2
「きゃあっ!」
お爺さんの後を追い、家の中へ入っていくと、早速小さな鼠が足下を這った。
しかしながら鼠ごときでたじろぐ私では無い。
問題は鼠が加えていた獲物である。
その名を口にするのもおぞましい、私の最も憎む節足動物が恐ろしいのだ。
私の叫び声もお構い無しに、お爺さんは突き当たりの部屋の扉を開けた。
部屋へはいると、部屋中に山積みになっている紙の束が、風で舞った。
紙に軽く目を向けると、様々な場所の地図やそれに関する研究の跡が描き殴られていた。
お爺さんは大量の本が散乱する丸いテーブルの椅子に座った。
「ほら、お前も」
お爺さんが顎で私に座るように促したので、私は地面に散らばる紙を椅子で擦らないように慎重に引き、腰を下ろした。
「で、何が聞きたい」
「はい。それは──」
──────
「それで、何か分かったかい?」
「えぇまあ⋯⋯」
夜、私はまた部屋を抜け出し湖へ行った。
昨日と同じように彼と隣合って座り、私達のまわりを小さな光が漂っている。
本当はお爺さんに話を聞いてすぐにでも行きたかったが、頭の中を整理していると、どんどんそんな時間は無くなっていった。
「ここは⋯⋯」
今日得た答えを言うと、彼は小さく頷いた。
彼は俯き、黙ったまま頬をかいた。
「僕はここから動けない。実はもうずっと前から居たんだよ。ただまあここに人はまず来ないし、この間君と同じ教会の女の子が来た時は姿を隠してたしね」
恐らくそれはロージーのことだろう。
ロージーは湖には何も無かったとしか言ってなかったし、昨日の反応から考えても実際なにも知らないだろう。
「じゃあなぜ、私には姿を見せてくださったのですか。それも私の夢にまで出て」
「だから言っただろう。僕は君が好きなんだ。どうやら熱心な僕の信者だというのは間違いだったみたいだけど、それでも好きなんだ」
彼は恥ずかしそうに顔を少し赤くしながら、頭を撫でた。
神にも血は通っているのだと、体感した。
彼に好きと言われ、悪い気はしないどころかとても心嬉しい。
というか、今までろくな出会いもなかった私に、これから先出会いがあるとも正直思えない。
それなら今ここで神の妻となるのもまた面白い。
第一、個人として私は彼に好意を抱いているのはもう間違いない。
「ですが私は人間で、貴方は神ですよ」
「その問いはつまり、僕とヴァレリアが対等なら障害は無いってことでいいかい?」
私は黙って答えるのを憚ったが、顔がどんどん熱くなるのが分かった。
彼の手がそんな私の頬を撫でた。
振り向くと彼は私に向かって微笑み、顔を湖へ向けた。
「大丈夫だよ。かつては居たんだ。人と恋に落ちた神も」
彼が言うと、私も湖へ顔を向けた。
昼間お爺さんに教わった話を思い出した。
「それが、この湖を創った⋯⋯いや、創ってしまった女神の話ですか」
──────
「まず第一に、あの湖は人工的に作られたものでは無い。だが自然に出来たものとも考えにくい」
お爺さんは冷めたコーピーを啜ると、乱雑に散らばる紙の上にコップを置いた。
「果たして昔あの辺に川でもあったかというと、そのような痕跡はないし、水が地下から湧き出てるのかと思ったが、今現在水が湧き出る様子は無い」
「ではあそこは神が創ったということですか」
私は口に出してすぐ、自分の言葉に戸惑った。
神が創ったなんて非現実的な話、シスターヘレンから経典を読まされて色々学んだが、ひとつも信じたものは無い。
女は男の影響を受けやすいと、シャーロンが今朝言っていたことを思い出した。
お爺さんは私を小馬鹿にするように鼻息を漏らし、にこやかになった。
「さすがあの教会の女と言ったところだな。あそこの女は皆そうなのか?」
「へ、いや、今のは違うんです。まあシスターヘレンは言いそうですけど、今の発言は一応シスターとしての見解ということで私自身のものでは⋯⋯」
「ふっ。まあいい。そうか。やはりあの女は変わらんか」
お爺さんは背もたれにもたれ、腕を組んで俯いた。
「シスターヘレンをご存知なのですか」
「ご存知も何も、あいつは俺の娘だ」
「ふぇ?」
裏返った可笑しな声が私の声帯から発せられる。
シスターヘレンがこの人の子供だというのは驚きだが、言われてみると髪で隠れたり見えたりする目は、シスターヘレンに似ている気がしなくもない。
「あいつはどうだ?」
「ど、とうって、まあ元気ですよ」
「そうか。それならいい」
お爺さんは腕を下ろすと、ふーっと長い息を吐いた。まるで肩の荷が降りたかのように、本当に肩が下がった。
「何十年も前に神に奉仕するだとかどうとか言って出ていったが、まだ神など信じているとは、飽き性だったことを考えれば上出来じゃないか」
「シスターヘレンは昔からマロシュ様を信仰なさっていたのですか」
「ああ。一体誰に教わったのだろうな⋯⋯」
お爺さんはまたコーヒーを啜った。
てっきり、シスターヘレンを私達のように孤児だったとばかり思っていた。
同じ境遇だったから、今も昔も変わらず教会の子供達を育てているのだと考えていたのに、それならシスターヘレンの意欲はどこから湧いて出てくるのか、気になることがどんどん湧き出てくる。
「話がそれてしまったな。それで湖の事だが」
陶器と机がぶつかる音がして、私はお爺さんに目を向けた。
まさか湖のことを尋ねに来てこんなことになるとは思ってもみなかった。
私の興味は湖のことよりもシスターヘレンの方へ寄っているかもしれない。
「あそこがどうやってできたか、なんてこと今ここで俺が論じてもそれは憶測に他ならん。それにお前が聞きたいのもそこではないだろう」
私は黙って頷き、何度も大きく瞬きをした。
「シスターヘレンは私が小さい頃から、いえ、それ以前からあの湖には近づいては行けないと言ってました。やはりそれは、あそこが神聖な場所だからじゃないかと思うのですが」
私が言うと、お爺さんは首を横に振り、両手を机の上に乗せ、乱雑になった紙を握りしめた。
「あそこは神聖とは程遠い。根拠の無い民間伝承なんて口にもしたくないが、お前達の好きな神話に則って教えるならば、厳密にはあそこは立ち入ることを禁止する場所では無い。しかし近づくのは躊躇われる場所だ」
立ち入り禁止ではないが、近づくのを躊躇う場所。
それがどのような場所か頭で考えてみると、案外すぐに答えは導かれた。
普通、人が近づきたくないという所は、汚い場所や怖い場所である。
しかしあの湖は別に汚れてはいない。もしあの水が全て強い酸性だったりしたら話は別だ。
では怖いとは何か。怖いと言っても様々である。
それこそ、汚いのが怖いということもあれば、雰囲気が不気味で怖いということもある。
そしていちばん多いのは、やはりなにか危険を及ぼす生物や物質が存在することだろう。
では果たしてあの湖に、そんなものが見えたか。
答えは見えていない。さらにこれはお爺さんが言うには神話のようなものである。
「つまりあそこは⋯⋯禁足地ということですか」
お爺さんはゆっくりと深く頷くと、コーヒーを一気に飲み干した。
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