第9話 個人的な趣味


「夢見の術、今回は何を見たの?」


 成宮京を疾走しながら、アリスは弥生やよいに尋ねた。


「うふふ……気になる?」

「気になる」

「話しているうちにお城に着いてしまいそうだから、かいつまんで話すわね」

「うん」

「夢の中で摩利支天まりしてん様が──仏教における光の女神様ね──あの方が、伊賀の山々の峰に座る私におっしゃったの。たとえどんなことが起ころうとも、決して声を出すのではないと。それで私、ずっと黙っていたのよ。そうしたらね、幻が見えたわ。物凄く大きなヒグマ白頭鷲ハクトウワシが、空中で睨み合いをしているの! そこに小さな信楽焼みたいな狸が歩いてきて、二人にそれぞれペコッと挨拶をしたのよ。そこからはもう、ただの睨み合いが血みどろの争いに発展したわ! 羆と白頭鷲が本気で殺し合いを始めたのよ! これがとっても怖くって。声を出さずにいるのに苦労したわ」


 アリスはきょとんとしながら聞いていた。ちょっと分かりづらい話だったのだ。だが、大筋は把握できた。


「何だか今の世界情勢の暗示みたいな夢だね」

「あら、分かるの? 私の夢、みんな訳が分からないと言うのだけれど」

「まあ私は天才だから。要は、羆がソ連で、白頭鷲がアメリカでしょ? で、狸が日本。確か今、日本のお偉いさんとソ連のお偉いさんが会談をしている最中だそうだから──アメリカ側に、日ソの歩み寄りが気に食わない連中がいる……とか?」

「すごいわ、当たりよ」

「ふふん」

「と言っている間にお城に着いてしまったわね。ごめんなさい、私の予知夢は緊急の連絡だから、先に行っても良いかしら」

「もちろん! どうぞ」

「ありがとう、アリスさん」


 弥生はシュッと黒い風となって城の中に消えた。アリスは赤茶色の足袋を脱いで簡単に身だしなみを整えた後、大哉だいやに案内してもらった部屋でお茶とお団子を頂きつつ待機していた。

 血みどろの争い、とアリスは弥生の言葉を反芻した。朝鮮戦争やベトナム戦争、中東各国やアフリカ各国の戦争──米ソが直接対決の形を取らず間接的に関与した戦争の数々。もし米ソがダイレクトに戦争を始めたら、これらの代理戦争を上回る被害が出るのだろうか。まあ、両国の核兵器保有数から考えると、人類は滅亡までまっしぐらだろうけれど……。

 でも、冷戦が──冷たい冬が終わりの兆しを見せ、春を控えて各国が芽吹きを待つこの状況で、本当にそこまで事態が悪化するだろうか?


 その内、大哉から声がかかったので、アリスは再び心愛ここあと面会することになった。アリスが丁寧に平伏した後、心愛は口を開いた。


「おめでとうございます、アリスさん。あなたは無事に忍者として認められ、御庭番に入る資格を得ました。これでいつでも、穴を通って故郷に帰ることができますよ」

 アリスは歓喜と安心で胸が熱くなった。

「ありがとうございます。恐悦至極です」

「そこで、お一つだけ提案が。実は先ほど、父母に助言をもらいまして」

狛亜はくあ様と伊織いおり様から」

「はい」


 心愛は笑みを崩さない。


「簡単に申し上げますと、あなたには、今後ともこの国に出入りして、忍者として任務を請け負うことが許可されました。これも何かのご縁ということと、同じ西側陣営のよしみということで」

「……エッ?」

「因みに私は、おすすめしません。任務には危険が伴います。日本の国益のためにあなたの祖国を裏切るような仕事も存在します。ですからこれは、一応そういう許可を出しましたよ、というお知らせに過ぎません。私としては、アリスさんはこのまま故郷に帰って、学業に専念するのが一番良いと思っています。オックスフォード大学での数々の素晴らしい体験を放り出してまで、危険な忍者の仕事をすることは、全く推奨できませんからね」


 瞬間、アリスの頭に浮かんだのは、悔しそうな珠紀たまきの表情だった。

 ──任務に向かない忍法を持つ忍者でも、任務をやれると証明できれば。


 続いて脳裏をよぎったのは、ここに来たばかりの日に見た、雨之埋芽のパフォーマンス。彼らのように、マジョリティがさも当然のように持って生まれる体質に偶然恵まれなかったせいで、社会的な制約を受けてしまう人々でも、ああして輝ける仕組みがこの国にはある。ならばアリスにだって──珠紀にだって、きっと。


