第10話 初めての仕事

 珠紀たまきと合流し、アリスは日本へ向かうゲートたる穴を地面に出現させた。

「行こっか」

「ああ」

 珠紀は固い声で言い、アリスに続いて穴に飛び込んだ。落下が始まり、胃がフワッと浮き上がる感覚がした。

 今度の穴の中では、『奸臣蔵かんしんぐら』や『学問のさまたげ』などといった題の書籍や、バラバラな順番に散らばったマトリョーシカ、一人のおばさんが揺り籠と墓石を鉄拳で破壊している絵などが見られた。

 そしてその真っ黒な長いトンネルを抜けると日本であった。


「わあっ、通れた!」

 アリスは感慨を込めて言った。

「やっとあの国から出られた」

 珠紀も嬉しそうな顔をしていた。

「ねえ珠紀、穴の中にあるあの変な本や絵は何なの?」

「そいつは解明されてねえ。通る奴によって見えるものが違うらしい。……とにかく今は、きっちり仕事するぞ」

「うん」


 因みにアリスにパスポートは不要だった。忍者の国は日本の管轄であり、そこに一時的にでも住む権限を心愛ここあから与えられているからだ。

 とはいえ、初めての本物の日本である。いやはや、忍者の国から出て最初に踏む地が、ブリテン島ではないとは。

 朝の東京の町は、仕事へ向かうサラリーマンで溢れかえっている。ものすごい人口密度だ。土曜日だというのにご苦労なことである。

 高層ビルと古い建物が入り混じってごちゃごちゃとした都市の景観が、如何にも外国に来たという感じがしてテンションが上がる。しかし、忍者衣装フル装備の黒装束の女がキャアキャア騒いでは悪目立ちすることは必至。第一、忍者は無闇に他人に姿を見せてはならない。アリスは止めどなく湧き上がる興奮を努めて抑え込んだ。


 資料によると、バンダースナッチの下っ端信者たちが潜んでいるのは、この繁華街を外れた場所にある地味な裏道のちんけなオフィスビルの一部屋。ソ連最高会議代表団がいる場所とは遠いのだが、あの近辺は厳重警戒されているから仕方あるまい。


 アリスと珠紀はパルクールめいたアクロバティックな走りで町を高速移動し、くだんの薄暗く薄汚い裏道に着いた。

 煙草の箱やプラスチック袋や何かが雑然と散らばり、閑散として陰鬱な雰囲気の場所である。先程の繁華街と同じ町とは思えない程、淀んだ空気に支配されている。

 目当ての建物の名前は「芝浜第三ビル」。芝浜とは地名なのか人名なのか、アリスはよく知らないのだが、そんなことは別にどうでもいい。ここの二階に敵が潜んでいることだけ分かっていればいい。


 珠紀はビルを見上げてギュッと両の拳を握りしめている。顔色も少し悪い。緊張しているようだ。

「大丈夫だよ、珠紀。心配いらない」

 アリスは声をかけたが、珠紀はまだ体が強張っている。

「念願の任務でしょ。いつもの強気はどうしたの」

「うるせーな。念願が叶ったからこそ、うまくやらねえとって思っちまうんだよ」

「でも、うまくいくよ?」

「は? 何で分かるんだよ」

「この私が、ここ一番の所で、失敗するはずないもん」

「……本当に自信過剰な奴だな」

「事実を言っただけだよ。平気平気。今、私の勇気は百パーセント。絶対不敗の英国淑女にして、完全無欠の忍者だよ。私たちが力を合わせれば天下無双ってわけ。絶対うまくいく」


 珠紀は長々と息を吐き出した。


「お前の話を聞いてると、自分の悩みがバカバカしく思えてくる……。分かったよ、不安に思うのはやめるよ」

「それがいいよ」

「……ありがとな」


 珠紀は錆びついたドアノブをひねり、先陣切ってビルに入った。足跡を殺して階段を登り、敵のいる部屋の前で気配を探る。中にどんな人が何人いるのかなどは、アリスには分からなかったのだが、敵がいきなり声を揃えて英語でこんなことを叫んだ。


