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「シドー!」
「どこにいるの!」
森ではシドを探す皆の声がこだましている。
森なのにこだまするとは少し面白い。いや、面白くない。
教会の前で両手を胸の前で握りしめているシスターヘレンを見つけ、声をかけた。
「シスターヘレン。シドはどの辺で居なくなったのですか」
「まあヴァレリア、あちらの方だと聞きましたが」
シスターヘレンは北東の方を指さした。
もしかりにシドが北へ姿を消したのであれば、すぐに森を抜け、おかしいと思って戻ってきているはずだ。
方向転換をして西へ進んだとしたら、今もまだ森の中を彷徨っていると考えられる。
「もしかして湖へ行ったんじゃ」
「なんですって!」
私が呟くと、彼女はすぐ近くで鼓膜が破れるくらいの声を出した。
「まさかあの場所に行くはずが……でももし本当にそうだとしたら……」
シスターヘレンの顔がみるみる青ざめていく。
たしかに水に落ちるという最悪の事故は考えられるが、湖まではかなりの距離があるはずで、子供の足ではたどり着くのも厳しいはずだ。
シスターヘレンの様子から推測するに、ただシドの心配をしているだけとも思えない。
「私が行ってきます」
私はとにかく東へ向かって走り出した。
「行けませんヴァレリア」
後方で微かに私を止める彼女の声が聞こえたが、私は無視して走り続けた。
湖があると思われる方向へ向かって走り続けたが、なかなか視界が開けてこない。
ロージーはよく湖の向こうの街までおやつを買いに行ったものだと、こんな時なのに考えてしまう。
もしシドの身になにか起きていたら、今も助けを求めてるかもしれない。
私は何度も木の根で転けそうになりながら、息を切らして走った。
「シド! 何処にいるの!」
ようやく目の前が開け、息が苦しいのも忘れて叫んだ。
木々の中を抜けると、私が夢で見た通りの光景が広がり出した。
森の中の喧騒は消え、この湖の周りだけ全く別の世界になっているかのように静かで、普段私が信じない神秘的な雰囲気が漂っていた。
この場の神々しい情緒に飲み込まれるように、私はじっと立ち止まってしまった。
急いで水辺に近づき、透き通った湖の中を確認するが、シドどころかやはり生き物すらいない。
誰かが水の中で暴れていることも無く、水はまるで凍っているかのように凪いでいる。
「ここにはいない⋯⋯」
シドを探すため、この場を去ろうとした瞬間、脳内に誰かの声が聞こえた。
「やあ、来てくれたね」
夢で聞いた声だった。
夢と何一つ変わらない透き通った声が脳裏に響き、私は確信を持って向こう側へ目を向けた。
「あなたは⋯⋯」
私は唾を飲み込んだ。
夢とおなじ姿の男が向こう側に立ち、こちらへ向かってきている。
男の正体についてはすでに見当がついていた。
夢で見せ、今も同じように行っている水面を歩く行為に、脳内に直接語りかけるまるで魔術のような不可思議な能力。
はっきりと人間では無いと言い切れる。ではそんなことが出来る生き物、この世に果たしているのかどうか。それも人間と同じような姿をしている生物に。
その正体は私が修道院に引き取られてから、一度も存在を信じることがなく、ただ毎日何も考えずに祈りを捧げるフリをしていた相手。
「随分早かったじゃないか。どうやら僕に会いに来たわけではなさそうだけれど」
目の前に立った男⋯⋯いや、この方の尋常ではない佇まいに腰が抜けそうになった。
今の今まで全く信じていなかったというのに、無様なことだ。
念の為太ももをつねったが、無駄に痛いだけだった。
だいたい、先程夢から覚めたというのに、これもまた夢だとしたら色々と恐ろしい。
眼前の存在にシスターヘレンが出会ったあかつきには、彼女にはお迎えがやってくるかもしれない。
