3

 お爺さんは席を立つと、すぐ後ろの本棚から本を取りだして戻った。

 随分と古びた本が開かれた状態で私の前に差し出された。

 中身を覗いても、見たことも無い文字が書かれているせいで全く読めない。

 何となく今の話に関連しているものだとは思うが、それ以上は分からないので、私は縋るようにお爺さんを見た。


「それは神話の一節だ。原本は既に失われているらしいが、そこには湖が出来た経緯とあそこが禁足地である理由か書かれている」

「なるほど⋯⋯」


 どうせ本を見ても何も分からないので、お爺さんを見ていると、お爺さんは本を閉じて手元に置いた。


「まあ簡潔に言うとだな、とある女神と人間が恋に落ちたが、人間と神は結ばれることはおろか、交流を持つことは禁じられていた。神々から弾劾された女神はあの湖のある場所へ逃げた。そこへ追手がやって来て女神を連れていこうとした。しかし女神は頑として拒み、追手達は困った挙句、女神をあの土地に生き埋めにした」


 想像していたより残虐な話にゾッと血の気が引いていくのを感じた。

 お爺さんは私と対照的に、淡々とした様子で話した。

 

「生き埋めにされた女神はそれでも生き続け、身体中から血と涙が流れ続けたという。女神の血と涙は土を溶かし岩を砕き、あの地に大きな穴を開け、水で満たした。まあそんな話だ」


 お爺さんは話し終えると、コーヒーを飲もうとカップを持ち上げたが、中身がないことに気がついて席を立った。


「お前も飲むか」


 台所でコーヒーを注ぎながら、お爺さんに聞かれた。


「いえ、お気遣いなく」


 コーヒーは飲めないので丁重に断り、お爺さんが戻ってくるのを目で追った。


「それでどうだ。信じられるか今の話」


 お爺さんは席に腰を下ろし、咳払いしながら言った。


「正直、信じ難い話でした」

「そうだ。それが当たり前だ。だがあの女やあの女を導いた女達は皆信じた。どうだ、愚かだとは思わないか」


 お爺さんは気持ちが前のめりになったように、やや興奮気味に言った。


「私の口からはなんとも。しかし、今の話だけですとあそこが禁足地になった理由としては弱い気がします」


 もしあの水が女神の体液で、物を溶かすような恐ろしいものであれば、禁足地ではなく、立ち入り禁止にするはずだ。

 禁足の地。つまりあそこは出ることを禁じられた場所なのだから。


「それには続きがある」


 お爺さんは興奮を落ち着かせた様子でゆっくりと口を開いた。


「湖が出来てすぐ、女神に惚れた男がやって来て湖に身を投げた。まあそれだけならよかったんだがな」


 なかなかに恐ろしい話を平然と話すお爺さんが、少し怖くなってきた。


「驚くべきことに、湖の中で女神は生きていた。愛する男の死を知った女神は嘆き悲しみ、男と同じように自ら命を絶とうとした。が、絶てなかった。死ぬ事も出来ず、湖の底で女神は愛する男の亡骸を抱き続けたが、悲しみはいつの間にか怨嗟に変わった。怒りや恨みという感情は一時的に莫大な力を発する。それは人間にも当てはまることで、神のその力は凄まじいものがあった。湖の周辺に住む生き物の命は尽く奪われ、女神の力は時が経っても収まる気配がなかった。そこで神達は女神は殺せないものと考え、あの地に封印することにした」


 お爺さんは言い終えると、大きく息を吐いて背筋を伸ばした。

 女神の苦しさや悲しみはわかる気がするが、それでもやった事を考えれば、むしろ封印されただけでよく済んだほうだろう。

 ではなぜそんなに恐ろしいところに彼は居るのか。

 それも気になるが、彼が湖の話を私に聞いてくるように言った理由は何となくわかる気がした。 


「恐ろしい女神ですね。でもそんな話があるなら、あそこに近づくことを禁止するシスターヘレンの気持ちも分かります」

「いや、俺には分からんな。所詮これは物語だ」

「私もやっぱりそう思います。しかし⋯⋯」

「分かってる。あの女はそういう人間だ。そしてあの女に教育を施した人間もな」


 お爺さんは大きくため息をついた。


「そういえば、シスターヘレンのお母さんもシスターだったのですか」

「さあな。どうだったか」


 私はお爺さんの答え方に違和感を覚えた。

 お爺さんは答えるのが面倒だからはぐらかしたというより、本当に覚えていないんじゃないかと思えた。

 それに、覚えていないことにたいしてまるでなにも感じていないようにも。


「あの。今日は本当にありがとうございました」


 お礼を言うと、なんだか急に気味が悪くなってきた。


「また何か知りたければ来るといい。だがその時は出来れば別の格好で頼む」


 そう言われ、自分の服装を確認したが、いつも来ているローブでしかない。

 お爺さんはやはりシスターか嫌いなのだろう。

 私は玄関までお爺さんに見送られながら、家を後にした。




 


 


 

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