第5話 仕立屋の仕事人

 仕立屋は、成宮京の南の端の方に位置する、大納言だいなごん横丁に建っていた。大哉だいやがそこまでアリスを案内してくれた。

 日が落ちて辺りは暗いが、首都なだけあって、街明かりが煌々と道を照らしている。


「大納言って、平安時代とかの日本の公家くげの称号でしょ? 何で武家の将軍である上様がいらっしゃる都に、そんな名前の地域があるの?」

「やたら詳しいな」

「そう? まあ私は天才で万能だからね」

「そうなのか」

「そうなんだよ」

「……その昔、伝説のくのいちがいたらしい。当時はこの国にも将軍はいなかったが、その頃から忍者はあちらの世界で暗躍していた。そのくのいちは、宮仕えをする傍らで、貴族たちの間諜をやっていたそうだ。本名は伝わっていないが、彼女は大納言に就任した父の須賀川依久すかがわのよりひさにちなんで、須賀川大納言娘すかがわのだいなごんのむすめと名乗っていた。その人が由来だ」

「なるほど〜」


 アリスたちは古めかしい木造の建物の前に辿り着いた。地味な造りだが、何とも言えない趣がある。「仕立屋松戸まつど」という手書きの筆文字が丁寧に記された看板が、入り口に掲げられている。

 大哉は引き戸を開けて、店の中に声をかけた。


「遅くにすまない。邪魔するぞ、絹枝きぬえ

 すると、すぐに女性の声が店の奥から聞こえた。

「はあい。ちょっと今、手が離せないから、勝手に上がって頂戴な」

「承知した」


 アリスはまたしてもブーツとコートを脱ぎ、大哉に続いて店内に踏み入った。

 部屋の奥で、若い女性がせっせと手を動かして、黒い布を縫い上げていた。作業机と思しき木製の台の上には、何故か日本酒の瓶が五つほど置いてある。

 それより何よりアリスの目を引いたのは、手前の畳の上で、もう少し歳の若い黒装束の女性が、直立不動の姿勢で、うつ伏せになって倒れているところだった。彼女の隣には、円柱に似た形の暖房器具が焚かれていたので、熱すぎやしないかとアリスは心配になった。


「ああ、大哉ちゃん。事情はさっき別の大哉ちゃんから聞いたよ。大変なことになったみたいだねえ」

 絹枝が手を止めずにこちらを見て言った。

「ああ、そうだな」

「その子がアリスちゃん?」

「はいっ、アリス・リースマンと言います! 初めまして」

「初めまして、松戸絹枝です。ここで仕立屋をしているの」


 穏やかで落ち着いた声だった。アリスは何となく、故郷の国にある湖水地方を連想した。清き湖とそれを取り巻く緑の丘──そんなな悠然とした景色を。

 彼女は無造作に一つにまとめた癖っ毛を背中に払い、再び黒い布を縫い出した。


「ちょっとだけ待ってね、アリスちゃん。たった今、黒装束を取りに来てくれた弥生やよいちゃんがね、最後の仕上げの微調整をしている途中で、急に眠ってしまったの」


 アリスは倒れている女の子を見下ろした。これは眠っているのか。こんな所で。どうして……。


「よし、こんなものかな」

 絹枝は糸を結んで切ってしまうと、出来上がった品の完成度を確かめるため、くるくると色んな角度から見回した。


「よしよし。そうしたら、次はアリスちゃんの番ね。採寸したいから、そこに立ってもらってもいいかな」

「分かった!」


 アリスが作業机の前でピシリと姿勢を正すと、絹枝は巻尺と物差しを持ってサッサとアリスの体格を測り、すぐに定位置に戻った。


「ありがとう、もういいよ。ちゃちゃっと縫っちゃうね。布はこれ。見習いは赤茶色の装束なの」

「へえ!」

「ちょっと時間がかかるから、三十分後にまた来てちょうだいな」

「三十分で縫い上がるの!?」

「まあ、私も忍者だから……それに終業時間も近いの」

「そっか」


 絹枝は以後、一切口を利かずに、高速回転させられている手回し絡繰人形の如く、正確かつ目まぐるしい動きで装束を作り始めた。店内で聞こえるのは、絹枝が凄まじい速度で布を切る音と、弥生の寝息だけだ。


「少し出歩くか」

 大哉はぼそっと言った。

「成宮京を見て回っても、損は無いだろう。三十分ではとても回り切れないが」

「やったあ! ありがとう、大哉」


 親切な人が付き添ってくれて本当に良かった。アリスは大哉の後について町に出た。大哉はどこに行くか決めかねているようで、しばし左右を見ながら考えていたが、急にこう質問した。


