2

「ヴァレリア、こっちは行ってはならないはず」


 途中、湖に近づいている事に彼女は忠告した。

 それでも私は足を止めず、歩き続けた。


「こっちでいいのです」

「まさか貴女、禁を破って湖へ行っていたのですか」

「はい。ですが行ったのは先日シドを探しに行った時が初めてです」


 私は後ろを歩く彼女を横目で見た。

 彼女は少し顔を強ばらせながら、私を見ている。


「ですがお許しを、今彼は湖から離れられないのです」

「どういうこと? それってまさか⋯⋯」


 シスターヘレンと話していても、なかなか湖にはたどり着かない。

 私たちはお互い言葉を交わすことなく、黙々と歩き続けた。

 背中に時々、チクチクとした視線を感じながらも、反応することなく歩き続けた。

 朝の森は非常に静かだ。時折どこかで鳥の鳴き声がするが、風もなく、ただ歩くには気持ちの良い時と場所だ。

 日が頂点へ達しようとした頃、ようやく湖が見えてきた。

 夜に向かった時より、随分時間が掛かった気がする。

 

「ここへ来るのは、やはりいい気はしませんね」


 後ろでシスターヘレンが呟いた。

 今の言葉には、ただここを危険だから禁止したというだけでは含まれないようなものを感じとった。

 

「やはり、シスターヘレンはご存知ですか」

「何をですか?」


 振り返って尋ねると、彼女はすぐに応えたが、誤魔化したようにしか聞こえない。

 視界が開け、相変わらず何も無い湖が完全に姿を現した。

 しかし、そこに彼の姿はなかった。


「それで、どこにいるのですか。その殿方は」

「あ、あれ⋯⋯」


 怪訝そうな顔で彼女が睨んでくる。

 私は目を逸らしながら頭を撫でた。無論痛くは無い。

 思い出してみると、彼はロージーがここを通った時、姿を消していたと言っていた。


「あのー、私です。ヴァレリアです。この人は全て知っているので、出てきてください」

「ちょっと、ヴァレリア。私は何も」

「あのー!」


 シスターヘレンが私の肩に手をかけてきたが、お構い無しに叫んで彼を呼んだ。

 すると、何も無い対岸から、急に彼が現れた。


「あ、あの方は」


 珍しく彼女は声を震わせた。

 しかし別に白目を向いたり血を吐いたりはしていない。

 しかし彼の正体を知ったらどうなるのか、ほんの少し気になってしまう。

 向こうの彼は軽やかに体を浮かせ、湖の上を飛びながら私達の元へやってきた。


「やあヴァレリア、どうしたんだい。そして、久しぶりだね」


 彼は私を見たかと思うと、その目をシスターヘレンに向けた。


「えぇ、お久しぶりです。覚えてくださったのですね。マロシュ様」


 隣を見ると、シスターヘレンは片膝をつきながら両手を胸の前で重ね合わせ、目を閉じていた。


「構わないよそんな、頭を上げてほしい」


 彼に言われ、シスターヘレンは立ち上がった。

 ふたりはお互いをしっかりと見据えてるが、シスターヘレンは白目をむくことも、口を大きくあげて唖然とすることも、ましてや血も吐いていない。


「あの、ご存知なのですか彼を」

「彼って、まさか貴女の言っていた殿方とは」

「はい。この方、マロシュ様です」


 そう言うと、ようやく彼女はあんぐりと口を大きく開けて固まった。

 しかしどうやら、彼女は彼の存在を知っていたようである。

 だが逆に安心した。本当に存在も確かでないものをひたすら信仰していたとしたら、やはり怖い。


「しかし⋯⋯おふたりはいつ知り合っていたのですか」


 両者の顔を見比べながら尋ねると、ふたりは罰の悪そうに口を歪ませた。


「まあ、以前少し」

「ええ、まあ」


 ふたりはまるで拗れた男女のように何か秘密を隠している風に言った。

 シスターヘレンはともかく、これから伴侶となるかもしれない彼が私に隠し事とは、一体何事なのか。

 しかし今はそんなことを気にしている時ではない。


「シスターヘレン、この湖に縛られた女神を成仏させるため力をお貸しください」


 彼女にむかって90度の角度で頭を下げる。


「成仏って⋯⋯女神はもう死んでいるのですか」


 やはり彼女は女神のことを知っていた。

 

「まあ、死んでるかは分からないけど、成仏でいいんじゃないかな」


 適当な様子で彼が言うと、シスターヘレンは顎に手を当てて考えた。


「これはマロシュ様がヴァレリアに命じたのですか?」

「いいや、フィアンセにそんなこと頼まないよ。ヴァレリアが自分から」

「フィ、フィアンセ!?」


 ここで初めてシスターヘレンが大きく口を開けて鳩が豆鉄砲を食らったような顔になった。


「ヴァレリア、あなた一体この数日で何があったのですか」


 シスターヘレンは私の肩を両手で掴み、小さく体を揺らしてきた。

 脳が揺れるのを感じながら、彼女の驚いた顔を見れたことに若干満足していた。


「何がって、ただ彼に気に入られて、いきなり求婚されて」

「いきなり!? そんなまさか、女好きというのは本当だったのですね」

「いやそれは知りませんけど、シスターヘレンもご存知なかったのですね」

「当たり前ですよ。ただの噂程度のものとしか思いませんから普通。ていうかなぜよりにもよって信仰心の欠けらも無い貴女を、せめて他の子なら」

「いや、それは私に言われても」


 シスターヘレンの力が強くなり、声も大きくなった。


「ま、まあまあ落ち着いてよヘレン。ただの一目惚れだよ」


 彼がシスターヘレンを引き剥がしてくれたおかげで、私の肩のダメージは最小限ですんだ。 


「それはいつからですか全く。はぁ、女神の話はマロシュ様が教えたのですか」

「いや、僕は教えてないよ」

「じゃあ貴女一体どこで」


 私に彼女の顔が向いたが、お爺さんのことは伏せておいた方がよいだろう。


「まあ街で少し調べまして」


 シスターヘレンは服の皺を伸ばすと、落ち着きを取り戻し、背筋を伸ばした。


「で、私に何をして欲しいのですか」

「女心を教えて欲しいのです!」

「はぁ?」


 


 


 

 

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