二ノ巻 ユニーク・ニンジャ・トレーニング

第6話 寺子屋忍者科

 

 忍者の国には教育機関として寺子屋なるものがあり、忍者になりたい者は普通科ではなく忍者科に進むそうである。

 複数ある忍者科の内、首都・成宮京の東の端に存在するのが、ここ「場殿塾ばでんじゅく」だった。何でもその名は、伝説的に逃げ上手だった忍者、場殿遁兵衛ばでんとんべえが由来らしい。


 アリスは大哉だいやに道案内の礼を言い、彼の背中を見送ると、木造の小さな寮の部屋の前に立った。

 鍵を開けて戸を引く。電気を点けると、狭くて小綺麗な和室が目に飛び込んできた。ちゃぶ台と座布団が用意されている。押し入れの中には蒲団もあるし、庭と森を望めるガラス窓を開ければ、縁側までついていた。

 台所と風呂とトイレなどは共用である。少しお茶でも飲んで休憩したい時には部屋を出なければならないが、先程ちらりと見た限りでは、食器類は充実していたし、緑茶だけでなく紅茶やコーヒー、各種菓子類なども用意されているようだった。

 アリスが台所に立ち、プラスチック包装の煎餅をしげしげと見つめていると、背後から声がかかった。


「それね、こっちが塩煎餅で、こっちが醤油煎餅」

「へ?」

 振り返ると、そこには黒装束の中年女性が音も無く立っていた。ふわりとしたボブヘアに、うっすらと刻まれた親切そうな笑い皺が何ともプリティーである。

「あ、こんにちは。アリスです」

「初めまして、アリス。話は聞いているよ。私はここの教師をしている、針尾芙美はりおふみ

「針を踏み? それって絵踏みの亜種?」

「いや、名前。針尾、芙美」

「ああ、なるほど。勘違いしちゃった!」

「まあ、好きな風に呼んでおくれ。よろしく」


 芙美はそれぞれの煎餅を二枚ずつアリスに差し出した。


「ここは子どもらばかりだから、甘い菓子はすぐ減るんだが、煎餅はなかなかね」

「そうなんだ……というか、子どもたちが多いんですか? 知らなかった。私が入れるところなら、てっきり高校や大学みたいなものかと」

「子どもの頃から鍛える人がほとんどだからね。だがあんたの歳でも全く問題ないよ。ここ忍者の国では、日本の役に立つことと引き換えに、国の存続と自治が認められている。だから日本とは違う教育システムも実践可能なのさ。何歳だろうが無料で寺子屋に入って勉強ができるってのも、その一つだね」

「へえ」


 そう言えば今朝、木の上から蹴りを食らわそうとした見習い忍者も、小さな少年であった。皆、幼少期から頑張っているのだろう。


「さてさて。まだ少し、午後の訓練の時間が残っている」

 芙美は言った。

「えっ、でももう、こんな時間なのに」

「忍者の修行は厳しいからね。ついでだし、見て行くかい?」

「いいの? じゃあ見学したいな」

「それじゃ、先に教室へお行き。そっちの廊下の突き当たりを右だよ」

「ありがとう!」


 アリスは煎餅を懐に仕舞うと、芙美の言う通りに教室へ向かった。

 角を曲がる直前になって、誰かの強烈な奇声が聞こえた。


「ウギィ──ッ!!」


 何事かとアリスが耳を澄ませると、何やら教室の方で、ドッタンバッタン大騒ぎが繰り広げられているらしき音がし始めた。アリスは駆け足で教室に飛び込んだ。

 そこには、十歳前後と思しき三人の子どもがいた。全員、赤茶色の装束姿である。うち、肩辺りまでのストレートヘアの女の子一人と、ツンツンしたヘアスタイルの男の子一人が、取っ組み合いの喧嘩をしていた。板張りの床に机や椅子が引っくり返り、文房具が雑然と散らばり、目も当てられない惨状である。