夢の時とは違い、この方の醸す神気のようなものに気圧されながらも、私は恐る恐る口を開いた。
「マロシュ様⋯⋯」
「やあ、やっと思い出してくれたかい?」
その名を呼ぶと、神はにっこりと笑って私の右手を取った。
神の手はとても暖かく、緊張が溶けていくようだ。
「思い出すも何も、私があなた様に出会ったのは今が初めて、いいえ。神の存在を認めたのも今しがたでございます」
緊張が溶けるといっても、それは身体だけで、どうも自分でもおかしいと思う口ぶりになってしまう。
だが実際、この神はまるで私に以前会っているかのように接しているが、私には全く覚えがない。
仮に覚えていたとしたら、神の存在を認めないなんてことは無かったはずだ。
「そんなことは無い。君たちはいつも僕に祈りを捧げてくれるじゃないか。皆の名前はきちんと記憶しているよ。その中でも僕は特に君の熱心に祈る姿が心に響いたんだ」
「それは⋯⋯」
不思議な力を持つ神といえども、心を読む能力がある訳では無さそうだ。
私は熱心に祈ったことなんてない。
いつも疑問を頭の中に巡らせながらただ時間が終わるのを待っていた。
この神の目に私が熱心に祈っているように見えたのは、ただの苦悶の顔だろう。
「私はただ、シスターヘレンに言われるがままに⋯⋯」
だからといって正直に答えたら何が起きるか分からない。ヘレンが言うには相手は普段、私達を災厄から守っている神様だ。
それが本当なら、怒って私に災厄を降りかからせることも出来るかもしれないのだ。
「だとしてもだ。君のあの祈る時の表情。あらゆる感情が入り交じった美しい姿に僕は惹かれたんだ」
目の前の神はいかにも好青年みたいな雰囲気を出しているが、話が本当ならただの女好きだ。
自他共に認識されている女好きには、ろくに女を見る目を持った者などいない。
今まで私が見てきた女好きも皆そうだった。
自分自身も女を見る目も酷い有様だった。
自他ともに認める女好きになんて、片方の手の指で数える程しか出会ったことは無いが。
神が私の手を握る方と逆の手を、私の腕を伝わせた。
くすぐったいような、むず痒いような感覚が走る中、神はなんども私の腕を撫でた。
神に腕を撫でられるのは嫌ではなかった。
むしろくすぐったく、痒いのにどこか心地が良い。
はるか昔に少しだけ味わったような温もりが腕から全身に駆け巡った。その思い出は二度と戻ってくることはないと思っていたのに、思わぬ所でまた浸ることが出来た。
「ヴァレリア⋯⋯君の手はよく働いている人の手だね。君の普段の情景が浮かんでくるよ」
神は両手を離し、目を瞑って言った。
「君は毎日熱心に教会を磨き、子供達を育んでいる。友にも恵まれ、あの教会で当たり前とも言える日々を送っているようだね」
「は、はい⋯⋯」
「それはとっても幸せなことだよヴァレリア。僕としてもそれが何よりも心嬉しい」
「はぁ⋯⋯」
今の彼の言葉が、神である立場によるものではなく、個人としての立場によるものだとしたら、何となくなぜ彼が私を待っていたのかも理解出来る。
しかし神としての言葉だとしたら、いちいちまどろっこしいことこの上ない。
というか、神の言葉なら祈りの最中、皆に声だけでも伝えればいい。最もそんなことをしたらシスターヘレンが歓喜のあまり天へ昇っていきそうだが。
「ヴァレリア、僕の妻になってくれないか」
くだらないことを考えていると、衝撃の発言が彼の口から飛び出し、彼はゆっくりと私を抱きしめた。
やはり、女好きにろくな人間はいない。いや、彼は神だ。
──神も人間もたいした差は無い。あるとすればそれは作られた立場の違いだけだ。
私の中でひとつの哲学が産声をあげて顔を出した。
産まれたばかりのそれを私はそっと心の箱に入れて封をした。
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