8
しばらく彼は項垂れるようにガックリと三角座りでうずくまっていた。
私はどうすることも出来ず、ただその場で彼の様子を確かめたり、月を眺めたりした。
普段は月なんてほとんど気にしないのに、なぜか今日は月の海まではっきりと目で追った。
あまりにも正直に言いすぎたのか、彼の衝撃は随分大きかったようだ。
今となっては、それなりに罪悪感を感じている。
今までシスターヘレンに信仰のことに関して気のない態度をとっていたのも、彼への祈りや祭事の時も、一切の感謝の念を持たなかったのも、その存在を信じられなかったからに尽きる。
だから昼間、超人的な芸当を彼が見せた時点で、私は彼に畏敬の念を抱き、今までの行為を懺悔しなければならないのだが、実際はそんな気すら起きない。
決して彼を疑っている訳では無い。
彼は人間では無いし、私達が祈り続けた神、マロシュであることは間違いない。
しかしながら、幼い頃からの思想というのは根強く、彼を前にただ傷つけるだけの態度をとってしまった。
神なんだから人間の言葉でいちいち傷心しないでほしいと思うと同時に、彼の私に対する本気度が伺えて、悪い気はしなかった。
ただ、私が彼に抱いている気になるという感情の中身を確信に変えるにはもう少し時間が欲しい。
「あのですね⋯⋯マロシュ様?」
「ふーん。信じてないのに様なんて付けるんだね」
彼は目を細めながら、拗ねた子供のように言った。
「それはあなたに合うまでの話ですよ。今は信じているのです」
「へぇ」
彼は今度は右の頬を上げた。
「別に無理しなくていいよ。いつも心の中ではあることないこと思ってたんだろう。その時の感じでいいから」
「別にそんなことは一度も⋯⋯」
ない。と言いかけたが、考えなかったことが完全に無いわけでは無いと、言葉を飲み飲んだ。
「ほらやっぱり」
彼は今度は唇を尖らせて呟いた。
子供のようにころころと表情の変わる彼は正直面倒くさいの一言だ。
「どうせ僕のことなんて覚えてないのさ。君も皆も」
「皆?」
どういう事なのか聞き返すと、彼は顔を上げて彼方を見上げた。
哀愁の漂い始めた彼の瞳を私は静かに横から覗いた。その目の先には、人には想像し得ない、神のみぞ知るナニカが隠されているように見えた。
「ヴァレリア、君は自分の小さい頃⋯⋯あの教会で暮らす前の記憶ってあるかい?」
唐突に話が変わり、私は戸惑いつつも昔の記憶を辿った。
不思議なことに、教会に来てすぐのことは鮮明に浮かび上がるが、どうやって教会に来たのか、それまでどこに居たのかが全く浮かんでこない。
乳飲み子の時に来たわけではない。教会に来てすぐ、シスターヘレンや当時のシスター達に誕生日を祝われた記憶がある。
しかし、それ以前の記憶は存在しないかのようにまるで思い出せない。
「全く⋯⋯思い出せません」
「まあ当然さ」
「え?」
彼は確信していたかのように言った。
「なぜ神である貴方がそんなことを?」
「さあ、どうしてだろうね」
彼は立ち上がり、私を見下ろした。
「それが知りたいなら明日、いや日が昇ってからまたここにおいで」
私はじっと彼の顔を見上げた。
「何時頃に向かえばよいのですか」
「いつでもいいよ。僕はずっとここにいるから」
「ずっとですか?」
「うん。そうだ。その理由を誰かに尋ねてから来て欲しい」
「しかし一体どう尋ねれば?」
「うーんそうだな。この湖のことを聞くといいよ。僕の名前を出しても皆きっと相手にしないだろうから」
彼はなんともいいかげんな宿題を私に与えた。
しかし、私自身、彼やこの場所については知りたいことでいっぱいなので、別に厄介事という訳でもない。
「あぁそれと、僕の妻になることも前向きに考えておいてくれたまえ」
彼の周りに、私を案内した光が集まりだした。
光は彼の周りに密集し、彼が私に向かって手を差し伸べると、光は私の周りを漂い始めた。
「それは⋯⋯はい。前向きに」
私が答えると、彼は子供のような満面の笑みを浮かべた。
「そうか。それは嬉しいよ。じゃあおやすみヴァレリア」
「えっ、ここから帰らなければ」
帰るため立ち上がろうとすると、眩い光が私を照らし、どっと全身の力が抜け、目の前の彼の姿が暗闇に帰した。
──────
目を覚ますと、私は自室のベッドに居た。
自分の足で帰った記憶が無い。
ただ残った記憶をたどった結果、彼の力で部屋に戻ったのだと納得した。
いつも通り、朝の祈りを捧げたが、今までとは違い、真剣に祈る気になった。
真面目に祈ると心は無に近くなり、昨日のことや無駄なことを考える暇もなかった。
教会の掃除も済ませ、シスターや子供たちと共に朝食を取るため、食事部屋の大人数が食事するためのロングテーブルの椅子に腰を下ろした。
自ら運んだ朝食を口に詰め込みながら、誰に神と湖のとこを尋ねるか考えた。
しかし、この施設内で湖や神について何か知っているとしたら、シスターヘレンしか居ないだろう。
しかし彼女に聞くのは最後の手段だ。
彼女の耳に余計なことを入れてしまうと、色々厄介なことになるのは目に見えている。
そうなると施設外の誰かに聞くしかないのだが、都合よく外出する用ができるとも限らない。
「どうしたのヴァレリア、暗い顔して」
私の食器用トレーの隣に新たなトレーがやってきた。
「別になんでもないよ。ただ考え事してただけ」
私はサラが隣に座るのを確認し、パンを齧った。
「昨夜はお楽しみでしたね」
「ん!? ゴホッゴホッ」
前から小さく聞こえたその声に驚き、パンが喉に詰まって咳き込んでしまった。
パンが喉を通り、顔を上げると髪がボサボサになっているシャーロンが、目張り着くような視線を向けながら前かがみになって座っていた。
「どうしたの!? 大丈夫?」
サラが優しく私の背中をさすってくれた。
私は水を一口飲み込み、息を整えた。
目の前のシャーロンを睨みつけながら、顔を近づけた。
「なにシャーロン。変なこと言わないで」
すぐ隣のサラにも聞こえないよう、声をできる限り小さくして言った、
「だって昨夜、本当に出ていったじゃないですか。つまりそういうことですよね?」
「そういうことって何? 何も無いよ。いや、色々気になることはあるけど」
「へぇー、それはまた面白そうな」
「もうあなたには話さないから」
「でも気をつけた方がいいですよ。女は男に染められる生き物ですから」
「ご忠告どうも」
お互い周りには聞こえないように話したが、人が見れば不気味に思ったに違いない。
いや事実、サラはなんとも言いがたそうに私たちの様子を伺っていた。
シャーロンとほぼ同時に上体を起こし、食事に戻る。
サラに何を話していたのか聞かれたが、私達は適当にはぐらかして食事を進めた。
運がいいのか、食後すぐ、シスターヘレンに墨を買いに行くように言いつけられ、なけなしの金銭を握りしめて教会を出た。
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