5

「聞いているかい? ヴァレリア」

「は、はい」


 人というのは困ったことがあるとくだらないことを頭にいくつも浮かべ、現実逃避を始める。

 今の私の頭の中がまさにそうだ。

 今夜の夕飯のことや、将来生まれるであろうサラの子供をどうやってからかってやろうなどと、考えては消え、考えては新たに浮かび上がる。


「あの⋯⋯それはつまり、妻とは一体どういったお務めでありましょうか」

「うーん? 妻だよ、つまり夫婦?」

「夫婦とは?」

「え、あー、うん⋯⋯」


 咄嗟の私の、髪にふさわしくない器量の女作戦が聞いたのか、彼の体が私から離れ、後ずさった。

 彼は眉をひそめ、あからさまに困惑した様子を見せている。神がこんなに分かりやすくていいのだろうか。シスターヘレンに教えてあげたいが、きっと彼女は私の話を真摯に受け止め、その後昇天する。

 最悪の場合、神への無礼を働いたとかなんとか言って私共々道連れにするかもしれない。


「あのね、夫婦って言うのはね、男と女がお互い愛し合ってなるものなんだよ」


 身振り手振り交えながら、彼は大真面目に説明しだした。

 そのおかしさに堪えきれず、私は口元を抑えて笑ってしまった。


「ふふ、承知しております。ただマロシュ様をからかっただけでございます。しかし、あはは⋯⋯」


 笑いは止まらず、ついには目に涙まで浮かびだした。

 顔を伏せながら涙を吹き、ちらりと彼の顔を覗いた。彼は当惑したのか、目をキョロキョロと動かしながら口を開いてぽかんとしている。


「よかった。笑ってくれて」


 涙を吹いていると、彼の声がした。

 今度はしっかりと顔を上げ、彼の表情を確かめると、彼は頬を上げながら、私を包容するように顔を綻ばせていた。

 その言葉と表情には、いくつかの意味が込められているようにも感じられた。

 彼の人柄は、一言で言えば好青年だろう。

 ちょろい女だと思われるかもしれないが、今の所彼の態度には表裏を感じないし、口から出る言葉には無邪気な実直さが感じ取れる。


 しかし考えてみれば、彼とのお喋りを楽しんでいる暇は無いのだ。


「申し訳ありませんが、私はもう戻らなかればなりません」 

「そうなのかい?」

「ええ。迷子の子を探してここに来ましたから」

「それは大変だ。申し訳ない。君の足を止めてしまったことも、その人探しに私は協力してやれないことも」


 彼のまつ毛が下に垂れた。

 私を見下ろす目は慈愛に満ち、声からも一切の濁りを感じない。


「お気に召すことは何一つありません。これは私達の話ですから」

「そうか。ではまた会いに来てくれるかい」


 彼の頼みに、私は言葉が出なかった。

 彼といるのは落ち着くし、今のひとときだけでも、教会で皆といる時と同じくらい、もしくはそれ以上の幸福感を味わえた。

 しかしながら彼の妻になるというのは色々別の問題で、断りたいが上手い断り方が思い浮かばない。


「ではまた。縁がございましたら」


 私は2歩後ろに下がり、小さく頭を下げ、振り返って来た道を歩き始めた。


「今夜もここにいるから」


 彼はそう言ったが、私は振り返らなかった。

 随分無礼なことをしてしまったと自分でも思う。

 シスターヘレンが知ったら、鬼の形相で私に鞭を打つだろう。もっとも、鞭で打たれたことなど今まで1度もないのだが。


 ────


 また随分な距離を私は走った。

 途中、なんども周辺を見渡しながらシドの名を呼んだが、うんともすんとも言わず、彼の姿はどこにもなかった。

 私はシドを見つけることを少し諦めかけた。

 無論、シドの身になにか最悪が起きたと断言した訳では無い。

 ただ私が闇雲に走りながら探しても見つからないと思っただけだ。

 1度協会に戻り、少し休んで日暮れ前にまた探す。

 そうすることにして、私は教会へ向かって走り出した。


「ヴァレリアー!」


 前方から私を呼ぶ声がした。