「ウギィッ! この冷血漢ッ! 謝れ! ひれ伏せ! 土下座しろッ!」

「やーなこった! 誰がそんなことするか! お前が偉そうにすんのが悪いんだろ? 自業自得だ! 因果応報だ!」

「どう考えてもあんたのやり過ぎなんだよ! 取り返しのつかないことをしやがって! 因果応報だァ? そう言うならあんたも大事なものを三つ差し出せ!」

「俺にはそんなもん無ェから無理でーす。バーカバーカ」

「いいや私がむしり取ってやる! つべこべ言わずにとっととその小便臭いパンツを下ろしな! 股間からきっちり三つ捥ぎ取る!」

「はあぁ!? ざっけんなクソ女! だいたいお前なんかに俺の服が剥がせるかよ!」

「黙らっしゃい! 何が何でも曝け出させてやる! 血祭りじゃア覚悟しろ!」


 二人は顔をトマトみたいに真っ赤にして、相手の髪やら装束やらを引っ掴んでジタバタ暴れ回っている。アリスは急いで待ったをかけた。


「やめなさーい! 喧嘩は駄目だよ!」

「あ?」

「ん? 誰?」


 二人は怪訝な顔でアリスを見た。その隙にアリスは二人の間に割って入り、二人の襟首を掴んで引き離した。


「落ち着きなよ。何があったの?」

 アリスの質問に、女の子の方が我先にと答えた。

「こいつが……壮一そういちが、私がここで飼ってたダンゴムシを逃がしちゃったの! せっかく虫かごに入れて大事に育ててたのに!」

 思ったよりも深刻そうな問題が出てきた。しかし壮一も負けじと反論する。

「だってよ、こいつがいっつも横暴なのが悪いんだよ! 俺の給食の唐揚げを、徴税だの何だのとほざいて、あっという間に全部食いやがった!」

 それはそれで子どもにとっては一大事だろうと思われた。食べ物の恨みは恐ろしいのだ。

「だからって人の大事な家族を奪うなんて、極悪非道すぎる!」

 女の子は大声で主張すると、土と枯葉が入った虫籠をひしと抱きしめた。

「うわあああん!! 私のあおいちゃん明石あかしちゃん六条ろくじょうちゃん!! いなくなっちゃった……あんなに可愛かったのに!!」

 それから彼女はギロリと壮一を睨み付けた。

「あんたは私を怒らせた……絶対に許さない……不敬罪で呪い殺してやる……!!」

「お前にその権限は無えだろ」

「あるもん! いずれ手に入るもん! そしたら真っ先にあんたを処刑するから!」


 うん? とアリスは女の子を見下ろした。


「もしかしてあなた、将軍家と関わりがあるの?」

「当たり前でしょ!」

 女の子がアリスをキッと睨んだ。

「私の名前は徳川朝陽とくがわあさひ! 母上の一人娘にして、忍者の国の次期将軍だよ!」

「エッ、上様の実の娘?」

「そう!」

「それが、どうして忍者科に……?」

「どうしてって、そういうものだもん。母上も忍者で、黒い魔女と呼ばれるくらいの実力派くのいちだよ。知らないの?」


 忍者の……将軍! アリスはたまげた。まさかあのお上品で優しそうな上様が、バリバリの現役忍者だったとは。確かに、御庭番の頭領を名乗ってはいたが、名目上の役職だとばかり思っていた。


「けっ。いくら血筋が良かろうが、本人が落ちこぼれてちゃ話にならねぇよ」

 壮一は、頭髪だけでなく発言までもがヤマアラシの如くツンツンと尖った子のようだった。そして如何にも勝気そうな顔つきの朝陽は、すぐに噛みつき返す。

「あんたみたいな小物に言われたくないんだけど!」

「うるせえ! とにかくお前はただの三下! これでも食らえ! ハイヤーッ!!」


 壮一が振り上げた拳を、アリスは横から手を出してパシッと受け止めた。壮一は目を見開いてこちらを見たが、アリスはとあることに気が付いていた。


「もしかして……。その声は、さっき淳奈じゅんなに奇襲を仕掛けてきた、忍者見習いの少年では!?」

「え? あ、アンタ、淳奈さんと一緒にいた余所者か?」

「如何にも」

「だからか! 何かやたら目立つ頭してやがると思った!」

「えへへ、そうかな。私、今日からここで学ぶことになったんだよ。よろしく。気軽にアリスって呼んでね」

「……」


 壮一は何故か考え込んでしまったようだ。何だかんだ朝陽も落ち着いたようなので、喧嘩は無事にお流れとなった。


 そこで、アリスはもう一人の男の子、我関せずを貫いて椅子に座ってボンヤリしている子に目をやった。彼は、これだけの騒動があっても全く気にした様子がなく、どこか遠くを見つめている。くるくると丸まった頭髪が印象的だ。彼の机の上には、『蒟蒻こんにゃく物語集』だの『土左日記どざにっき』だの『南総里見抜剣伝なんそうさとみばっけんでん』だの、不可解な題名の本が積み重なっている。