「アリス。腹は減っているか」

「ん? んー……ちょっとだけ。もらった兵糧丸も一部吐き戻しちゃったし」

「そうか。ならば蕎麦屋に寄る。晩飯を食おう」

「わあい」


 蕎麦を食べたことはないから楽しみだ。アリスは浮き足立って大哉に続いた。

 碁盤の目のように直角に交わる道を進んで行った先、商店街のようになった「巨影市きょえいいち」の中にその店はあった。紺色の暖簾のれんが下がった店の入り口には、「魔駄内まだない」と銘打っていた。


「あれはどういう意味?」

「店主が……店の名前を思いつかなかったそうだ」

「何それ」

「名前は魔駄内、と」


 ここではブーツを脱がなくて良いようだ。席につき、アリスはお品書きを食い入るように見つめていたが、大哉の勧めに従って、温かいきつね蕎麦なるものを注文することにした。程なくして、湯気を上げながら白い器に入っている蕎麦が運ばれてきた。

 アリスは見様見真似で箸を取り、いささか不恰好ながらも熱々の蕎麦を口にした。大哉は何の苦労もなく器用に箸を操り、豪快にすすっている。日本人は麺を食べる時に音を立てると聞いていたが、本当らしい。


「その、音を立てて食べるの、どうやるの?」

「どう……? これは、空気と一緒に吸い込んでいる……のか? 自覚的にやっていないので分からない」


 アリスは実行しようと試みたが、蕎麦を箸で引っ掛けても大半がつゆの中に落ちてしまうし、何とか口に持って行っても大きな音はしない。


「難しい」

「フォークか何かを持ってきてもらうか」

「いや、いいよ。私は箸だろうが食べ方だろうが、きっちり習得してみせる」

「そうか」


 その後アリスは悪戦苦闘しつつ、大哉の手元を凝視して己の指使いを細かく修正し、食べ終わる頃にはちゃんと使いこなせるようになっていた。最後の一口ではちゃんと蕎麦をすすることもやってのけた。大哉はやや目を瞠った。


「本当にこの短時間で身に付けるとは」

「ふふん。恐れ入った?」

「少しばかり見直した……」

「ふふーん!」


 アリスは鼻高々であった。そして蕎麦もとても旨かった。さてお会計というところになって、アリスは己が文無しなことに気が付いた。そんなアリスの鼻先に、芥子からし色の巾着袋が突き付けられた。


「上様からこれだけ頂いたから、使え」


 中を見ると、紙幣と硬貨がいくばくか入っていた。


「日本円だね」

「忍者の国は一応、日本の管轄だからな」

 アリスはざっと額を数え、頭の中でイギリスポンドに置き換えてみた。

「すごい……。こんなに頂けるなんて。上様にお礼を言わなくちゃ」

「アリスはありとあらゆる例外的な措置を適用して頂いているから、上様には常に感謝するべきだ」

「そうする」


 さて、アリスが自分の会計を済ませて店を出ようとすると、どこからか「フヮーン」と、切なくなるようなみやびな和音が聞こえてきた。この音色は、大学の研究室にあるCDの一つに収録されていた、雅楽なる民俗音楽とよく似ている。アリスは急いで店を出た。


「大哉、この音は何?」

雨之埋芽あめのうずめだ」


 アリスは瞬きをした。


「それって、『古事記』に出てくる女神様?」

「本当によく知っているな」

「だよね? 素っ裸で踊り狂って乱痴気騒ぎを起こして世界を救った、天宇受賣命アメノウズメノミコト。芸能を司る女神」

「まあ、概ねそうだ」

「つまりあっちには、素っ裸の女神様がいるの!? ミロのヴィーナスよりもセンシティヴな御姿の!?」

「いない。ただこの国には、かの女神の名を冠して舞台をやる芸能団体がある。今ちょうど何か始めたのだろう」

「へえー! 見に行っていい?」

「構わない」


 アリスは音がする方へと駆け出した。一つ向こうの通りに出ると、そこにはもうかなりの人だかりができてきた。アリスは背伸びをして舞台を垣間見ることとなった。

 薄暗かったはずの通りは、色とりどりの電灯で照らされて、華やかな舞台と化していた。

 道の向こう側のわきには、しょうという、竹を縦にして円状に組み合わせた吹奏楽器を吹いている者がいる。さっきの和音の正体はこの楽器だ。それに加え、葦の管を歌口に用いる小さな縦笛である篳篥ひちりきと、広い音域を自在に行き来できる横笛の龍笛りゅうてき、豊かな彩りを加える弦楽器の琵琶びわこと、細いばちで叩く太鼓に、肩に掲げて手で打つつづみ、などが今回の楽器編成であるようだった。これらを奏でる人々は皆、揃いの藍色の着物を纏っていた。

