第4話 上様への拝謁
城の表に回ると、庭の一角には桜の木々が小さな森のように植わっており、紅くなった葉をはらはらと散らしていた。春にこれらの花々が満開を迎えたら、下から見てみたいなとアリスは何となく思った。日本人は桜を異様に偏愛すると聞くから。
城の前には複数の忍者たちがいた。箒で落ち葉を掃いたり、庭木の松の剪定をしたり、雑草を引っこ抜いたりしていた。ここまで来てようやく、
「
知紗が呼ばわると、作業中の忍者の全員がこちらに顔を向けたので、アリスはいささかギョッとした。よく見ると彼らは、みんな同じ背丈をしているし、覆面の隙間から覗く目つきまでみんな同じだった。何だこれは。奇妙すぎる。
「お客さんを連れてきたよぉ。上がってもいい?」
「……いい」
一人が答えた。
「じゃ、お邪魔するねぇ」
知紗はアリスの背中をポンと叩いて、玄関らしき方へと
「平気平気ぃ。アリスのことは、さっきあたしが説明してきたから大丈夫! 多分ね」
「そうだったの? ありがとう」
アリスは、大哉と呼ばれた男と同じ顔をした忍者に案内されて、コートとブーツを脱いで城に上がった。知紗も今度は姿を消すことなくついてくる。
通された部屋は畳張りで、真ん中に座布団があった。大哉から、そこに正座をするようにと指示される。一方の知紗は壁際に座った。
向かいの部屋の奥の床は一段高くなっており、上等そうな座布団も置かれていて、如何にも偉い人専用といった風情である。
案の定、左手の襖がサッと開いて、豪奢な身なりの人物がしずしずと入室し、上座に腰を下ろした。
この人が、上様。
アリスは居住まいを正した。
金色と朱色の紋様に彩られた、重たそうな黒地の着物。優雅に結い上げられた黒髪には、鮮やかな彼岸花の花飾りと、銀杏の葉をかたどった煌めく
歳の頃は判然としないが、アリスより十ほど上だろうか。
知紗が丁寧に平伏したので、アリスも見よう見まねで畳に手をつき頭を下げた。
「
優しげな声で促され、アリスは恐る恐る顔を上げ、居住まいを正した。
「どうも、アリス・リースマンさん。
彼女はにこやかに言った。アリスはしゃちこばって挨拶を返す。
「コンニチワ。お初にお目にかかります、徳川心愛様」
言ってすぐ、違和感を覚えた。
「……ん? 徳川? って、あの徳川ですか? かつて将軍を務めていたという」
心愛は上品に頷いた。
「はい、その通りです。皆から聞いてはいませんでしたか?」
「あの……忍者たちの組織が御庭番だとは聞いていましたが、上様のお家柄までは知りませんでした」
「そうなのですね。では改めて。私が、御庭番の頭領にして、第二十一代将軍、徳川心愛です。──まあ、元を正せば分家なのですけどね」
そうは言っても由緒正しいお方なのには違いない。アリスは、恭敬の念が湧き起こると同時に、彼女のどこかチャーミングな話し振りに親しみを感じた。
心愛はにこにこしながら話を続ける。
「ともあれアリスさん、オックスフォードからはるばるようこそ。知紗から事情は聞いています。只今あなたの素性を、
すぐに、お盆を持った大哉が入室してきた。彼は心愛とアリスの前にお茶とお菓子を置いてくれた。アリスがつい気になって大哉の顔を凝視していると、心愛はフフッと笑った。
「彼の名は
分身! つまり彼らは全て同一人物ということか。一応納得した。しかし忍法とは何と摩訶不思議なものなのだろう。
大哉はぺこりとお辞儀をして、無言で退室して行った。
アリスは改めて、提供されたお茶とお菓子を見つめた。湯呑みに淹れられて湯気を立てているこの飲み物は、いわゆる緑茶というものだ。一方、小さなお皿に慎ましやかに載せられた三つの小さなものは、何なのか分からない。
これはどうすれば失礼に当たらないのかとアリスが目を泳がせたのを、心愛は目ざとく見ていた。
「それは落雁という、干菓子の一種です。手でお食べになって良いですよ。食べると少々口が渇きますから、お茶を飲みながら楽しんで下さいね」