 彼の声では無い。どうやらロージーの声らしい。

 正面から、小走りでこちらへ向かってくるロージーの姿が確認できた。

 私は小さく手を振り、ロージーへ近づいた。


「見つかったよシド」

「えっ、本当ですか?」


 ロージーは膝に手を付き、膝に手をつきながら言った。

 私が彼との時間にうつつを抜かしていた間に、シドは無事発見されていた。


「実は教会のすぐ近くの木の上でぐっすり寝てたんだよあの子。凄いよね。良く落ちなかったし見つからなかったよ」


 ロージーは腰に手を当て、背中を後ろに逸らした。


「そんなところに⋯⋯とにかくよかったです」


 人間、急時に正気を失えば、視野は普段の半分以下になってしまう。

 よく昔私達に勉強を教えてくれた教師がそう言ってたが、まさに今がそうだったようだ。

 私はロージーと並び、ゆっくりと足を解すように歩いた。


「しっかしヴァレリア、湖に行っちゃ駄目だよ」

「ですが今回は決まりよりもシドを探す方が優先ではないですか」

「まあそうだけど、ヘレンが凄い不安そうに祈ってたんだよ。ヴァレリアが無事に戻ってくるように」

「え?」


 私は歩く足を止めた。ちょうど転がっていた木の枝を踏んだのか、割れる音がした。


「ん?どうしたの」


 ロージーが振り向いて首を傾げた。


「い、いえ、なんでもないです」


 私はそう言い、また歩き出した。

 シスターヘレンは一体湖に何があると思っているのか。私が見た限り、マロシュという特別な存在以外、あそこには何も存在しない。

 あの空間は、人為的に切り取られたが如く、湖という概念以外何も無い場所だ。

 たしかに見ようによってはとても不気味で恐ろしいところではあるが、逆に言えばその湖に飲み込まれる以外、なにか起こりうることは考えられない場所だ。

 

「シスターヘレンはあの場所をどう思ってるのでしょうか」

「あ、そっか。ヴァレリアも見たんだもんね。どうだった?」

「えっと⋯⋯静かで綺麗な場所でしたよ。ロージーの言った通りでした」


 まさかロージーに彼の話をするわけにはいかない。

 あの空間から彼という存在を覗いた様子をロージーに伝える。


「でもたしかに考えてみたら不思議だよね。ヘレンがあの場所へ行くのを禁止にしているわけが水難防止だとしたら、川が流れている南へ行くのも禁止するはずなのに、そっちは大人が同伴すれば問題ないし」

「ですよね。もしかしたらシスターヘレンはあの場所のなにか⋯⋯私たちが知らない秘密を知っているのでしょうか」


 そう。例えばそれはあの湖に神が生息していることだとか。

 しかしその可能性はまず無いだろう。

 私の頭の中ではマロシュに会ったシスターヘレンはすぐにお迎えが来ることになっている。

 実際、彼女のように信心深い人物が彼に会えば、性別年齢に関わらずお迎えがやってくるか、偽物だと糾弾するかの二つに一つだろう。


「さあねぇ。どうなんだろうね」


 ロージーは顔を上げながら、なんだか気だるそうに言った。


「ところでさあヴァレリア」

「なんですか?」

「どうして毎回、ヘレンのことシスターって付けて呼ぶの?」


 突然ロージーに些細なことを聞かれ、頭を捻った。

 確かに考えてみると、皆は普通にヘレンと呼んでいる。

 

「さあ⋯⋯癖ですね」

「ふぅん」


 ロージーは私の回答に満足はしていないようだが、納得はしたようで、両手を頭の後ろで組んだ。


「ヴァレリアって神は信じないけどヘレンに対する敬畏みたいなのはもってるんだね」


 なんだか少し馬鹿にされた気がしなくも無いが、さっと柳のように耳から耳へ受け流す。


「まあ、シスターヘレンは恩人ですから」


 なんだかんだ、1番大事な人は誰かと考えたらシスターレヘンのような気がする。




 

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