大教祖様グレート・グールーが我らを見ている!!」


 アリスはびくっとした。珠紀は耳を澄ましていた。


「……男が五人といったところか。今の掛け声を全員が言っていたとしたらだが」

「なあんだ、余裕だね。突入しちゃう?」

「いや、相手が丸腰のはずがねえ。慎重に……」

「それ、私の辞書には無い言葉」

「待て待て待て。せめて作戦くらいは守りやがれ」


 珠紀が懐から兵糧丸を出して食べたので、アリスも真似をした。

 珠紀が用意してくれたのは、一定時間、体も服も見えなくなる兵糧丸だった。知紗ちさの忍法・隠れ身の術とは少し違う。彼女は体そのものの存在を消せるのだが、こちらは見えないだけで存在はしている。


「そういえば私、子どもたちから毒草入りの煙玉をもらったんだけど、それ部屋に投げ込んだら一発解決じゃない?」

「頼むからやめてくれ。この階、トイレは五人分も無いだろ。部屋中を汚物まみれにするつもりか」

「それは確かに美しくないね」

「そうだ。それじゃ……行くぞ」

「うんっ」


 アリスがドアを開ける。誰もいないはずなのに勝手に開いたドアを見た信者たちは、面白いくらいに慌てふためいた。一、二、……ちゃんと五人居る。全員同じ、よれよれの青いTシャツを着ている。

 部屋には大きな窓がついているが、全てブラインドで隠してあった。部屋は広めだが、床は小汚く、あまり掃除などをした形跡は見られない。充満する煙草の匂いの中に、妙に甘ったるいような、明らかに違法薬物であろう何かの匂いも混じっていた。

 アリスは部屋に一歩踏み込み、日本語で声高に宣言した。


「大丈夫だ、私たちが来た! やあやあ我こそは──」

 まだ名乗りの途中だったのに、アリスは珠紀から頭をガツンと殴られてしまった。

「バッカ、名乗るな! 目立つな! 侍じゃねえんだぞ! 隠密行動だっつってんだろが! 何のために透明化したと思ってやがる!」

「えーだって名乗り口上やってみたかったんだもん。それに珠紀も喋ってるよ」

「お前のせいだ!」


 びっくらこいた信者たちは声の出所を探して、及び腰になりながらも血眼できょろきょろしている。銃を構えてあちこち見回している男もいる。

「誰だッ」

「どこにいる!?」

「出てきやがれ!」

 彼らがアメリカン・イングリッシュを話しながら混乱している内に、珠紀が拳銃男の銃を奪い取り、腹に蹴りを入れた──のだと思う。銃は消え、男は壁まで吹っ飛ばされ、後頭部を打って気絶した。


燻製ニシンレッド・ヘリング!」

 一人が彼の名を呼んだ。

「わあ、あれがコードネームってやつなのかな?」

「かもな。あるいは洗礼名とか」

「そっか! よーし、私も頑張るぞ!」


 アリスは負けじと部屋を駆け回り、他の四人の銃を全て回収して懐に収納した。その間に珠紀はレッド・ヘリングを縄で縛り上げた。見た目上、縄が突如として現れた形になる。

 だが銃だけが武器のはずがない。警備の固い要人を暗殺するために、彼らは様々な道具を用意しているはず。それらを全て押収し、信者たちを拘束もしくは殺害して無力化に追い込むのがミッションだ。


「うわああ」

 信者たちは何が起こったのか分からずパニックになって右往左往している。しかし一人だけ、やたら静かな奴がいた。

「お前ら、落ち着け」

 彼は仲間に注意した。信者たちはハッとして彼を見た。

抱擁の熊ハギング・ベアさん……」

「敵は特殊な術を使っている。ならばこちらも大教祖様グレート・グールーのお力を授けて頂けば良い。──祈れ。そして力をお借りしよう」

「そうか……!」


 四人は手を繋ぎ輪になって、お遊戯会か何かのようにグルグルと回り出した。

 この儀式は資料に記載してあった。バンダースナッチの大教祖様グレート・グールーことトム・ハッチェンスは、アメリカ版の忍者の国ともいえる異世界「戦士の州」の出身で、「ワザ・リングハイツ」と呼ばれる不思議な技を身に付けているのだ。これを食らった人間は嵐の中に放り出されたかのようにもみくちゃになるという。しかも攻撃は広範囲に渡って有効なため、相手の姿が見えずとも巻き込むことが可能だ。

 分かっていたから、こちらは当然対策済みだ。


「アリス!」

「分かってる!」


 アリスと珠紀は二つ目の兵糧丸を食べた。防御力に重点を置いた珠紀の発明品で、これにより体の周囲に透明のバリアが張られる。

 しかし、次の瞬間に部屋中に巻き起こった嵐は、想像を絶する激しさだった。台風だのハリケーンだのサイクロンだのとは比べ物にならない強さの、どこからともなく発生する雨と風。バリアはよく耐えてくれたが、遂には圧力に耐えかねて消滅してしまった。アリスと珠紀はずぶ濡れになりながら強風に巻き上げられ、部屋の中をブンブンと振り回される羽目になった。