なるほど、理に適っている。スコーンに紅茶を合わせるのと似た発想だ。
それにしても。
「……変わった形をしていますね」
「そうでしょう。一般的には花などをモチーフにしますが、これは今この国で流行している形なのですよ」
「流行……」
アリスは再度、三つの落雁に視線をやった。
一つ目は、薄水色のもの。
二つ目は、薄桃色のもの。
三つ目は、薄緑色のもの。
何故か全て、日本の伝統的な折り鶴の形をしている。しかも細部まで細かく再現されている。
「折り鶴に……光の三原色ですか?」
「いいえ。薄水色は、資本主義勢力。薄桃色は、共産主義勢力。薄緑色は、第三勢力。そして日本では折り鶴は平和の象徴です。即ちこれら全てを腹に収めれば、世界の全てが手に入り、世の中は平和になるということです」
「それは……変わった流行ですね」
「まあ仮に世界が一つになったところで、平和になるはずがありませんけれどね」
「えっ」
「さ、召し上がって下さいな。甘さ控えめで素朴な味がしますよ」
心愛がぱくんと落雁を口にしたので、アリスも水色の落雁をそっとつまんで口に入れてみた。
尖った形をしているが、噛むとぽろぽろと崩れて粉っぽくなる。甘さは控えめというより、もはやあるかなしかのレベルでしか感じ取れずにすぐ消えてしまい、後には主に粉の味が残る。若干の物足りなさを感じながら熱々のお茶を飲むと、たちまち口の中が潤い、深い芳香と仄かな渋味が感じられた。
主張の少ない甘味とお茶で一息ついて心を落ち着かせる。奥ゆかしい日本文化の伝統。つまり……。
「これが、ワサビ……!」
「落雁にワサビは使われていませんよ」
「間違えました。ワビサビです」
「ああ、侘び寂び。確かにそう言えますね」
心愛はまたふんわりと笑った。そこに、漆黒の風のように一人の忍者がやってきた。アリスと同じくらいの歳だろうか。彼は廊下で跪いたかと思うと、きりっとした表情の顔を上げて、張りのある声で言った。
「失礼します!」
「まあ、敬兎さん。早かったですね」
「滅相もないことにございます。それで、ご報告ですが」
「どうぞ、入って下さい」
「はっ!」
敬兎は素早く心愛の横まで飛んできて、ごにょごにょと何やら伝えた。心愛はうんうんと頷きながらこれを聞くと、すぐまたアリスに笑いかけた。
「敬兎さんによれば、あなたの経歴に怪しいところは見当たらないそうです」
「そうですか! 良かった」
「忍者による調査に間違いはありません。皆は絶対に正確な情報を掴んできてくれます。他の忍者などによる妨害でもない限り、失敗などしないのですよ。加えて
「ありがとうございます!」
アリスはすっかり感服してそう言った。忍者の能力は本当にすごいし、心愛が彼らを全面的に信頼しているのも好ましかった。
「さあ敬兎さん、もう大丈夫です。急な頼みにも応えてくれて感謝します。戻って下さいな」
「恐れ入ります。失礼しました!」
敬兎は再び疾風となって屋敷を退出した。
「ひとまずは私の権限で、あなたがこの国に住まうのを許可します。あなたのことは忍者見習いとして歓迎し、あなたが無事に帰れるよう支援しましょう。どうぞよろしくお願いします」
「本当にありがとうございます。助かります」
アリスは日本人を真似てぺこりとお辞儀をしてみせた。これで、まだこの夢のような場所に居られる。無事に
「では、折角ですから、この国のことを私から少し説明しましょう」
心愛は気前よくそう言って、忍者の国の基本的な仕組みを教えてくれた。
聞くと、忍者の国の住人たちの多くは忍者修行を少し行うが、本当に忍者となって働く者はさほど多くないと言う。大半は農業や漁業や工業などの仕事に従事することを選ぶそうだ。お陰様で、ほとんどのものは自給自足で補えるのだが、「あちらの世界」から輸入している品物も数多く存在するそうで、このために資金を入手する必要が出てくる。そこで、日本政府内部のごく一部の人間から心愛が仕事の依頼を受けて、それを元に心愛が忍者たちに任務を与え、報酬として日本政府から日本円を得ているのだった。