「ねえ壮一、あの子は──」

 アリスが言いかけた時、ひゅうぱちっ、と鋭い音がした。

 いつの間にか教壇に、短い鞭を携えた芙美が立っていた。

 やんちゃな二人は慌てて机と椅子を立て直し、散らばった文具をかき集めて席についた。アリスもその辺から小さな椅子を取ってきて座った。


「さあ最後のコマだよ。気張りな! 人も増えたし、出欠確認。垣倉かきくら壮一!」

「はい」

立花飛竜たちばなひりゅう!」

「はい……」

「徳川朝陽!」

「はいっ」

「アリス・リースマン!」

「はい!」

「よろしい。ではさっそく稽古だ。今からやるのは実戦形式の戦闘訓練だよ。机を寄せな!」


 バタバタと、生徒たちは教室の机と椅子を壁際に持って行った。アリスもそれに倣ったが、内心、あの親切そうな芙美が、スパルタの兵士もびっくりの厳しい声で檄を飛ばしたことに衝撃を受けていた。


「では始めるぞ。ルールほとんど無用の忍術バトル、用意……始めッ!!」

 その瞬間、芙美と朝陽と壮一と飛竜の姿が消えた。アリスはいささか狼狽したが、すぐに頭を切り替えた。どうやら今は、この狭い室内で出来る範囲の攻防を繰り広げなければならないようだ。アリスは深呼吸し、油断なく周囲の動きに目を配った。


「来たッ」


 アリスは咄嗟に大きく一歩退いた。またしてもアリスに蹴りをお見舞いできなかった壮一が、悔しそうな顔で飛び退るのが見えた。間髪入れず、背後からの気配を察知したアリスはサッと身を屈める。丁度、朝陽が後頭部に拳を叩き込もうと飛び込んできた所だった。朝陽はすぐ体勢を立て直し、芙美へと攻撃対象を変更する。束の間の安全、しかしアリスの勘が正しければ、もう一人、飛竜と呼ばれたあのボンヤリ君が、どこかに居るはずで──。


「うわらばっ」


 気付けばアリスは宙を舞っていた。遅れて、何が起こったのかの理解が追いつく。たった今、飛竜がアリスの背中に頭突きをかまし、教室の真ん中までぶっ飛ばしたのだ。これはまずい、落っこちたところを四方八方から狙われて蜂の巣にされてしまう。アリスの脳内を、回避のための幾つものパターンが駆け巡った。だが駄目だ、そう上手く動けるほどアリスの実力はまだ高くない。


 しかし着地の前、コンマ一秒でアリスは状況を把握した。まだ朝陽と壮一がボコスカやり合っていて、こちらに来る余裕はなさそうだ。アリスが対処すべきは、飛竜と芙美だけに絞られる。これなら辛うじて捌けるかも知れない。


 アリスは、着地を待たずして鞭を繰り出そうとする芙美の動きを読んでそちらへ手を伸ばし、芙美の右腕を掴んで強引に軌道を逸らした。後は着地の瞬間を狙ってくるはずの飛竜に思いっきり蹴りを食らわせるのみ。充分に身構えておけば行ける──!


 しかしアリスは、床に足がつくや否や、壁まで飛ばされて背中を強打していた。胸の上あたりが痛いので、そこに攻撃を受けたのは確かだが、ちっとも見えなかった。アリスはドテンと床に尻をつき、教室を見渡した。教室の真ん中には、拳を突き出した格好の飛竜が立っていた。

