第82話 ヤベ――

 障害物競走は、一般的などこにでもあるようなタイプのものだ。

 スタートしてすぐ、卓球のボールをお玉に載せて走り、そのあとネットくぐり、平均台、ダンボールの中に入って進む。

 そしてはしごの穴をくぐって、最後は吊られたパンを加えてゴール、というものだ。


 多少の小手先の技術も必要だけれど、貴樹はそういった器用さも持ち合わせていることから、昨年は同じ競技で圧勝していた。


「今年は貴樹と勝負できるね」


 スタートの同じ列に並んだ陽太が隣の貴樹に声を掛けた。


「あーあ、陽太が相手かよ」


 嫌そうな顔をしながら貴樹が答える。


 陽太は中学時代に同じサッカー部だったことから、貴樹もよく知っている。

 もちろん、彼の運動神経のことも。

 貴樹のほうが体格は良いこともあって、足は多少速いけれども、陽太はバランス感覚が優れていて、むしろ障害物競走のようなトリッキーな競技に向いていると思っていた。

 昨年は同じクラスだったこともあり、同じ障害物競走を走っていたものの、違うグループで直接対決することはなかった。

 今年はクラスが分かれたことで、偶然にも同じグループで走ることになった。


「ま、怪我しないように気楽にいこうよ」


「……とか言いながら、走り出したら負ける気無いだろ?」


「あはは、一応勝負事だからね。わざと手を抜いたりしないって」


「だよなぁ……」


 そんな会話で、陽太とスタート前のジャブを打ち合う。

 貴樹にとっては、美雪との賭けもあって負けるわけにはいかない。


(しっかし、陽太が相手だと厳しいな……)


 特にネットやはしごをくぐるのは、体格的にも陽太のほうが有利だ。

 足の速さでは勝てると言っても、全力で走れる区間などないに等しいこの競技では、むしろスタートダッシュに優れた陽太のほうが速いことも十分考えられた。


 ちらっとクラスのテントのほうに視線を向ける。

 明るい色で目立つ亜希の髪が見えるから、たぶん近くに美雪もいるんだろう。

 負けたところで大したことはないけれども、負けたあとで彼女に何を言われるか。

 勝ち誇る彼女の笑顔が目に浮かぶ。


(ま、それはそれで可愛いけどな……)


 ふとそう思ってから、苦笑いを浮かべた。

 付き合うようになるまでは、可愛いとは思いつつ小言はさすがに辛いものがあった。

 ただ、今も小言は言われるにしても、以前のような棘はあまり感じなくなってきた。

 それは、彼女の本心が理解できるようになってきたからかもしれない。


「それじゃ、次の組、準備はいいか?」


 先生の声で貴樹は顔を上げる。

 次は自分たちの順番だ。

 陽太と頷き合って、スタートラインに並ぶ。


「よーい――」


 パン!


 拍子抜けするほどスタートの号砲は軽い。

 とはいえ、そんな事を気にする間もなく、貴樹はスタートを切った。

 徒競走とは違いスタートダッシュが重要になるから、最初から全開だ。


(くっ……!)


 しかし、体ひとつぶん、陽太が前を行く。

 斜め後ろにつくが、後ろに目があるのかと思うほど絶妙な位置関係でブロックされていて並ぶことができない。

 膨らんで抜くには距離が足りないし、イン側を押さえられているのも厳しい。

 結局、そのまま周りからふたりが抜け出す格好で、最初の障害であるボール運びに到達した。


 ◆


「陽太くん、速いね……」


 テントで競技を観戦しながら、美雪はボソッと呟く。

 彼が負けることに賭けているものの、レースとなれば結局貴樹に勝ってほしいと思う自分に気づいて、ついつい強く拳を握りしめていた。


 貴樹はボール運びのあとネットの下をくぐるところまで、友人である陽太のすぐ後ろをマークするように走り、抜くタイミングを狙っているように見えた。

 その後ろは大きく離れているから、もうそのふたりの一騎打ちだと言ってもいいだろう。


 ネットのあと、次の平均台までは少し距離がある。

 低い姿勢から一気に加速した貴樹が、2本並んだ平均台のアウト側に向かって走る。

 イン側に向かった陽太とほとんど並んで、平均台に乗ろうと大きくジャンプした。


 ◆


(ここで前に出る……!)


 貴樹は陽太の背中を追いながら、そう考えていた。

 平均台の次はダンボールの中に入ってキャタピラのように進むエリアだ。

 この区間は直線だから、イン・アウトの不利はなく、そこで前に出られれば勝てる可能性は大きくなる。


 それを狙って、平均台を数歩で飛び越えるべく、大きく股を開いてジャンプした――。


 ――ズキッ!


「っつ――!」


 突然、股関節に激痛が走る。

 それまで走っていてもなんともなかったのが、股を開いたことで痛みが再発したのだろうか。


 ただ、そんなことを考える暇はなかった。

 平均台の狭い幅に足を正確に乗せないといけない。

 そう思って台の上を狙って足を踏み降ろすが、痛みでバランスが崩れていて、狙ったところに足がコントロールできない。


「ヤベ――」


 ズレたのはほんの少し――数センチだろう。

 普通に走っているときなら、誰も気づかないくらいの。

 しかし、たった10cmしかない平均台では、それだけでも命取りになった。


 ――ガツッ!


 一歩目で平均台の角を踏んで足を滑らせた貴樹は、手で顔を覆ったものの、勢いを殺しきれず前のめりに頭を平均台にぶつけてしまった。


「ぐっ――!」


 一瞬声が出るが、それどころではなく、走ってきた勢いのままで頭から地面に転がる。

 もう一度地面とぶつかった衝撃を頭に受け、頭が真っ白に光ったように感じた。

 ただ、それ以上のことは覚えていなくて、ただ「痛い」という感覚だけが残っていた。

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