 彼らが織りなす音楽に、しゃらりときらめきを乗せるのが、舞姫の持つ神楽鈴。彼女はスポットライトで光り輝くステージの真ん中で一人、時にはたおやかにゆるやかに舞い、時には風のように川のように流麗な舞を見せる。そして白と朱の袴の袖を自在に振りつつ、手首を傾けて鈴の房を鳴らすのだ。

 指先一つの動きにさえ微塵のズレもない奏者と舞手の神々しいパフォーマンス。どことなくサイケデリックな光と音と踊りのコラボレーション。

 アリスは息も忘れて見入った。気付くと演目は終わっており、アリスは周りの見物客と一緒に盛大な拍手を送った。


「すごくゴージャスなショーだったね! 感動しちゃった」

「……。本来、雨之埋芽は、仕事ができない者たちへの救済措置として組織された……。病気や障害などで働けず、兵糧丸でも回復が見込めない者が所属していたんだが、彼らの技術が優れているために、今では多くの者が憧れる存在となった」

「へー! 良いねそういうの。古代ローマの剣闘士みたい」

「確か今の舞手は心身が虚弱で……あの演目は彼女が元気な日を狙ってやるそうだから、不定期公演になっている。こうして見られるのは運が良い」

「へえ、レアだったんだ」

「……見物客は投げ銭をするのがしきたりだ。そこにある賽銭箱に任意の金額を入れる」


 チップと同じ感覚だろうか。大哉が自分で賽銭箱に近付き、手本を見せてくれたので、アリスもそれに倣って五千円札を差し込んだ。


「……そんなに使うと後がなくなるぞ」

「良いと思ったものには惜しみなくお金を出すのがエチケットでしょ」

「まあ、何でも良いが……そろそろ時間だ。戻ろう」

「ラジャー」


 何だかんだ、立ち止まって舞台を見ていたので、蕎麦で温まった体もすっかり冷えてしまった。服の完成品を見るのが楽しみな気持ちと、早く暖房に当たりたい気分から、アリスは早足で仕立屋に戻った。


「絹枝、戻ったよ」

「おかえり、アリスちゃん、大哉ちゃん」


 絹枝は手を動かし続けながらふわっと笑った。

 畳の上では、まだ弥生が寝こけていた。


「一着分は完成したから、試着してみてちょうだいな。そこに衝立ついたてがあるの」

「ありがとう」

「アリスちゃんは和服を着るのは初めて?」

「うん」

「それなら私が教えましょう。さあ、こちらへ」


 絹枝は赤茶色の装束を持ってアリスを衝立の裏に連れて行った。そこで和服の着方の手ほどきを受けたアリスは、うきうきしながら衝立の陰から出て、全身鏡の前に立った。

 長い金髪を隠した頭巾。機動性に優れた上衣。細い帯。少しゆったりめの穿き物と、きゅっと足首を固定してくれる足袋。いずれも、赤茶色。


「キャー!!」

 アリスは感激し、青い目をきらきらと輝かせて鏡に見入った。

「私っ、忍者見習いになってる! どう? 似合ってる!?」

「すごく似合ってるよ。私の目に狂いは無かったみたい」

「アンビリーバボーッ!! 夢が半分叶ったよ! 絹枝、ありがとう!」

「どういたしまして。じゃあ、その装束のちょっと特殊な機能について説明するよ」

「お願いします!」


 絹枝はアリスの前に立つと、己の黒装束を指し示しながら、指導をしてくれた。

「懐が特別仕様なの。少し空間を拡張してあって。貴重品を入れておく時とか、大きめの道具を持ち運ぶ時とか、咄嗟に物を出したい時とかに便利。例えば」

 絹枝は己の懐に手を突っ込むと、焼酎の大瓶を二本も取り出した。それから、四つの刃のついた手裏剣と、黒く光る尖った苦無くないまで。シルクハットから大量の鳩を出すような手品めいた現象に、アリスは驚嘆した。