 実際、アリスの忍法・切替の術は、大したことはない。一般人モードになることは、任務においてさほど大きな意味をなさない。象平しょうへいも、役に立たないと明言していた。そしてたとえ強忍者モードになったところで、それは兵糧丸の効果の一つである身体強化とあまり違わないのだ。

 しかし、アリスにはこうしてチャンスが与えられた。ここで上手くやれたなら、少しでも珠紀の助けになるだろうか。


 第一、自分が忍者としての任務をやれるなんて──こんなプレシャスな機会をそう易々と棄却できる訳がない。これはもう絶対に面白いやつだと確信できる。是非とも体験してみたい。


 大学での研究の時間を削ることは──もったいない気もしたが、自分なら忍者稼業と学業を同時進行でそつなくこなすことができるに決まっている。天才万能大学生ならばそんなことはできて当然。赤子の手をひねるようなもの、というやつだ。

 そこでアリスは、こう返答した。


「一度、任務に挑戦したいです。今後の身の振り方は、それから判断してもよろしいですか」

「……お試しで任務を受けるということですか」

「はい。以前、抜け忍はそれなりにいると伺いました。つまり、やってみてからやっぱり辞める、ということも容認されているのですよね」

「それはそうですが。お試しとは言え、命懸けの仕事になりますよ。半端な覚悟では務まりません」

「承知しています。私はいつだって本気です」

「大学での勉強時間を削ることにもなりますが」

「私なら、学業と忍者業の両立などちょちょいのちょいです!」

「……。アリスさんがそこまでして忍者の仕事をしたいとお思いなのは……世界平和のためですか? それとも西側陣営の?」

「いえ、好奇心と申しますか……個人的な趣味です」


 心愛はゆっくりと瞬きをした。


「趣味で、命を懸けると?」

「はい」

「……もう少し慎重に考えることはできませんか」

「残念ながら、私はどうも、慎重になることが苦手なのです。そうですね……日本語の諺に、石橋を叩いて渡る、というものがありますが、そのたとえで申し上げますと、私は吊り橋だろうと何だろうと後先考えずダッシュで渡るタイプです。それこそ子どもの頃からの無鉄砲でして」

「あら……。それは、困りましたね」


 そう、そもそもの話、もしアリスが一欠片でも慎重さというものを持ち合わせていたならば、たまたま見かけた忍者を追って謎の穴に飛び込むことなどしなかったはずである。全ては、アリスの奇怪な程に突出した行動力によって始まった。しかも厄介なことにアリスはちっとも懲りていないし、反省も後悔もしていないし、むしろ破茶滅茶にエンジョイしてしまっている。生粋の好奇心モンスターたるアリスの中では、もはや突き進む以外の選択肢など、風の前の塵芥の如くに儚く消滅しているのだ。


「軽々に命を懸けることを、愚かしいと思われる方も多いでしょう」

 アリスは語った。

「しかし、仮に全世界の人が私を愚かだと思って蔑んだとしても、私は私の生き方が正しいと信じているのです」

「そうですか……」

「私は、私らしく生きるためならば、危険に身を投じることも厭いません。そして、忍者としての仕事をすること──これほどスリリングでアトラクティヴな提案も他にございません。今、私は明確に、任務に挑戦してみたいという望みを持っています。是非、お申し付けをお願いしとうございます」


 心愛はスゥーッとゆっくり深呼吸をした。


「分かりました。ならば、アリスさんの望みを叶えましょう。──一旦、絹枝きぬえさんから黒装束を受け取りに行ってください。そしてお手数ですが、着替えが済み次第、またこちらにいらして下さい。一つお願いしたいことがあるのです。……この話を受ければ、お国に帰る日が少し遅れてしまいますが……」

「問題ありません。恐らくは。ありがとうございます」


 アリスは深々と頭を下げ、仕立屋松戸まつどにすっ飛んで行った。

 絹枝が渡してくれた新品の装束を、どきどきと胸を高鳴らせながら身に纏う。仕上げに、これまでふわふわと靡かせるがままにしていた、ウェーブのかかった金色の髪の毛をまとめ上げ、深々と頭巾を被った。

