鍵を持ってるか?(2438字)

 基継は、ぼくが家の鍵をもっているかどうかについて、大きな懸念を払っているようでした。

 ――だってさ、よく言うじゃん。旅行に行くと、好きなひとの嫌な面がよく見えて、喧嘩になるって。

 なるほど、確かに聞いたことがないではありません。そうして、旅先で喧嘩別れの揚句ひとりで家に帰ったら、ドアすら開けることができず立ち往生、だなんて、なんという悲劇――あるいは喜劇でしょう! とはいえ、さっきからそわそわとした口ぶりで、「なあ、春也。ちゃんと家の鍵持って出た?」とくり返す基継の過剰なまでの心配性ぶりは、ぼくをとっくにうんざりさせています。こいつのこういうとこ、ほんとめんどい。第一、同棲して3年にもなるのに、今更見たことがない「嫌な面」なんてあるかいな、というものです。

 キャリーケースを何度かステップにぶつけながらバスに乗り込む基継、というのも、「おなじみ」というほどではありませんが、ヴァリアントとしてはよく見たことがある、基継の「嫌な面」です。たかだか1泊2日でなんだその大荷物は。

 ――だっておれ、枕が代わると眠れないんだもん。

 子供っぽくそう口を尖らせ――この所作は「嫌な面」の数には入りません。ぼくにとっては――、枕をいそいそと荷物に詰める基継には、確かにそういう神経質なところがありますが、とはいえ、1晩くらい眠れなかったところで死ぬわけでもあるまいに。とはいえ、そういう面に眼をつむることは、比較的たやすいことのように思います。こんなことで小競り合いを起こしていては、命がいくらあっても足りません。

 バスは、青ざめた洞窟のようにがらんとしていました。いまにも鍾乳石を這って落ちる水音が、どこかから聞こえてきそうなくらいに。基継はひとりがけの席に座り、よいしょ、と、キャリーバッグを自分のほうに引き寄せます。そのとき、ちらりと基継の横顔が見え、ふと、ぼくは違和感をおぼえました。頰を涙が伝ったような痕跡があったからです。そりゃあ確かに基継は泣き虫ですが、しかし、これから楽しい楽しい旅行に行くというのに、泣く理由があるとはさすがに思えません。

 汗だろう。11月とは言え、なんか暑いし。そう言い聞かせようとしたぼくは、すぐに2つめの違和感を発見します。それは、基継の左手首に巻かれた、伯父の形見分けでもらったとかいうロレックスでした。基継もぼくも普段腕時計をする習慣はなく、それは多くのジュエリーがそうであるのと同様に、箱の中にしまわれっぱなしなのが常だったのですが――いったいなぜ基継はそれを嵌めているのでしょうか? 今日に限って?

 運転手が出し抜けに、酩酊したような声でバス停の名前をアナウンスし、柄にもなくぼくはびくりとしました。ぼくたちが向かう空港はこのバスの終点で、あと20分ほどはかかります。20分。ふたりでああでもないこうでもないと雑談していれば、すぐに終わらせることのできる時間です。違和感の3つめは、基継がいつものように、後ろを向いて、内心他の乗客に迷惑ではないかと思うようなばかでかい声で、ぼくに雑談をしかけてこないこと、まさにそのことにありました。これだけ揃えば、「証拠」はすでにじゅうぶんなように思えます。ぼくはその「証拠」を提示して、基継になにかあったのかを訊ねることが可能です。もちろん、何もなかったなら何もなかったでかまわないのです。誰かに向けられるそのとき、「杞憂」というのはなんと美しい思いでしょう。けれども、それができなかったのは、ぼくが基継の肩をたたくよりも前に、基継がぼくのほうを振り向き、至極まじめな顔で口を開いたからです。

 ――なあ、春也。ちゃんと家の鍵持って出た?

 ……もしかするとぼくは、今日1日ずっとその言葉の「意図」について考えようとしない自分を誤魔化していたのかもしれません。しかし、こうも近くで、こうも真剣に言われると、どうしたってそれを考えざるをえなくなります。自身に向けられるそのとき、「杞憂」というのは底なしの思いになります。実際に「杞憂」で終われば笑い話になるけれども、それでも。

 すなわち、ぼくはこう結論づけたのでした。基継がぼくに何度も何度も鍵をもっているかと問いただすのは、基継はもう、ぼくたちの住まいに戻るつもりはないからだ、と。旅先でぼくに別れ話をして、そのままぼくの知らないどこかへ行ってしまうつもりなのだと。それがこの世のどこかならいいけれども、もしかしたら――ほんとうにもしかしたら、そうではないのかもしれない。荒唐無稽? 牽強付会? 頰の跡とロレックスと口数が少ないこと、それだけを証拠にそう考える自分は、たしかにそういう四字熟語の似合う人物であると思います。だからぼくは、何事もなかったかのようにこう言うのです。

 ――何度言わせる気だよ。ちゃんと持って出ました。

 ――そか。

 基継はゆっくりと頭を前に向けます。そうしてぼくは、そっとボストンバッグのファスナーを開き、その内ポケットにあるキーホルダーに触れてみます。もし――もしもぼくが鍵を家に忘れていたのなら、基継はぼくに別れを切り出さなかったでしょうか? そうかもしれません。そういう優しいところが基継にはあるのです。基継は優しい人なのです。けれどもぼくは、それが骰子さいころであるとも知らない返事をすでに投げてしまっていました。それでも、今なら――まだ今なら、泣いて縋れば基継はきっと、ぼくと一緒に生きる道を選んでくれるでしょう。にもかかわらず、ぼくにはそれができないのです。ぼくは「そういう人」ではないからです。

 バスの運転手が、酩酊したような声でバス停に到着するとアナウンスをします。ぼくはキーホルダーから手を放すと、顔をあげました。ぴんとまっすぐに伸びた基継の首筋が、あたかも揺るぎのない決意のように眼を射って、ぼくは震えだしそうな手をおさえるために、ぎゅっとボストンバッグの持ち手を握りました。


※友人のUさんより「一泊二日」「鍵」というお題を頂戴し執筆した作品になります。

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