恋の逃避行

1/2初恋、あるいは最後の春休みの

めざめ

 かれこれ十年間ニートな息子に痺れを切らし、地獄のオーキド博士と化した母から「いい加減働かないと、KK园区パークか戸塚ヨットスクールか吉本興業にぶち込むぞ!」と最悪の三択を迫られたので、やれやれ俺は働いてみることにした。

 といっても、三十過ぎて職歴なしのクズなんざどうせどこも雇っちゃくれないだろう。未だに携帯代を親に払ってもらっているのが丸わかりな甘ったれたガキボイスを聞いた時点で、ガチャ切りされるに決まっている。そう高を括っていられたのもつかの間、働く意志は見せたぞというアリバイ作りのために電話をかけた近所のスーパーの店長から「明日の午後四時、面接に来てください」と言われてしまったので、否が応でも行かざるを得なくなった。姉が勝手にジャニーズに応募したときと同じように。まあ俺に姉なんていないんですけどもね。ヘヘヘヘヘヘヘヘ。おい、オードリー若林、お前何がおかしくて笑ってんだよ。


 ☆


「俺様はお前みたいな存在するだけで社会に迷惑をかけ続けるクズ、法律が許すなら、この場で即射殺してやりたいぐらい大嫌いでね」

 店長は思ったよりも温厚な人だった。だって、処刑したいクズを前に、ハンドスピナー代わりにチャカを振り回すだけで抑えてくれているのだから。

「そうですか。本日は気分を害してしまい、誠に申し訳ございませんでした。お詫びの印として帰らせていただきます」

 せっかくの店長の優しさ、無碍にするわけにはいかない。ここは気が変わらない内に退席しよう。

「おいおいおい、待て。誰が返すと言ったんだ?決定権はこっちにある。勘違いするなクソ野郎」

 前言撤回、圧迫面接を超えた恫喝面接へとモードを切り替えた店長の目つきは、冷たさしか感じられない、万引き犯を問い詰めるときのそれだった。

「申し訳ありません。勝手な真似をしました」

「おう、それでいい。お前みたいな無能なクズはな、俺様のような有能な人間のもと、死ぬまで奴隷を務めるのがお似合いなんだ。ということで採用。おめでとう。明日から毎日十八時間労働よろしく」

 たかだかスーパーの店長の分際で何を勘違いしてるんだこのアホは。救ってやりたい。そう思った。

「明日からよろしくお願いします。俺が店長を覚醒めざめさせてみせます」

覚醒めざめさせる?何を言ってるんだ?」

「文字通りですよ。覚醒。か・く・せ・い。俺たち人類はみんな宇宙人の奴隷なんです。店長にもそのことを知ってもらって、俺と一緒に真の自由を手に入れようってことです」

 一般的な感覚から言えば、店長の俺に対する態度は腹に据えかねる。いくら俺がクズとはいえ。しかし、巨視的に見れば、店長も俺と同じこの世界から陵辱を受ける被害者に過ぎない。だから俺は赦そう。赦して共に高次の世界へ行こう。

「クズのくせに生意気なこと言いやがって。で、どうすりゃその宇宙人とやらの奴隷をやめられる」

 店長は思った以上にもの分かりが良かった。悪く言えば、疑うことを知らないバカだった。

「ではまず、俺の志望動機を聞いてください」

「お、おう。志望動機は?」

「まず前提なんですが、森七菜って知ってます?」

「あぁ、女優の森七菜か。それがどうした?」

「俺、七菜と結婚しようと思うんです」

「は?何を言ってる?」

「実はもう七菜とは交際六ヶ月なんですが、まだ手をつないだ…」

「ちょっと待て、お前のその童貞染みた気色の悪い妄想と覚醒に何の関係があるんだよ」

 いいところなのに、店長が俺の話を遮ってきた。

「俺の志望動機は森七菜、いや七菜と結婚することです。夕飯の食卓で今のように七菜との話をしていると、母が言いました。働けば結婚できるよと。だからバイトを始めようと思ったんです。店長は好きな女優とかいますか?」

