3

「ここは·····」


 見慣れない湖が眼前に広がり、何故だかは知らないが、私はここがさっき話していた湖だと確信した。

 木々に囲まれた湖には、聞いた通り本当に何も無い。

 水面近くやほとりに鳥や虫がいても良さそうなのに、生き物の気配すら感じられない。

 水面に浮かぶいくつかの落ち葉も、ほとんど動くことなくその場に留まっている。

 不気味な程に水が美しく、底まで透き通っている。

 できる限り湖に近づき、膝をついて覗いてみると、小石がひとつ水の中へ転がり、波紋が広がった。

 広がる波紋を目で追いかけ、向こう岸に顔を向けると、横向き姿の男が1人、こちらに向かって微笑んでいた。

 向こう岸まではかなりの距離があるのに、その男の風姿がはっきりと確認できたことは不思議だが、いつの間にか私の視力が良くなったと思っておこう。

 男の湖のように淡い水色をした長い髪は、馬のしっぽのように結ばれ、肩甲骨の辺りまで伸びている。

 服装は馴染みがなく、ベージュの上着は随分と袖口が広く、全体的に大きさがあっていないのか、ぶかぶかな様子で、下半身には紺色の縦に何本も折り目が入った長いスカートのような衣服を身につけている。

 

 服装も佇まいもただ事ではない。ただ見つめているだけで吸い込まれそうになる。

 咄嗟に立ち上がって後ずさると、男の柔らかく優しげな目が一瞬、鋭い切れ長の目へ変わったかと思うと、また柔らかくなった。


 男はじっと黙って私を見ている。

 いつもの私ならさっさとこの場を去ってこのいかにも怪しげな不審者の話をサラにでも話しているところだろう。

 だが何故か立ち去る気になれず、風変わりな男が気になってしかたない。

 

「あのー!」


 私は声を張り上げて湖の向こうへ届くように叫んだ。

 男は身体を私の方へ向け、そっと左手口元に近づけると、上に向けた手のひらにフッと息を吐いた。

 手のひらのゴミでも払ったのかと思ったが、小さな風と共に、私の脳内に男の声が響いた。


「君をずっと此処で待っていた」


 透き通った声が脳裏を過ぎ去った。

 いつの間にか隣に誰か来ていたのかと思ったが、もちろん誰もいない。

 見える範囲にいるのは、向こう岸の男だけだ。


「あなたは誰? 今のはどういうこと」


 今の声は男の仕業としか思えなかった。

 もう一度叫ぶと、また男は同じように手のひらに息を吐いた。

 今度は一瞬、手のひらから小さな光の粒がいくつも舞い上がるのが確認できた。


「すぐに分かる。もう時期君はここにやってくるのだから」


 また少しして声が響いた。

 私は既に居るというのに、やってくるとはどういうことなのか。


「さっぱり意味がわからない。あなたは誰なの」


 喉が少し掠れながら叫ぶと、男は足を踏み出し、あろう事か水の上を歩き出した。


 ──ああ、これは夢だ。


 ようやく私はこの場所が夢の中だと理解した。

 ならこの男は私の運命の人とでも言うのだろうか。

 なんとも奇妙で君の悪い男だが、顔は悪くないどころか素晴らしい。

 これが予知夢にでもなれば嬉しいが、そうはいかないだろう。


 そんなことを考えていると、水面を軽やかに弾むように進んだ男が目の前にやってきた。

 向こうにいる時は気が付かなかったが、かなり大柄で見下ろされている。

 男は私を抱きしめようとしたのか、両手を広げたが、すぐに引っ込めた。


 ──別に抱きついてもいいのに。どうせ夢なんだから。


 男は手を後ろにやると、深く目を閉じてゆっくりと開いた。

 まつ毛が長く、ただ瞬きをする所作が美しい。


「あなたは誰ですか」

「すぐに分かる。いや、君は、君たちは僕の事を知っているはずだ」


 今度は男は口を開いて答えた。

 その声は先程の脳内の声と同じで、あれはやはりこの男のものだった。


「いいえ。少なくとも私は存じておりません」

「なら思い出して欲しい。いや、思い出さなくてもいいから。君が思い出すまでずっとここで待つよ」


 男がそう言うと、突如辺りに突風が吹き出し、めもあけていられなくなった。

 手で顔を覆いながら何とかその場に留まっていたが、視界が少しづつぼやけ始めていた。


「じゃあねヴァレリア。いつもありがとう」




 ──


「ヴァレリア! ねぇ起きて!」


 頭に響く女性の声で私は現実の世界へ巻き戻された。

 いや、性格にはとっくに戻っていたが、ただ眠っていただけだ。


 目を開けるといい感じに私に向かって窓から光が差し込み、眩しくて目が潰れそうになった。

 

「ねえヴァレリアってば」


 目を擦りながら声の方へ顔を向けると、焦った様子のサラが胸に手を当てながらそばに立っていた。


「どうしたのサラ」

「シドが帰ってこないの!」

「え? シドが」


 シドはこの修道院で暮らしている男児である。

 普段はしっかりしているのだが、たまに気が抜けたのかして、ふらふらとどこかへ行ってしまうことがあった。

 そういう場合、大抵どこかで座って休んだりしているのだが、どうやら今回はそんな簡単な話では無さそうだ。


「シドは森にいたんだよね」

「うん。近くにいた子供たちがいつのまにか居なくなったって騒いでて」

「それはまた面倒なことに⋯⋯」


 サラと早歩きで聖堂の出口へ向かった。

 聖堂を出る瞬間、正面のマロシュ像を見たが、特に変わりはなかった。

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