 朝陽と壮一はまだ殴り合っている。芙美は容赦なくそっちに飛び込む。飛竜はアリスの元まで歩み寄り、手を差し伸べた。


「……大丈夫……?」

 可愛らしい声で問われる。

「あ、うん。ありがとう」

 普通に立ち上がることは可能だったが、飛竜の優しさに応えるため、アリスは彼の手を取った。

「飛竜、強いんだね」

「……まあ……うん」

「私はちゃんとした修行もしたことないし、全然うまく戦えないな……。んん?」


 アリスは懐の中身に何やら違和感を覚えた。手を突っ込んで中身を引っ張り出してみると、さっきもらった煎餅が四枚とも、見事に粉砕されて粉微塵になっていた。

「私の煎餅……」

 思わずショボンとしてしまったアリスを、飛竜は感情の読み取れない瞳で見上げた。

「そしたらそれ、僕が食べるから、アリスは新しいお煎餅を取って来なよ」

「え、いや、子どもにそこまで気を遣わせる訳にはいかないよ」

「ここでは誰でも一人の生徒。そっちこそ、変な気遣いは要らないから。それ砕いちゃったの僕だし。ほら」

「……そっか。ありがとう」


 飛竜は黙って煎餅の亡骸を受け取り、アリスに背を向けて歩み去った。そこにまたしても、ひゅうぱちっ、と鞭の音がした。

「やめ! 休憩! しっかり休みな」

 芙美は言うと、自分も床に腰を下ろした。

 そして三分後、訓練を再開した。

 この流れを五回ほど繰り返したアリスは、すっかりくたびれてしまった。休憩を挟むことでインターバルトレーニングのようになってしまっており、逆にきつい。アリスがまるで温めたウナギのゼリー寄せのゼリー部分の如くぐったりとして座り込んでいる傍らで、芙美は電灯を破壊してしまった子どもたちを叱りつけている。


「コラァ! 訓練中に物を壊すんじゃないよ! 慎重に行動できてこその忍者だっていっつも言ってるだろーが! あんまり言うことを聞かないと、しまっちゃうからね」

 その言葉に、朝陽も、壮一も、飛竜までも、すっかり凍りついた。

「しまっちゃう?」

 アリスは意味がよく分からず、顔を上げた。芙美は鞭をひゅうぱちっと鳴らした。

「そうだ。私の忍法・収納の術で、暗いところにずーっと一人で閉じ込めちゃうからね」

「どこ……?」

「それは秘密だね」

「えええ……」

 子どもら三人があまりにも青ざめているので、アリスはますます分からなくなった。

「それは……懐にものをしまうのとは違うの?」

「全然違う」

 朝陽は小声で答えた。

「だってあれは……滅茶苦茶怖いもん……」

「俺も……しまわれるのはちょっと勘弁だぜ……」

「……僕も嫌だ」

「そんなに……」

「分かったら二度と物を壊すんじゃないよ!」

「はいッ」

 アリスたち生徒四人は声を揃えてお返事をしたのだった。


 これにて訓練は終了し、子どもたちはわらわらと教室を出て行った。アリスは台所で改めて煎餅をゲットすると、緑茶を淹れて部屋に戻り、お盆を縁側に置いて座り込んだ。流石に疲れが溜まっていた。そこで、スターゲイジーパイにされたイワシのような心持ちで、ぼーっと夜の空を眺めつつ、これからどうやって過ごすべきかなどの取り留めもないことを考えていると、外から何やら歌が聞こえてきた。


「私は小さな一人娘 寺子屋帰りの元気な子 楽しいことでいっぱいの 寺子屋帰りの女の子」


 朝陽だ。さっき芙美に対してビビり散らかしていたことなど綺麗に忘れ去ったようで、ご機嫌そうに庭の土をいじっている。


「朝陽、何してるの。もうこんな時間だよ」

「あ、アリスだ。見て、これね、桐壺きりつぼちゃん」


 朝陽は駆け寄ってきて、左手の上のものをアリスに見せた。

 土だらけの小さな手に、鼠色の丸い虫がじっと転がっていた。


「桐壺ちゃん」

「みんないなくなっちゃったから……新しい子を探してきたの」

「そっか」

「こっちは毒草」

 朝陽は右手のものを見せた。

「毒草!?」

「今から煎じて、壮一の野郎の朝ごはんに仕込むの」

「だめだよ!?」

「いいの。これは奇襲なの」

「いや、毒殺では……?」

「違うもん。これは殺せないやつだもん。口からも尻からも色んな汁が一日中出まくってトイレから出られなくなる効果しかないんだもん。まあ、これくらいの罠を見破れない野郎なら、死んだ方がましだけどね」

「そんなことはないと思うけどなあ!?」

「とにかく、奇襲は正当な攻撃なんだから、念入りに準備するの。じゃあね!」

「……うん……」


 アリスは言いようのない不安を胸に、手に持った塩煎餅を見つめた。

 これ、毒入りじゃないよね? 塩に混じって毒の粉とかまぶされてないよね? まさかね? あはは……。

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