「ひ、広瀬すずだ」

 裸の心で語る俺に気圧された店長がようやく本心からの言葉を口にする。

「結婚したいですか?」

「したい!広瀬すずと結婚したい!妹は志田未来がいい!」

「俺も妹欲しい!原菜乃華がいい!」

「姉は吉岡里帆がいい!」

「永野芽郁と幼なじみになりたい!」

 ロックをかけられていた欲望が、一つ、また一つと、堰を切ったように露わになる。

「これが覚醒めざめってやつか!これが自由ってやつか!」

「店長!俺たちやっと本心から語り合えましたね」

「ああ、ありがとうクソニート。おかげで目が覚めた。スーパーの店長なんて今日限りでやめるよ」

 店長が涙を流しながら感謝を述べる。

「やめてください店長。俺たちもう同志じゃないですか。そういう湿っぽいのはよしましょう」

「そうだな、俺たちはこれからコンビだもんな。M-1優勝を目指す」

「え?」


 ☆


「で、あんた面接の結果はどうだったの?」

 夕食の筑前煮をつつきながら、母が尋ねる。

「ん、採用」

 がっついた白飯で口がいっぱいの俺が答える。

「さ、採用!?あんたを雇うなんて、相当にお人好しか、頭のネジがバラバラに外れた人でしょうね」

 実の親がそれを言うか。間違ってないけど。

「後者だよ。ネジバラバラの方。漫才の相方に採用された」

「漫才の相方!?スーパーのバイトの面接に行ったのよね?」

「そうだけど、店長はどうやら俺の思想に共鳴し過ぎたみたいで、M-1優勝を目指すことになったから、引き続き飯の準備と洗濯と七菜とのデート代よろしく」

 それにしても展開が速すぎるぞ。七菜と結婚するための手段として、お笑い芸人になるというのは間違ってないが、あの店長がそこまで思考を飛躍させるとは思わなかった。少し侮っていたようだ。しかし、どうしたものか。ネタなんて書いたことないし。そもそもどうやって書けばいいのか分からない。それに漫才師になるには、吉本興業に入らなくちゃならないし。それは嫌だ。考えることが多すぎる。そうして一週間が過ぎた頃、外に出たのは「出てこいクソニート!」と怒鳴る声と共に、窓ガラスにチャカをぶっぱなされた日のことだった。

「て、店長。お久しぶりです」

 どういう顔をしていいのか分からないまま、俺は店長の前に立ち尽くしていた。

「今の俺様は店長じゃない。広瀬すずと結婚する男だ。志田未来の兄で、吉岡里帆の弟でもある。お前は何だ?」

「お、俺は」

 後ろめたさから言葉につまる。俺が再び引きこもっている間にも、現実と向き合っていた彼と違って、吉本興業ごときから逃げていた自分が情けなくて。

「森七菜と結婚する男だろうが!原菜乃華の兄で、永野芽郁の幼なじみの!忘れたわけじゃないだろ!お前がお前を信じなくてどうする!」

「俺が俺を……。そうだ、俺は森七菜と結婚する男だ!原菜乃華の兄で、永野芽郁の幼なじみの!」

 平日の真昼間、何やらざわついているご近所の主婦をよそに、俺は魂のまま大声で叫んだ。

「やっと正気に戻ったか。で、何にそんな悩んでたんだ?」

「ネタが書けなくて。あと吉本に入ると考えると憂鬱で」

「ネタ?んなもんいらねえよ。それに吉本にビビる必要もない。なんだ、そんなことに悩んでたのか」

 店長もとい広瀬すずと結婚する男は、安堵したかのような笑みを浮かべ、黒光りするあるものを俺に手渡した。

「チャカ…」

「ネタなんかなくても、これがありゃ、吉本だろうがM-1だろうが無双だぜ」

「で、でも、NSCへの入学金は」

「それならいいバイトを見つけた。ミャンマーだがな。お前のぶんの履歴書も勝手に送っといた。航空券もあるぜ。フライトは今日だ」

 流石は元店長。仕事が早い。そうして俺たちはその日のうちに日本を飛び立った。七菜/すずに見合う立派な男になるために……。

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