「どーすんだコレ!? ロクに身動きも取れねえ!」

 宙を舞いながら珠紀が叫ぶ。アリスも同様にぶん回されながら返事をする。

「嵐が収まるまで防御に徹しよう! 収まった瞬間に隙が生まれてチャンスになるはず!」

「だめだー! その前に壁に叩きつけられて風に押されて圧死しちまうーっ」

「弱気にならないで! 大丈夫だから!」

「また根拠の無えことを言いやがって! いい加減にしろ!」

「根拠は私だよ! この状況……天才万能大学生にして最強無敵忍者たる私の脳内コンピュータが弾き出した結論は、勝利ヴィクトリー!!」

「はあ?」

「必ずやり遂げると決意していれば、ちゃんとその通りになるからっ!」


 勝てるはずなのだ。たった今思いついた即興の作戦だが、これはきっと当たる。間違いない。そう、アリスの勘が告げている。

 アリスは全身に叩きつけられる雨粒の痛みに耐えつつ、ググッと腕に力を込めて印を結んだ。


「大丈夫。私はやれる」


 アリスは風に押されて体勢が不安定な中、前に試した時のイメージを膨らませ、気合を込めた。

「忍法・切替の術」

 ──成功。アリスは今再び強忍者モードになった。だがまだ続きがある。ここから更なる応用技に挑むのだ。それは、強忍者モードを、珠紀にも適用することだった。

 他人のステータスをいじるのは初めてだったが、思いついたからには試さない手は無い。だいたい、トムとやらにさえ他人に力を与えることができるのだから、アリスにもできるに決まっている。アリスは自分が特別優秀であることをとてもよく知っているのだ。

「もう一回! 忍法・切替の術ッ!!」

 精神を全集中させて、目には見えない忍法の軌道を、感覚を頼りに辿る。そしてそれを、同じく目には見えない姿の珠紀にまで誘導する。

 ──成功!

 今、珠紀もまた、強忍者モードになった。

 二人とも、雨にも風にも負けぬ体を手に入れた。

 やはりアリスは、文武両道天才万能最強無敵忍者なのだ!


「アレ? 何か急に体が強靭に……それにスゲー受け身が取りやすくなったな……?」

「言ったでしょ、大丈夫だって!」

「お前が何かやったのか?」

「そう。これなら嵐を乗り越えられるはず」

「……! 助かった。サンキューな!」

「どういたしましてー」


 そうこうしている内に透明化の効果が切れてしまい、アリスたちは敵に姿を晒してしまった。女二人の雑魚だと油断してくれれば良かったのだが、バンダースナッチの面々は一気に青ざめた。


「アイエ──ッ!? 忍者!? 忍者何で!?」

「もうお終いだ……絶望的だ! オワッタアアア──!」

「惨たらしくミンチ肉にされてハンバーグにされて美味しく食べられてしまう! 怖いよ! ママー!」

「諦めるな! 少しでも奴らをこの嵐で弱体化させるしかない!」

「でももう力がもたないよ!」

大教祖様グレート・グールー、我らに力を……!」


 信者たちの祈りも虚しく、嵐は弱まっていった。雨風が収まり、ようやく床に足を付けられたアリスは、間髪入れずハギング・ベアに突進。背後から両腕で捕まえて持ち上げ、体を反らしてそいつの頭を床に強打させた。ハギング・ベアもまた、あえなく失神してしまった。

 珠紀は二人の男を相手取っていた。棒手裏剣を躊躇なく敵の脇腹にぶっ刺す。最初に刺された方の男が、一人残された男に向かって叫んだ。


「お前だけでも逃げろ、首吊り男ハングド・マン!」

「は、はいっ!」


 ハングド・マンは、一般人にしてはなかなか優秀な回避行動を見せ、隙をついて部屋を脱出してしまった。


「チッ、一匹逃したぞ」

「私が追いかける! 珠紀はそいつら縛り上げたら合流して!」

「了解」


 アリスは部屋を飛び出した。ハングド・マンが階段を降りていくのがちらりと見えた。見えたからには絶対に逃がしてなるものか。走れ! アリス。


 アリスは階段の踊り場でハングド・マンに追いつき、バンッと壁に手をついて彼の逃げ場を塞いだ。壁のぼろぼろの塗装が剥がれてパラパラと落ちる。さて、どう調理しようか。短刀も苦無も持ってはいるが、急所に突き刺すのはやはり嫌だ……何とか気絶くらいで済ませる方法を取りたい。