「すごい。それは絹枝の忍法で作ったの?」

「ううん、忍法じゃないよ。これは忍術の応用。世界を繋ぐ穴を作る技術と同じ仕組みなの」

「ほえー、なるほど」

「それから帯。細めに裁断してあるから結び易いはず。それと左腰には短刀を挟んでね。ここに、研いである刀が余っているから、あげちゃう。どうしても接近戦が必要になる場合に備えて、ちゃんと殺傷能力のある武器も携帯しないとだめだよ」

「殺傷……」


 アリスははっと我に返った。

 そう、忍者をやるなら命のやり取りをする可能性もある。アリスにはまだその覚悟は決まっていないし、そもそも修行をしたら帰らなければならないから、何かしらの任務を引き受けて戦闘に巻き込まれることは無いだろうけれど。

 アリスが考え込んでいると、足元で「ふにゃ」と寝ぼけた声がした。

 見ると、弥生がロングヘアをさらりと揺らして、目をこすりながら起き上がっていた。


「弥生ちゃん、おはよう。何か見てたの?」

 弥生はこくこくと頷き、ふわあと欠伸をした。

「ええ。そろそろチェコスロヴァキアも動くみたい。他の国はまだよく見えなかったのだけれど、特に心配なのはユーゴスラヴィアかしら……? 何にせよ東欧はもう瓦解するわね」

 のんびりとした、どこか気品のある話し方だった。

 弥生はのろのろとアリスの方を見て、「こんにちは」と言った。

「コンニチワ。アリス・リースマンです。イギリスから来ました」

「ふぅん……。私は山名やまな弥生。それで、どなたか、カモミールティーを持っていないかしら。今、茶葉をちょうど切らしてしまっているの」

「カモミールティー?」

「ええ、そうよ。忍法を使って具合が悪くなったら、カモミールティーを一杯頂くのが一番だもの」


 緑茶や抹茶や焙じ茶ではないんだなとアリスは思った。絹枝は困った表情をした。


「ごめんなさいね、うちには置いていないの。いつものように、珠紀たまきちゃんに聞くのが良いと思うよ。その前にひとまず、回復用の兵糧丸を食べてみたら?」

「そうするわ……あら、兵糧丸まで手持ちがないじゃないの……どっちにしろ、珠紀さんのところに行かなきゃだめね……」

「そう……。歩けるの?」

「うぅ、頑張るわ。お邪魔しました」

「注文の品は私が郵送しておきましょうか」

「そうして……。ありがとう」


 弥生はふらふらと仕立屋を出て行った。彼女を見送ったアリスは、首を傾げた。


「弥生の忍法って、予知夢みたいなものなの?」

「ご名答。あの子は本当に頼りになるの。今朝のベルリンの壁の崩壊のことも、一週間前には予見してたくらい」

「ウッソ!? あれを予測できてた人がいたんだ!?」


 一夜にして世界中を震撼させた、原因不明の大事件。天地がひっくり返ったような大騒ぎであった。あの、決して変わることは無いだろうと信じられてきた、世界的対立であるこの冷戦を象徴する建造物が、押し寄せた民衆によって有名無実と化した。今朝にはもう、壁の取り壊しが同時多発的に起こっていたはずである。それでオックスフォード大学でも、学生たちが騒がしかったのだ。

 誰も予測し得なかったであろうこの事件を予見するなど並大抵のことではない。アリスは心底驚いたが、絹枝は当然といった様子で頷き、さらりと話を流してしまった。


「さてアリスちゃん、装束もぴったりみたいだし、大丈夫ね。今日中にあと一着は作って寮に郵送するから、ひとまずはそれで活動して。正式に忍者になれたら、黒装束を作ってあげられるからね」


 絹枝から、下着類なども含めた諸々を受け取ったアリスは、この世界にしばらく留まることへの実感がようやく湧き、複雑な気持ちになった。

 忍者の国はもちろん最高のパラダイスだが、早く大学に戻らないと研究が遅れるし、良い講義を受けるチャンスも逃してしまう。学費もかかっていることだし、時間を無駄にはできない。家族や友人も、いなくなったアリスを心配することだろう。

 早いところ、イギリスに帰らなくては。しかしやはり忍者の国にいられる経験もまた得難いもので……。うぬぬ、心が二つある。


 ジレンマを抱えて悶々としながら、アリスは仕立屋松戸を辞し、大哉の案内で歩き出した。先刻まで晴れ渡っていた空には、いつの間にやら、羊の群れを思わせる巻積雲けんせきうんが広がっており、その向こうの月明かりはどこか所在なさげにぼやけていた。

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