 これでアリスは、どこからどう見ても完璧な忍者だ。


「アリスちゃん、改めて忍者就任おめでとう」

 絹枝は小さく拍手を送ってくれた。

「黒い装束、とっても似合ってる」

 ようやく念願の正装ができた上に、穏やかな声で優しい言葉をかけてもらって、アリスはバイブスがブチ上がってしまい、その熱量は全宇宙を一瞬にして蒸発させるレベルにまで達した。キャアキャア騒いだアリスは、絹枝に飛び付かんばかりの勢いで礼を述べた。

「本当にありがとう!」

「いえいえ」

 その後アリスは熱心に全身鏡に見入っていたが、早く城に戻る必要がある。そこで重ね重ね絹枝に礼を言うと、城まで駆けた。


 謁見の間に戻ると、そこには何故か珠紀が座っていた。彼女は氷山のようにカチコチに体を強張らせている様子だったので、アリスは心配になった。


「珠紀、また会ったね。どうしたの? 大丈夫?」

「チッ、ド素人が……。欲を言えばベテランの人と一緒が良かった」


 悪態をつかれた。杞憂だったようだ。良かった。

 しかしこの状況はどういうことだろう。もしかして、とアリスはそわそわしながら珠紀の横に正座した。


「お二人とも、お揃いですね」


 それまで黙って座っていた心愛が口を開いた。


「お二人にこちらへ来て頂いたのは、お願いしたいお仕事があるからです」


 場の空気に、静電気めいた微弱な緊張感が、ピリリと走った。


「今、ソ連最高会議代表団が訪日しています。このことについてつい先程、弥生さんが予知夢の報告をしてくれました。明日みょうにちソ連へと帰国予定の代表団団長、アレクサンドル・ニコラエヴィチ・ヤコブレフ氏を、襲撃する計画が立っているそうです。それを日本政府にお伝えした所、我々忍者の手を借りたいと緊急の要請が入りました。そこで、この件について、お二人に任務をお願いしようと思います」


 アリスは唾を飲み込んだ。そっと珠紀を横目で窺う。彼女は未だ彫像の如く微動だにせず、表情も固まっている。

 ──外へ任務に出たことのない二人に、こんなおおごとを任せるなんて、心愛は何を考えているのだろう。


「敵の計画の決行は明日。代表団の身辺警護はソ連の方々の護衛に任せます。あなたたちの仕事は、そもそも敵を代表団に近付かせないこと。一切の行動を起こさせないことです。敵が潜伏している場所へ向かい、無力化して下さい。敵の生死は問いません。……御庭番の任務の中では、荒事といえる仕事になります」


 アリスはウッと息を詰まらせた。俯いてぢっと手を見る。忍者になれたは良いものの、人殺しに手を染める覚悟は未だに無いままだ。


「敵の情報をお伝えします。彼らは『バンダースナッチ』という名の、アメリカの新興カルト教団です。トム・ハッチェンスという人物を大教祖様グレート・グールーと呼び信望する集団で、秘密裏に独特の技術を駆使しているとか。ハッチェンス自身は、ドン・フロドなる人物の率いるマフィア『バギンズ家』と密かに繋がっており、彼らから資金援助を受けています。バギンズ家は核兵器をはじめとした軍需を利用することで存続する、いわゆる死の商人であるため、昨今の情勢を嫌っているようですね。ヤコブレフ氏の殺害をきっかけに戦争でも起きてくれれば大儲けという思惑があるのでしょう」


 いやはや、世の中は金で回っていることを痛感させてくれる話だ。人命より何より金、か。


「バギンズ家の方は規模が大きく、つつくと厄介ですので、今は捨て置きます。私たちの仕事は、巨悪の打倒ではありません。細かな火種を消して火事を防ぐこと──せめて最悪の事態に陥らないように処置することです。即ち、バンダースナッチの下っ端である実行犯たちを押さえることに集中するように。いいですね」

「はい」


 アリスと珠紀は揃って返事をした。


「詳細はこちらの資料にまとめてもらいました。即席ではありますが、弥生さんの予知夢の情報と照らし合わせて、大哉さんを総動員して作ったものですから、信頼性は私が保証します」