 ハングド・マンは、そんなアリスの迷いを見逃さなかった。彼はするりとアリスの腕を掻い潜って、再び階段へと逃げた。


「あー! 待ってー!」

「バッカ野郎、何ボサッとしてやがんだ!」


 珠紀が追いついてきた。彼女は容赦なく手裏剣を投げた。ハングド・マンは痛みで足をもつれさせ、階段を踏み外してごろごろと転がった。珠紀は一っ飛びで階段を飛び降り、ハングド・マンに馬乗りになった。彼はグエェとカエルめいた呻きを上げたが、珠紀が短刀を抜き放って彼の喉にピタリと当てたので黙った。


「最後に言い残すことは?」

 珠紀が英語で問うと、彼は悔しそうに顔を歪めた。

「クソッ……この黄色い仔豚イエロー・ピギーが。まさか俺がこんなチビでブスでデブでメガネでビッチのジャップにしてやられるとは……屈辱だ……ッ!」

「は?」

 アリスは険のある声を出した。珠紀はというと、瞬時に怒りが沸点に達したようで、激昂した。

「あぁ!? お前、せっかくあたしが情けをかけてやったってのに、よりにもよって言うことがそれか? ゴミクズが! 余程苦しんで死にてえらしいな!」

 アリスも重ねて言い募ることにした。

「他人の気も知らないで容姿や出自をとやかく言うなんて最低! 無礼千万! ディスガスティング! そもそも珠紀は可愛いでしょ! まさか分からないの? 目ん玉腐ってんの?」

「え? アリス?」

「あなたのことは、お望み通り私が死ぬほど苦しませてあげる。さあ、珠紀に喉を一突きされたくなかったら、大人しくトイレに直行しなさい!」

「え? アリス?」

「ひ、ひえぇ」


 ハングド・マンは大急ぎで珠紀から逃れると、恐怖で足をガクガクさせながら近場のトイレに向かった。珠紀が彼を縛り上げる。アリスはせめてもの温情として彼のズボンとパンツを下ろすと、襟首を引っ掴んで個室にぶち込んだ。鍵をかけさせて、煙玉を放り込む。

 ボフン、と煙の出る音がしたので、アリスと珠紀はさっさとトイレから退散した。


「グワ──ッ!!」


 何やらトイレからただならぬ喚きが聞こえてきた。アリスはくつくつと笑った。


「これで全員無力化できた?」

「五人とも縛ったからな。あいつ以外には強めの筋弛緩剤を飲ませておいたから、奴ら身動きも取れねぇよ。あとは武器を探して陳列して、警察に連絡したら任務完了だ」

「やったね! 私たちだけでも、うまくいったね!」

「油断するなよ。全部片付くまでが任務だ」

「はあい」

「あたしは公衆電話を探してくる。忍者の事情を分かってる警察官に連絡しねえとだめだから、あたしが話をつけてくるよ。アリスは敵の武器を探しといてくれ」

「ラジャー! 因みに公衆電話は建物を出て右を行ってすぐにまた右に曲がったところにあるよ。資料の地図に描いてあった」

「お、おう、そうか。ありがとな」

「それじゃあ、最後の一踏ん張りだね!」

「ああ」


 かくして後処理はつつがなく終了した。実際に任務をやってみたことを踏まえて、アリスは少し考え込んでいたが、ひとまず珠紀とハイタッチをした。


「任務完了。エクセレント!」


 そうして二人で報告のために一緒に忍者の国に戻って城に上がったのだった。


「よくやってくれました。お陰様で世界の危機がまた一つ防げました。ご苦労様でした」


 心愛ここあは相変わらず笑顔であった。金色の簪がゆらゆらと優雅に揺れていた。


「珠紀さん。どうでしたか、外での任務は」

「あたしは……正直、緊張してしまいました。でも、あたしの作った兵糧丸や薬を使えば、特別な忍法がなくても戦えることを証明できたので、良かったです。それに、兵糧丸作りの仕事にもちょっと誇りが持てるようになりました。ですからこれからあたしは……たとえば絹枝きぬえさんのように、二足の草鞋を履いて活動したいという思いを新たにしました」