なお、忍者修行に欠かせないのが、この忍者の国の空気に含まれている「忍者物質」なるものを取り込むことであるそうだ。それが無くともある程度の修練は可能だが、どうしても術が不完全になる。アリスがちゃんとした忍者になれていないのも、この辺りが原因の一端である可能性が高いと、心愛は言った。
「なるほど」
「では次に、忍者の国に住まう上で一番大切な掟をお伝えしましょう」
アリスは姿勢を正した。忍者の国の掟──何だか厳格そうな予感がする。しかし心愛はこう言った。
「とは言っても別に、大した決まりなどはありません。無闇に殺すな、物を盗むな、目には目を、程度の当たり前のルールを守ってさえ頂ければと。皆、好き勝手やっていますし、抜け忍もそれなりにいるのですよ」
「抜け忍が……? 意外です。忍者を辞めたら、始末されてしまうものかと」
「いえいえ、そんなことはありませんよ。もちろんこちらとしては痛手ですが……。例えば私が生まれる前などは、
「へぇ……」
「さて、そんな忍者の国で私がお願いするのは一つだけ。それはあなた自身が幸福であることです」
「幸福?」
「生きたいように生きて下さい。望むもののために行動して下さい。幸せを追求して下さい。眠り、起き、そこそこ働き、お友達などを作ったりしながら、健やかに生きて下さい。それが私の願いです。将軍は、国民たちが自由に人生を謳歌するために存在しています」
アリスはうっかり、まじまじと心愛を見つめてしまった。燦然と輝かんばかりの人徳、天使の如き善良なお人柄。このような為政者は、会ったことも見たことも聞いたこともない。
しかし心愛はやや暗い表情になり、こんな自虐を言った。
「……矛盾は承知の上です。私は忍者たちを危険に晒す仕事をいくつも与えています。時には暗殺や戦闘まで……。でも、だからこそ皆さんには、人の心を忘れず、幸せな人生を諦めず、少しでも日々を楽しく生きて欲しいのです。……アリスさん。あなたは今、幸福ですか?」
アリスは力強く頷いた。
「はい、疑いようもなく幸福です。忍者になれるなんて、ワクワクします!」
「そう、それなら良かったです。では、私からは以上です。早速、今日できることを終わらせて頂きましょう」
そう言って心愛は、大哉を呼ばわった。
「大哉さん。アリスを
何だか指示が多すぎる気がしたが、複数の大哉が同時に「御意」と答えて動き出したので、納得した。一人につき一つの用事を請け負えばいくらでも仕事がこなせるというわけだ。
「では、アリスさん。下がって良いですよ。知紗さんも、ご苦労様でした」
「ありがとうございました」
知紗が立ち上がったのを見て、アリスもまた立って退室しようとした。しかし、どうも足がおかしい。どうにも名状し難い感覚なのだが、しいて言うならば、異常にむくれているようで、動かすとビリビリと不快な刺激が走る。これは──。
「足が痺れた!」
その場にいた全員が、思わずといった様子で吹き出した。そして知紗は相変わらず自由奔放で、薄情だった。
「お気の毒様ぁ、アリス。ほんじゃああたしは用が済んだから去るねぇ。ばいにゃあ〜」
「待って知紗、これ、どうすれば……!」
アリスが助けを求めた時には、もう知紗の姿は無かった。
代わって大哉がアリスを見下ろした。
「仕立屋に行く。痺れが収まったら、すぐ出発するぞ」
「分かった……アウチ! アウチッ! 何コレ!? 立てない〜」
情けない醜態を晒してしまったアリスは、己の日本文化への理解度の低さを恥じた。悔しい限りだ。やはり知識ばかりでなくこうして体験しなくては何事も分からないというもの。イギリスに帰れたら、早めに日本留学の計画を練るべきだろう。そこで座禅を学んで、痺れない脚を手に入れるのだ。
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