7

 勢いに任せて宿舎を飛び出したのはいいが、ほとんど何も見えない月明かりの下で、一体どうしたらいいというのか。

 無論、森の中に灯りなんてあるわけが無い。

 情けないが一度部屋へ戻ってランプを持ってくるしかない。

 そう思っていたのに、東側からいくつかの小さな黄色い光が、まるで蛍のように動くのが見えた。

 この森に蛍は生息していない。

 光は確実に蛍のものでは無いはずで、仮にどこからか蛍がまとまってやって来たのだとすると、正直気味が悪い。

 気味が悪い思いつつも、私の足は自然にその光へ向かっていた。

 光の粒達に近づくと、まるで私を待っていたかのようにその場で縦に円を描き、小刻みに上下に揺れた後、湖の方へ進んでいった。


「あの方が⋯⋯」


 湖で私を待つと言った彼の存在が浮かび上がる。

 この光は彼が私のために用意したものなのだろう。

 その証拠に、光の1部は私の体の周りで、足元を照らし、後は私を先導している。

 

 夜の森に入るのなんて、これが初めてだった。

 実際、周りはほとんど何も見えないし、仮に獣が迫ってきたとしても、音だけでどこから来るか分からないだろう。

 この森に恐ろしい獣が居ないことを、今までで1番感謝した。

 徐々に暗闇に目と体が慣れていき、私は小走りで駆けた。

 光の粒達も、私に連動するように動きが早くなった。


 やはり湖は遠かった。できることならもう二度と行きたくない。

 誰かと話しながら行くならまだしも、ひとりで森の中を長い時間進むのは、昼間でも勘弁したい。

 前を漂う光の周りから、木々の姿が失われた。

 ようやくたどり着いたと、足を緩め木々の間を抜けると、昼間とは違う姿を見せる湖が現れた。

 何故か湖の周りだけ妙に月明かりが明るく照らし、凪いだ水面の奥底まで光が降り注いでいる。

 私を案内した光達は全部一箇所に固まり、私の元から離れていった。

 光は私の左側へ進んでいき、顔を向けるとすぐ近くに彼が立っていた。


「やあ、来てくれたね」


 彼は深く目を閉じて微笑んだ。

 光達は彼の全身を照らしている。昼間と変わらない彼の姿がそこにはあった。

 案外彼は近くに居たのに、私の視野が湖に夢中になり狭くなったせいか、全く分からなかった。


「ええ、お待ちいただいてたので」


 軽くお辞儀をする。

 彼はまた、ゆっくりと私に向かって歩いた。

 彼は私の目の前まで来ると、懐に手を入れた。

 何を取り出すのか注視していると、懐からでてきた手には小さなピンクのハンカチだった。


「座ろうか。ゆっくり君と語らいたい」


 そう言うと彼は腰を下ろし、その隣にハンカチを敷いた。

 まさか神の私物に尻を乗せろというのだろうか。

 さすがにそれはたとえ人間相手でも気が引ける。


「そんな、必要ありませんよ」

「いいから座って。せっかくだから僕に格好つけさせてくれ」


 彼は右手でハンカチをトントンと叩いた。


「で、では失礼します」


 私は寝巻きのシワを伸ばしながら、ゆっくりとハンカチの上に座った。

 シスターヘレンがこの光景を見ると、きっと私を突き倒おして彼に全力で土下座でもするだろう。

 そしてその後にお迎えが来る。

 今日の1日だけで、私の中でシスターヘレンに何度もお迎えがきた。彼女は一切何もしていないというのに。


「さて、何から話そうかな」


 肩が触れあいそうなほどすぐ隣に座る彼は博愛精神の塊のような慈愛に満ちた横顔で私をを見ながら呟いた。


「あの、私からよろしいでしょうか」

「ん? いいよ」


 尋ねると彼は私に笑顔を向けた。

 本で読んだが、こういう時緊張している男女は笑顔を作って緊張をほぐすと良いらしい。

 しかし相手が神では、たとえこの場に世界一の喜劇王がやってきたとしても、私の緊張はほぐれないだろう。


「なぜ私を妻にしたいなどと仰られたのですか」


 彼はまた顔を前へ向け、考え込むように目を閉じ、「うーん」と唸った。


「なぜって言われてもなかなか答えにくいな」


 彼は自分の長い髪の毛先を指で弄りながら、首を捻っている。

 その様子は神などではなく、完全にただの人だ。


「一目惚れ⋯⋯いやそれは違うな。だいたい君のことは昔から⋯⋯。でも昔はそんな気持ちなかったし⋯⋯」


 ぶつぶつと独り言を呟いているかのように、彼は小声で唇をほとんど動かさずに言った。


「運命、だね」

「運命、ですか」


 彼の声が大きくなった。

 投げやりになったとしか思えない答えだが、神が言うと妙に説得力がある。


「随分曖昧な答えですが、まあいいです」


 周囲は闇に包まれ、私達の周りと、水面だけが光に照らされている。

 水面を指す光の線を追いかけると、大きな満月が見えた。


「それで、君の答えを聞きたいんだけど」


 月を見ていると、彼が遠慮しがちに言った。

 

「それはもちろんお断りさせて頂きたいですよ」

「えぇ!?」


 彼の想像していなかった答えを私が出したのか、彼は目をぱちくりさせながら、体を私の向こう側にかたむけて固まった。


「ど、どうして?」


 どうしてと言われても困る。

 別に謹んで辞退しようとしているから、言い訳が浮かばないわけではない。

 ただ、断る理由が多すぎてどれを話せばいいのか困惑するのだ。


「どうしても何も、初対面の人といきなり結婚なんて非常識ですし」

「でも僕神だよ? 非常識も何もないよ?」


 彼は食い入るように顔を私に近づけてくる。

 美しい容姿が、だんだん間抜け面に見えてきた。


「いや、あの⋯⋯言ってしまえば神だからこそお断りしたいんですよ」


 彼の鼻息が顔にかかるまで近づき、私は彼の身体をゆっくり丁寧に手で押した。

 彼の顔を見てられなくなり、目を逸らす。

 しかし彼の様子が気になってしまい、横目で確認すると、彼は神妙な顔つきで私を見ている。


「そうか。たしかに君のように信心深い人間相手にいきなり結婚しようと言っても、畏怖してしまうのは当然か」


 彼は顎に手を当て、小声で言った。

 自信過剰も甚だしい。いや、私も神になったらそれくらい自信家になっていただろう。

 回りくどい言い方で色々こじれても面倒だ。

 私は正直に自分のことを話すことにした。 


「あのですねマロシュ様」

「どうしたんだい」

「あなた様は私が信心深い人間だと勘違いしておられるようですが、実際は一切そんなことは無いのです」

「なんだって?」


 彼は首を傾げ、目を見開きながら唇を結んでいる。


「私は今日あなた様に会うまで、一度もあなた様や他の神という存在を信じたことはありません。ただ毎朝、シスターヘレンに言われた通り祈っていただけです」

「でも、君は祈ってる時、いつも真剣そのものな顔をしてたじゃないか」

「それはただ。祈る意味を考えたり、他のことを考えて気を紛らわしていただけです。正直私にとっては面倒事でしかなかったので」


 彼の結んだ唇が、大きく上下に広がる。


「え、えー」

と、低く震えた声がしばらく彼の口から鳴り続いた。



 


  

 

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