 珠紀は細紐で繋がれた紙束を恭しく受け取り、ぱらぱらと中身を見た。アリスも覗き込む。


「作戦立案はお二人にお任せします。必要であれば他の忍者を頼ると良いですよ。……では、ご武運を。明日、何事も起こらないよう、全力を尽くして下さいね」

「はいっ」


 さて、大変なことになった。重大な任務を素人二人にほぼ丸投げされるとは。これも自分で道を選んだ結果だが、いざとなると重責が肩にのしかかってきて……非常にワクワクしてくる。世界の命運を握るのが、こんなに愉快なこととは知らなかった。


 珠紀が歩きながら熟読している資料を、アリスはひょいと取り上げた。

「オイ」

「すぐ返すよ。丸暗記するから、その後はいらない」

「正気か?」

「平常運転だよ。そこらの人とは頭の出来が違うからね」

「ンだソレ。ムカつく」

「あははっ」


 アリスは全ページの文面と地図と間取り図に目を通した。団野だんの兵糧丸工房の前に着く頃には情報は全て頭に刻まれたので、無造作に紙束を珠紀に返した。


「ありがとう、もういいよ」

「早すぎるだろ」

「そう?」

「……まあいい。とっとと作戦を立てねえと間に合わねえ」

「そうだね」


 アリスは工房にある珠紀専用の研究室に入れてもらった。珠紀はああだこうだ言いながら、兵糧丸を取っ替え引っ替え出してくる。

「懐にいくらでも入るんだから、全部持っていけばいいんじゃない?」

「いや、兵糧丸の効果の程度や持続時間を考慮しねえと。うっかり不向きな奴を食っちまったら不利になる。薬の飲み合わせの問題もあるし、食い過ぎて腹一杯になっちまうのも良くない」

「そっか」


 その日は作戦を練ることで時間を費やした。いざやってみて失敗しては事なので、幾つものパターンを考案し、なるべく多くのケースに対応できるように熟慮した。まあ、全ての可能性を網羅するのは不可能なので、あとは臨機応変に対応するしかないが。


 アリスはさっきもらったリンゴを懐から出して丸かじりしながら、暗くなった成宮京を歩いた。特別にまだ貸してもらっている寺子屋の寮に戻る。シャワーを浴び、寝間着を纏い、蒲団を敷いて横になる。目を見開いて板張りの天井を見つめた。

 明日はさぞ刺激的な一日になるだろう。自分が死にさえしなければ、きっと素晴らしい日になる。万全に備えよう。アリスは静かに目を閉じた。


 翌朝、アリスはきちんと黒装束を着て縁側に立ち、腰に手を当てて朝の空気と忍者物質とを吸い込んだ。冬の足音が近づく季節だ。この国は温暖な方ではあるが、朝の空気は冷たくて頭がすっきりする。やはり、冬はつとめて。然り、然り。

 アリスが準備運動がてら屈伸運動をしていると、庭の方から子どもたちがやってきた。アリスは縁側に膝をついて彼らと目線を合わせた。


朝陽あさひ壮一そういち飛竜ひりゅう。おはよう。早起きだね」

「アリス、初任務、気をつけてね」

 朝陽はアリスの手を握った。彼女が手を離すと、アリスの手には不思議な包みが握らされていた。

「これ、芙美ふみ先生に教わって、三人で作ったの」

「そうなの? ありがとう! 何を作ってくれたの?」

 アリスがそれぞれの顔を見ると、壮一はフンとそっぽを向いてしまい、飛竜は無反応でぼーっとしていた。

「それね、毒草を使った煙玉。投げつけると時間稼ぎになるし、敵はお口とお尻が大変なことになる」

「ああ、例の……」

「自分で吸い込まないように気をつけて」

「それはもう全力で気をつける。三人とも、本当にありがとう」


 アリスは包みを懐に仕舞った。その時、裏口から「オーイ」と声がした。見ると、生垣の向こうから海明かいめいが顔を出していた。


「初任務だって? 頑張れよ」

「海明? わざわざここまで来てくれたんだ」

「弟子の門出を見送ろうと思ってな。ま、あまり気負わずやるこった」

「うん!」


 アリスはすっくと立ち上がり、縁側の上で仁王立ちになり、腰に手を当てた。


「みんなサンキュー! 私、頑張って来るよ」

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