したんだから。まさか救急車で運ばれるなんて……」


 元気そうな貴樹の顔を見て少し落ち着いたのか、今度は大きな大きなため息をつきながら、美雪は目を細めた。

 ころころと表情が変わるのはコミカルで可愛いと思えるけれど、この病院に運ばれるまでのことを覚えていなかった貴樹は怪訝そうな顔で聞き返した。


「救急車? 俺、救急車乗ったのか?」


「え、やっぱ覚えてないの? そうよ。ホントすっごく大事件だったんだから。無理に動かせないから、30分くらい競技も中断したし……」


「そうか……。そりゃ迷惑かけたな……」


「まぁ、それはいいよ。プログラムの順番変えて、先に昼休みってことになったから」


「へー……」


 体育祭でここまでの大事おおごとになったことはこれまでなかったかもしれない、と貴樹は思った。

 自分の失敗で周りに迷惑をかけたことを気に病むが、美雪の話からするとそこまでではないのかもしれない。


(……とは言っても、あとでいろいろあるんだろうなぁ)


 今は良いとしても、事故があったことに対して学校の責任がどうとか、そういう話も出るに違いないと、そんなことを思い浮かべた。

 とはいえ、自分が何かできるわけでもない。


「一応、最後まで体育祭はやったんだよな?」


「うん。私たちのクラスは2位だったよ」


「そっか」


 学年で1位になったからといって、ちょっとしたトロフィーがクラスに置かれるだけで、それ以上の何かがあるわけでもない。

 ただ、それはそれで勝てればうれしいことでもある。

 残念そうな貴樹の顔を見て、美雪が察したのか声をかけた。


「貴樹が勝ってても、たぶん順位は変わってないよ。結構大差だったから」


 障害物競走で勝っていればもしかしたら1位になれていたかもしれないと思っているのではないかと、美雪は思ったのだ。

 事実、その通りだった貴樹は苦笑いを浮かべた。


「よくわかったな」


「にひひ、なんとなく、ね。……で、賭けのことだけど」


 美雪の話に貴樹はどきりとした。

 負けたところで大したこともない賭けではあるが、彼女に勝ち誇られるのもそれはそれで気が重くなるからだ。


「あ、ああ……。俺の負け……なんだよな? 覚えてないけど」


 恐る恐る、貴樹は尋ねた。

 状況からすると間違いなく負けているのだろうが、全く記憶にないから確信は持てない。

 いわゆるシュレディンガーの猫のようなものだ。


 そういえば、高校受験の時の合格発表のとき、美雪とそんな話をしたことを思い出す。

 発表は結果が周知されるだけで、それ以前に結果は決まっているのだから、そわそわしたとしても無意味なものだと。

 それはわかっているけれど、それでも落ち着いて見ることができないのも事実ではあるのだが。

 あのとき平然と落ち着いていたように見えた美雪だが、それは合格するという確信を持っていたからなのだろう。


 しかし、美雪はなんとなく困ったような表情を見せた。


「う、うん。そりゃ……ゴールしてないから……ね」


「だよなー。いいぜ、なんでも作ってやるぜ。明日……は無理かもしれないけど」


 約束通りなら、明日の昼をご馳走するという話だったはずだ。

 ただ、今の状況からすると明日までに退院できるかどうかはわからなくて、そう返事せざるを得なかった。


 貴樹は最初から負けたつもりで考えていたのだが、美雪は小さく首を振った。


「その話だけど、賭けはなかったことにしない……?」


「え、なんで?」


「あれからずっと考えてたんだけど……。もしかして、貴樹が転けたのって、二人三脚のときに痛めてたからじゃないかなって。……だとしたら、私のせいだし」


「んー……」


 申し訳なさそうに美雪が言うのを聞いて、貴樹は必死でその時のことを思い出そうと頭を抱えた。

 しかし、二人三脚で痛めたことは覚えていたものの、障害物競走でなぜ転けたのかは、はっきりとは思い出せなかった。

 美雪の言う通りかもしれないし、そうではないのかもしれない。

 とはいえ、貴樹としてはどんな理由があったとしても、負けたことには変わりがないと思っていたけれども。


「全然、覚えてないんだよな……。転けたときのこと。でもさ、負けは負けじゃん。飯くらい作るぜ」


「でもすっきりしないもん。……じゃ、こうしない? 次の休み、一緒に作ろうよ。私も手伝うから」


「…………」


 しばらく美雪の顔を見ていたけれど、久しぶりに彼女の困ったような顔を見たような気がして。

 こういうときは、強く言うのはよくないとわかっていた。

 だから――。


「……わかったよ。とりあえず、早く退院できるようにするよ」


「うん、がんばって!」


 貴樹は「なにをがんばったらいいのか」を考えつつも、ぱっと笑顔を見せた美雪にそっと手を伸ばして、ぽんぽんと頭を撫でた。

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