第33話 優斗side あの時の出来事 前編

 六年前のその日、俺はいつものように、藤崎家のやってる喫茶店で夕食をとっていた。

 夕食に限って言えば、今や自宅よりもここでとることの方が圧倒的に多い。


 それが終わると、藍の宿題を見てやって、それから他愛のないお喋りをする。これもまた、いつものことだ。


 そうしているうちに、そろそろ帰った方がよさそうな時間になる。


「えぇーっ。もう帰っちゃうの?」


 残念そうに頬をふくらませる藍。

 そんなところも可愛かった。


「明日また来るから。そしたら、一緒に遊ぼうな」

「うん。絶対だからね!」


 藍の頭を撫で別れを告げた後、店の方にいる藍の両親の様子を窺う。

 ちょうど手が空いていたようだったから、そっちにも帰りの挨拶をしに行く。


「ご馳走様でした。いつもありがとうございます」


 食事の代金は毎月まとめて支払っているけど、毎日栄養のバランスを考えてくれて、明らかに代金以上のことをしてもらっている。


 そんなおじさんおばさんには、本当に感謝しかない。


 邪魔になると悪いから、一声かけただけで退散するつもりだったけど、俺に気づいたおじさんが、愛想よく返事をした。


「遠慮はいらないって。こっちこそ、いつも藍の面倒見てくれてありがとう」

「いえ、それは俺が好きでやってることなので」


 こうしてお礼を言われるのは何だか照れ臭いけど、同時にとても心地よい。

 けどそれから、おじさんは少し真面目な顔になって言った。


「ところで、お家の方は大丈夫なのかい? その、ご両親のことなんだが……」


 その一言で、場の空気が少し重くなる。

 おじさんは尋ねながらも、どこまで踏み込んでいいのか迷っているみたいで、ところどころ言葉を濁している。

 だけど俺は、笑顔を作ってそれに答えた。


「ご心配なく。少しゴタゴタしてますけど、そこまで深刻になるほどでもないので」

「そうかい。それならいいんだけど……」


 おじさんは、まだ何か言いたそうにしていたけど、結局それ以上は何も言ってこなかった。

 そのことにホッとしながら、もう一度帰りの挨拶をする。


「それではおやすみなさい」

「おやすみ。気をつけて帰るんだよ」


 そうして、一人家路につく。

 その途中、さっきの話を振り返りながら思う。


(おじさんに、余計な気を使わせてしまったな)


 おじさんやおばさんが、俺の家の事情を知ったのは、少し前のこと。

 それ以来、二人とも他人である俺のことを本気で心配してくれた。


 それは、素直にありがたく思う。

 俺にとって、藍は妹みたいに可愛くて、その両親であるおじさんおばさんも、とても大切な存在になっていた。


 だからこそ、できることなら、あの人達を我が家の問題に関わらせたくなかった。


 その我が家が、道の先に見えてきて、そこに明かりが灯っていることに気づく。

 珍しく、父親がこの時間に帰ってきているようだ。

 それに気づいたとたん、急に体の奥底から、モヤモヤした嫌な気持ちが溢れてくるような気がした。


 玄関の扉を開き、そこにある女性ものの靴を見つけると、嫌な気持ちがますます溢れてくる。


 さっさと自分の部屋に行きたいけど、それにはリビングを通らなければならない。

 憂鬱な気持ちでリビングに近づくと、案の定そこからは話し声が、いや、怒鳴り声が聞こえてきた。


「今更出てきて、母親面するんじゃない!」

「あなたこそ、あれでちゃんと育ててるって言えるの!」


 もう何度も聞いた言葉が、耳に飛び込んでくる。

 扉を開いて顔を出すと、そこにいたのは俺の両親。

 二人は俺に気付いて一度だけこちらを見たが、それからすぐに口論を再開した。


 同じようなことをよく飽きもせずに続けられるもんだ。

 そんなことを考えながら、さっさとリビングを抜け、自分の部屋へと入っていく。


 こんなことになったのは、今から数ヶ月前。

 その日俺は、実に七年ぶりに母親と再会した。


 かつて彼女は、父以外に好きな男性ができたと言って、この家を出ていった。

 当時の俺は泣きながら引き留めようとしたけど、振り向きもせずに去って行った。


 それからしばらくは、その光景を何度も思い出し、時には夢で見て、行かないでと叫んでいた。


 けれど、いつの間にか叫ぶ言葉は帰って来るなに変わり、やがては何も感じなくなっていった。


 それが突然戻ってきて、自分を引き取りたいと言った時は呆気にとられたものだけど、再婚した相手と最近になって別れたと聞いて納得した。

 用は、俺を引き取ることで父親から養育費をもらいたいんだ。


 俺の父親は、世間一般で言う高給取りのエリートだから、養育費もそれなりの額が期待できる。


 けど俺の父親はそれに納得いかず、今まで育ててきたのは自分だと、注いできた愛情がどうだの、苦労がどうだの、声高らかに主張した。


 けど俺は、その主張はどこまで正しいのか疑問に思ってる。

 母親が出て行ったその日の夜、父は自分を指して、何でコイツも一緒に連れて行かなかったのかと嘆いていた。


 食事なんてここ数年作ってもらった記憶はなく、好きなものを食べろと現金だけを渡された。

 まともな会話なんて、週に一度あればいい方だ。


 それでも自分を手放したくないのは、養育費をせしめて喜ぶあの女の顔を見たくないからだろう。


 こうして、お互い自分が育てると言っては一歩も引かず、たまにこうして話し合いという名の罵倒が繰り返されている。そんなことが続くものだから、最近ではすっかりご近所の噂の種となっていた。


 因みに、両親が言い争っている間、俺はいつも蚊帳の外だ。自分に関することなのに話に加えてもらえないのは首を傾げるけど、それでも巻き込まれるよりは遥かにマシだから、何も言わなかった。


 自分の部屋に入り戸を閉めるけど、尚も二人の声は聞こえてくる。

 そんな雑音を振り払おうと、俺はベースを取り出し、弦へと指を走らせた。


(文化祭も近いし、もっと練習しないと)


 スピーカーに繋いでいないから音は出ないけど、指の動きの確認ならできる。

 そして何より、これに集中している間だけは、両親の声も少しは遠ざかるような気がした。


 出来ることなら、近所迷惑など考えずに、大ボリュームでかき鳴らしたかった。

 そうしたら、あんな雑音なんて完全に聞こえなくなるのに。


 両親の口論は夜中まで続いた。

 だがそれが終わって母親がタクシーで帰った後も、俺はベースに集中したままだった。

 これを止めたら、その瞬間、また二人の争う声が聞こえてくるような気がしたから。


 そんな訳ないと分かっているのに、それでもベースから指を離すことはできなくて、気が付いた時には朝を迎えていた。

 いったいこれで何度目だろう。最近では、両親がいない日も同じことをやっている気がする。


 まあいいか。

 ちょうど練習量を増やそうと思っていたところだ。何の問題も無い。


 そう自分に言い聞かせながら、俺はますますベースにのめり込む。

 それが、この家の中で両親の声から逃れられる、唯一の方法だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る