第32話 何が起きたの?
ユウくんから逃げ出して、その途中、階段から落ちそうになった私。
だけど結果から言うと、なんとか無事だった。
もうダメだって思ったその時、咄嗟に壁に手をついて、転げ落ちないように自分の体を支えていた。
(た、助かった……)
あのまま階段から落ちていたかと思うと、ヒヤリとする。
もうダメだって思ったし、こうして無傷で済んだのが嘘みたい。
壁に手をついた瞬間のことは覚えているけど、あんなに急に動けたなんて、自分でも驚いている。
体が勝手に動いたなんて表現があるけど、さっきの動きは、まさにそれがピッタリだ。
実は、そんなおかしな感覚はまだ続いていて、なぜか体の自由がきかない。
指一本だってまともに動かせなくなっていて、まるで自分の体じゃないみたいだ。
(私、どうしたんだろう?)
そう思ったその時、ユウくんの声がした。
「藍、大丈夫? 怪我は無い?」
(う……うん)
心配そうな声を聞いて、さっきまで逃げていたのも忘れて返事をする。
だけどそこで、すぐにおかしなことに気付いた。
声を出そうとしても、口はちっとも動いてくれない。
なのに、言おうとしていた言葉が、耳じゃなく直接頭の中に響いている。
ユウくんの声も、同じように耳でなく頭の中に直接流れ込んできている。
まるで、テレパシーで会話をしているみたいだ。
自由のきかない体に、頭の中に響く声。それに、おかしなことはまだあった。
ユウくんの姿が、どこにも見えない。
辺りを見回して探したいところだけど、今もまだ、体の自由はきかないまま。
仕方なく、もう一度呼びかけてみる。
(ユウくん、どこにいるの?)
相変わらず口は動かせず、代わりに頭の中に声が響く。
それでも、その声はユウくんに届いているようで、また頭の中に声が響いた。
「えっと……俺もよく分からないけど、たぶん藍の中」
(へっ?)
言ってる意味が分からなくて、間の抜けた声を上げる。
だけどその時、私の体をすり抜けて、弾かれたようにユウくんが飛び出してきた。
「きゃっ!」
すると今度は、ちゃんと口が動いて、しっかりしたした声があがった。
同時に、今まで失われていた体の自由が戻ってくる。
「な、何が起きたの?」
ペタリとその場に座り込んで、私の中から出てきたユウくんを見る。
どこにいるかって聞いて、藍の中っていってたけど、それってそのままの意味だったの?
幽霊は物をすり抜けられるから、人間の中に入るのだって、決して不可能じゃない。
けどそれだけじゃ、さっきまでの不思議な出来事は説明がつかない。
すると、そこでユウくんが言う。
「もしかして、俺が藍に取り憑いていたのか?」
「取り憑く!?」
それって、私の体の中に入って、自由に動かしてたってこと?
幽霊の出てくる話だと、そういうのは定番だけど、まさか自分がそんな体験をすることになるなんて。
思いがけないことにびっくりするけど、そんな私に向かって、ユウくんが詰め寄ってくる。
「まあ、そんなことはどうでもいいや。それより、本当にどこもケガしてないか? どこかにぶつけたりとかもない?」
本当に取り憑いてたなら、どうでもよくはない気がするけど、それを言う気にはなれなかった。
ケガがないか何度も聞いてくるユウくんが、あまりに不安そうにしていたから。
ユウくんにとっては、私が無事かどうかに比べたら、取り憑いたことなんて、本当にどうでもいいことなのかもしれない。
「大袈裟だよ。階段から落ちそうになっただけじゃない」
そう言って、だけどすぐにハッとする。
階段から落ちた。それが原因で、ユウくんは亡くなったんだ。
しかもその現場は、まさにこの場所。
当時の事を思い出さないわけがない。
「……ごめんなさい」
無神経なことを言ったことと、心配をかけたこと、その両方に謝る。
けどユウくんは、もう一度私にケガが無いか確認すると、途端にホッとする。
「いいんだ。ケガが無くて良かった」
心から安心しているのを見て、改めて、すごく心配をかけていたんだとわかる。
けど、それをごめんねって思いながらも、今もまだユウくんの前だと、ソワソワして落ち着かない。
そもそも私は、さっきまでユウくんから逃げようとしていたし、今だってどう向き合ったらいいのかわからない。
そんな私の気持ちを知ってか知らずか、ユウくんは再び話しかけてくる。
「なあ。俺と、話をしてくれないか?」
気まずい。
だけど、さすがにまた逃げようとは思わなかった。
そんなことしたら、ユウくんをまた不安にさせてしまう。
そう思うと、足に力が入らなかった。
何も答えられず、だけど逃げることもない私を見て、ユウくんは言う。
「もしかして、俺の家の事情って、知ってる?」
「──っ!」
それは、私にとって一番触れたくない話題だった。
だからこそ、不自然にユウくんを避けていた。
ユウくんと、面と向かってこの話をするのが怖かった。
そして怖がっているのは、多分私だけじゃない。
いつの間にか、ユウくんの表情にも不安と緊張が戻っていて、手は微かに震えていた。
それを見て、なんて答えようか迷う。
本当のことを言うのが怖い。
だけど、こうも真っ直ぐに尋ねられて、嘘をつくなんてできなかった。
「……知ってる」
その瞬間、まるで時が止まったような気がした。
たったそれだけを言うのが、とても怖かった。
もしかしたら、この一言がユウくんを傷つけてしまうかもしれない。そう思うと、体が震えた。
けど、それを聞いたユウくんの反応は、想像していた以上だった。
顏には明らかに悲しみの色が広がっていて、がっくりと肩を落とす。
「そっか……知ってたのか……」
小さく悲しげな声が、辺りに響く。
その落ち込み方は、見てるこっちが痛々しくなるくらいだった。
「藍には知られたくなかったな」
沈んだ声を聞きながら、揺れる瞳を見つめながら、私は正直に答えたことを後悔する。
ユウくんの抱えていた、家の事情。
私がそれを聞いて真っ先に思い浮かべたのは、ユウくんが亡くなるより少し前に起こっていた出来事だった。
それはユウくんからすると、決して人には知ってほしくないものだったと思う。
そして多分、ユウくんが、誰かを好きになるというのがよくわからないと言っていた理由も、それらの出来事と無関係ではないんだろう。
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