第7話 なっ、なんでもないっ!

「おっそーい!」


 戻った貴樹にかけられたのは、いつもと変わらない美雪の声だった。

 ただ、なぜかそれに安心する。

 加えて、メイド服姿で腰に手を当て、眉を吊り上げている彼女を見ると、むしろ悪い気はしなかった。


「悪い悪い。美雪のこと考えてて、つい……」

「――はああっ?!?」


 彼の言葉に、美雪は泡を食って素っ頓狂な声を上げる。

 こういう反応も今まで見たことがなく、新鮮な感じがした。


 美雪も混乱していた。

 急に名前を挙げられたことに、頭がついていかない。


(わ、私のこと⁉︎ ――それってどういう意味……?)


 どんどん心拍数が上がっていき、美雪の脳内にはアラートが鳴り響いていた。

 ――つまり、テンパっていた。


 貴樹はそんな彼女の前髪をぐいっと上げて、額をコツンと当てる。


「なぁ、急にどうしたんだ? ……熱でもあるんじゃないか?」

「――――!!!」


(――か、顔っ! 近い、近い……っ!)


 息がかかるほど間近に顔を寄せられて、彼が一度部屋を離れた間に収まっていた火照りがまた再燃する。

 呼吸がどんどん早くなって――ブレーカーが落ちたように、プツンと意識が遠のいた。


「あ……」


 小さな声を発してよろめいた美雪の腰を、貴樹は慌てて抱き抱えるようにして支えた。


「お、おい……! ほんと大丈夫か⁉︎」


 心配する彼の顔をぼーっと見つめながら、焦点の定まっていないような表情で、美雪は呟く。


「……うん……。だい……じょうぶ……」


 そうは言うものの、全く大丈夫には見えなくて、貴樹はそっと自分のベッドに横たえた。


「ちょっとそこで休んどけよ。俺、飯食ってくるから」

「ん……」


 様子のおかしい美雪を残していくのは心配だったが、そろそろ準備しないと遅刻しそうで貴樹は部屋を出た。


 ◆


 心配していたものの、食事の間に美雪は無言で自宅に帰っていった。

 そして、貴樹が学校に行く準備を整えて玄関を出ると、いつものように美雪は外に立っていた。


「悪い、待たせたか?」

「おっそい! 宿題はちゃんと持ってる? 今日は英語と化学ねっ」


 貴樹が声をかけると、さっきまでとまるで違う、美雪のいつもの反応が帰ってきた。

 そのことに安堵する。

 

「おう、今日はばっちりだぜ!」

「ん。ならよし! でも学校でちゃんとチェックするからねっ!」


 美雪はそう言うと、さっさと歩き始めた。

 それに続いて貴樹も家の門を出る。


(いつも通り……いつも通り……)


 しかし、背後に彼の視線を感じて、美雪はまだ胸が高鳴ったまま、心の中でぶつぶつと呪文のように唱えていた。


 駅に向かって歩いているとき、大きな交差点に差し掛かった。

 美雪はぼーっとしたまま、横断歩道を渡ろうとして――。


「お、おい! 危ない!」

「――えっ⁉︎」


 急に手を引かれて足を止めると、小さな声を上げた。


「――な、なに……」


 抗議すべく彼の方を振り向こうとしたとき、目の前スレスレを1台の車がすり抜けて行く。


「――信号! 赤だって」


 声を荒げた彼の言葉で我に返って、信号を確認すると、確かに歩行者用の信号は赤になっていた。

 自分が見落としていたことに、それでようやく気づく。


「あ……ごめんなさい……。ぼーっとしてて……」

「ダメだろ、気をつけないと。ほら……」


 彼にぐいっと手を引かれ、歩道に戻される。

 美雪は繋いだ彼の手をじっと見つめて、ふと子供の頃の記憶が視界に浮かんだ。


(……以前はいつもこうして……)


 いつの頃からか手を繋ぐことなどなくなっていたが、あの頃と変わらず、彼の手は温かくて――。


「おいおい、何笑ってんだ?」

「――えっ」


 指摘されて初めて、美雪は自分がうっすらと笑顔を浮かべているのに気付く。


「なっ、なんでもないっ!」


 慌てて彼の手を振り解きながらも、小さな声で呟いた。


「……ありがとう、貴樹」


 ◆


 それからの美雪は、ずっと黙って貴樹の後ろを歩いていた。

 いつも彼女が前を歩くのに、やはりどうも今日の彼女は変だ。


(……まだ昨日のあれ、引きずってんのかな? でも、ガキの頃はこうだったんだよな……)


 貴樹は背中からの視線が久しぶりで、懐かしく思えた。

 小学校の頃までは、内気で大人しかった美雪。

 どこに行くにしても、貴樹の後ろを黙って付いてくるような少女だった。


 ただ、それを懐かしいと思うけれども、その頃に戻りたいかと問われると、答えはNOだった。


(なんか調子狂うんだよな。美雪が大人しいのも……)


 中学校になった頃から明るく社交的に変わった今の美雪のほうが、貴樹にとっては彼女らしいと思えたからだ。


 幸いなのかどうなのか――その日は高校に着くまで、クラスメートとは会わなかった。

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