掌編小説まとめ

箔塔落

まだ楽しいし(2146字)

 睫毛は短い。なにが起きたかわかっていないかのような顔でしきりとまぶたをぱちぱちするので、まだ熟していない野葡萄のような目がおれの視界に出たり入ったりする。榛馬はるまにとってもそのまばたきは、数秒のあいだのさらに小刻みないくつかの瞬間、この場所をこの場所でないものにしている、と言っても誤りではない。あるいは、おれを、ただの暗闇に。なんかむかつく。だからおれは、榛馬のほっぺたを親指と中指で出し抜けにぎゅっと押さえる。フグ? タコ? どちらにも似ている不細工さであり、しばし「少年」がなぞらえられる鉱石性とは縁遠いものである。おでんに入れるぷるんぷるんのゆでたまごとかのほうに近い。おれが力を緩めると、なにすんだよ、って榛馬は口を尖らせた。そういえば、「尖る」という漢字は、上に「小」が、下に「大」があって、上半身と下半身が相反していて不思議だ。でも、それをいうのなら、上唇はうすめで下唇はぽってりとしている榛馬の唇をまさに体現している、とこじつけめいたことを思う。榛馬は尖らせた唇を今度は引き結ぶ。なにぽかんとしてんだよ。って今度は言う。その言葉を信ずるなら、どうやらおれはぽかんとしていたらしい。ゆえにおれもまた唇を引き結ぶ。おれと榛馬は、互いの目という水面に自らと相手の表情を映し合い、そのやりとりは、おれたちのあいだに、いわば一輪の水仙の花を咲かさせた。おれたちはその水仙を摘むのがどちらなのか、たがいに顔色をうかがっている。……ほんとうに? なんだかそんな駆け引き(おそらくそう呼んでしまってよいものだろう)はばかばかしいような気がして、おれはありもしない水仙の比喩をゴミ箱に捨てると、ベッドに腰をおろした。スプリングが軋んで、つま先が榛馬の脛に当たる。なんだよもう。と、榛馬はふたたび唇をその厚さに似つかわしい形にすると、おれのとなりに腰をおろして、おや、なんだかベッドが傾いてきたぞ、と思うまもなく、榛馬はおれの太もものうえに自身の頭を載せる。ふたたびスプリングが軋む。榛馬が足を床からベッドにあげたのだろう。榛馬はその鼻の穴をわずかにふくらませると、なー康輔こうすけ、(次に榛馬が口にする言葉はわかっている。)ちゅーしよーぜ、(ほらやっぱりだ。)と笑った。おーいーぜ、とおれも笑う(榛馬も「次に康輔が口にする言葉はわかっている」と思っていたかもしれない)。即座なる安請け合い。だって、おれたちはちゅーするのが好きだ。リップクリームを塗るのを面倒がるお年頃の男子2名、たぶん純粋な触感だけの気持ちよさで言ったら、女の子のつやつやの唇には到底かなわない。でもおれたちはちゅーをする。いや、精確にいえば「ちゅー」というよりは「ちゅっ」くらいのほうが適当かもしれない。榛馬の唇をちょっとぺろぺろくらいはするけれども、舌と舌をねっとりからませたりはしないわけだし。キスでも接吻でもなくて、ちゅーもしくはちゅっ。その語感も含めて子供っぽくて、唇を離したあとは照れくさい。おれたちはどちらからともなく互いに互いの髪をわしゃわしゃとして、寝癖みたいなものができたところで笑いながらベッドに倒れ込む。おれがわずかに頭をうつむくような感じに傾けているのは、わずかにボッキした自分のペニスを見ているからだ。あたかもそうすれば、ボッキがおさまるとでもいうように。おれのベッドは15年もので、ちょっと動くだけで軋んだ音を立てる。シーツに頰をなすりつけるだけで、ぎしぎしと軋む。おれたちの関係ってなんだろうな。ふいに榛馬が榛馬に不似合いなまじめな口調でそう口にした気がして、どきりとしながらおれは顔をあげ、何か言った? と訊ねる。榛馬はおれが突然そう言ったことにか、それともおれが突然顔をあげたことにか、びっくりとした風情で、え、なんも言ってないよ、と言う。おれは安堵する。そうして、ほっとけよ、とおれは毒づく。もちろん榛馬に対してでなく、「おれたちの関係が何か」を迫るものに対してだ。けれどももちろん、「ほっとけよ」は榛馬の耳にも届く。榛馬は、は~? まじ理不尽、そう言いながらも笑っている。おれもにやりと笑う。いいじゃん。おれはふたたび口にする。いいじゃんほっとけよ。これはもうおれは口にしない。ただしそれには、拳をダイヤモンドのようにぎゅっと固めるだけの覚悟がいる。覚悟、あるいは怒りかもしれない。いつかは必要になるのかもしれない。でも、おれたちのあり方に呼び名は不要だ。不要、というよりは、余計、というほうが適切かもしれない。少なくともまだ。だっておれたち、こういうのでまだ楽しいし。つまり、自分たちの関係が楽しくなくなってから、その関係に名前をつければいい、と、おれはそう思っている? そんなふうに思案していると、おでこに何かあたるものがあり、もちろんそれは、榛馬の指先だ。一瞬なぜか茫然としたとした。なにすんねん。似非大阪弁でおれが言うと、榛馬はにやりと笑う。またむずかしいこと考えてたんでしょ。榛馬はそう言う。こういうとき榛馬はおれにちゅーしない。もちろんおれを抱き寄せたりもしない。それでいい、とおれは思う。でもそれは決して、こういうときおれにちゅーするのはよくない、の意味ではないことくらい、おれにもわかっている。

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