「なるほど。あなたの気持ちはしかと受け取りました。私はあなたの仰る通りに、評議会に掛け合いましょう。今後は珠紀さんにも仕事の割り振りをしやすくなるかと。……珠紀さん、これはあなたが自分の力で切り拓いた未来です。本当によく頑張ってくれました。自信を持って下さいね」

「ありがとう存じます」


 珠紀は丁寧にお辞儀をした。ああ、とアリスは深く納得した。心愛は、珠紀やアリスが御庭番としての外での任務を自力でこなせることを周囲に示すために、わざと新米二人に重大な仕事を与えたのだ。今から珠紀の希望と実績を引っ提げて評議会とやらに訴えれば、効果は抜群のはず。何という慈悲深いお方なのだろう。その優しさと信頼に応えることができて、本当に良かった。それはそれとして評議会とやらの存在を初めて知った。心愛にも色々と苦労があるらしい。


「では今回の報告書は珠紀さんが書いて提出して下さい。その方がきっと良いでしょう」

「御意」

「さて、アリスさんはどうでしたか。忍者の仕事は」

 アリスは一つ頷くと、はきはきと回答した。

「刺激的で面白い、最高の体験でした。新米の私を選んでくださったこと、心より感謝申し上げます。ただ……考えたのですが、やはり私も二足の草鞋を履かねばならないようです」

「学業ですか?」

「はい。オックスフォード大学の卒業要件は当然とても厳しいものです。私も学びの機会をこれ以上逸することはできません。博士課程にまで進むつもりでいるので、今後はもっと忙しくなると思います。ですから、四六時中忍者の国に居続けるのは難しいです。もちろん草鞋なら二足でも三足でも履きこなしてご覧に入れますが、御庭番の仕事だけに集中することはできかねます。すみません」


 心愛は静かに首を振った。


「謝るようなことではありませんよ。最初にお会いした時に申し上げた通り、ここでは住人の幸福が第一です。好きなように生きて下さい。私はそのためにいます。……そしてアリスさん、つまりは今後とも御庭番の任務に参加することをご希望ということですか?」

「はい」

「分かりました。……ひとまずアリスさんは、一度故郷に戻られるのがよろしいかと。敬兎けいとさんの調べでは、アリスさんが行方不明になったために、あちらは大変な騒ぎになっています。今は、故郷の方々を安心させてあげて下さい」


 確かに、とアリスは思った。知人や家族は、アリスをさぞ心配していることだろう。分かっていたのに、忍者の国が楽し過ぎて、後回しにしてしまっていた。


「承知しました」

「よろしい。あちらでは、しばらくは学業を優先することを推奨します。何かあればその時にお呼びしましょう。……ではお二人とも、下がって頂いて結構ですよ。今日は自分たちを盛大に労ってあげて下さいね」

「はいっ」


 アリスと珠紀は改めてお礼を述べると、団野だんの兵糧丸工房に戻った。作戦が成功したら、お昼はちょっとした贅沢をしようと、二人で約束していたのだ。

 珠紀は頭巾を外して髪を整えると、電話の受話器を取り、出前屋さんの「出軒津でけんづ」に親子丼を注文した。じきに、ほかほかのどんぶりが配達される。アリスはうきうきしながら蓋を開けた。


「わぁー! これが噂の無慈悲クルーエル丼! 美味しそう」

「クルーエル丼て」

「殺して調理して同じ器に入れたものを親子と呼んで食べちゃうの、ちょっと倫理的に問題じゃない?」

「そうか……そうか? よく分からんな」


 熱々のごはんにジューシーな鶏肉、とろとろ玉子と甘いタマネギ。アリスは大満足で、どんぶりをすっかり空にした。もちろん、米粒一つも残していない。

 ふうっと息を吐き出したアリスは、手を合わせてゴチソウサマを言い、立ち上がった。


「それじゃあ、私は一度イギリスに戻るよ。大学で受けたい講義が待っているし、課題もキリマンジャロ並みに溜まっているはずだから」

「急ぎなのは分かるが、食休みは取れよ。すぐ動くと腹が痛くなるぞ」

「それもそっか」


 そういう訳で少し珠紀とお喋りに興じたアリスは、普段着とコートとブーツを身につけた。


 日本に行くだけなら成宮京から穴を通れば良いが、外国の場合は場所を変えねばならないという。アリスは一人、四十町の森を抜けて草原の向こうの湖畔にまで戻り、ピッと地面に穴を開けて、ようやく故郷へと帰還したのだった。

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