世界の終わり

 財布の留め金を開けようとする手が震えていた。震えている手の半ばほどは硬めの生地のコートに蔽われ、店の外の夏の暑さとは対照を為していた。

 たとえばその感覚は、高所恐怖症の人が吊り橋の半ばでおぼえる感覚に似ているのかもしれない。身がすくむ。けれども、足を動かさないと前へ進むことも後ろへ戻ることも出来ない。大理石を模したレジ台に置かれたたったひとつの菓子パンの袋のうえで、店員が釈然としない顔をしているのに客人は気づいていて、それが余計にその手の動きを、やや骨張りと加齢皺の目立つその手の動きを、悪い意味で活発にしている。いっぽうで、「店員が釈然としない顔をしている」というのは実は客人の誤解であり、店員は客人を懸念がってはいるが、それは「釈然としない」という言葉が言外に顕すような、自分の理解を至上目的とするあり方とは様相を異にしている。

 客人のうしろで、ペットボトル・ドリンク用の大きな冷蔵庫が開き、閉まる音がする。焦りながらも客人はようやく留め金を開けおおせる。ほっという露骨な息が客人の口から漏れ、けれども、思わず店員はレジ台から身を乗り出しそうになる。財布を無事に開くことができた安心感からか、客人の手の力がゆるみ、財布が落ちそうになったからだ。

 誰も、何も間に合わなかった、と言える。乾いた床とコインがぶつかり、ひとつぶつかる都度にかんとかこんとか言う音を立てる。コインの数は多く、かんとかこんとかいう音は、パチンコのフィーバーのように鳴り止まない。それでも、財布の中に入るコインの数には自ずと限界がある。客人の周りにコインの渦ができる。一円玉がやたらに多い。次に目につくのは十円玉。店員はレジスペースから出ようとし、けれども、客人がその場にうずくまるほうがはやかった。うっとかえっとかいう呻き声が聞こえる。その呻き声に、嗚咽、という名前をつけるのに、店員はいささかばかり時間を要した。膝を抱えてコートの腕と腕のあいだに吸いこまれそうに顔をしずめながら、店員はふとこんなことを思う。いま、このひとの世界は一度終わりを迎えたのだ、と。そうしてきっと、これから死ぬまでに、自分は何度「世界の終わり」を迎えるのか、ということが、想像するだけでおそろしいのだろう、と。もちろんその想像の正当性を保証するものは何もない。少なくとも、この店員にとっては。

 店員は今度こそレジスペースから出ると、客人の周りに散らばったコインを無言で拾い集めはじめる。なにか怒りにも似た情熱が店員の中に沸き上がっている。その感情とは裏腹に、店員はゆっくりゆっくりと疲労。あたかも、なにも傷つけないような速度で。一円玉、百円玉、十円玉。五円玉と五十円玉――なぜだろう、ドーナツ型のコインは少ない。あらかた集め終えたところで、店員は、お客様、と声をかける。客人が顔をあげてくれるように祈りながら。そうして、願わくは自分が拾い集めたコインが、客人の目に何か花束のように映りますように、と祈りながら。

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