第2話 森のゾウさん

 向こうに見える森の名は、四十町の森と言うそうだ。だいたいそのくらいの面積だからというのが名の由来らしいが、アリスには一町がどのくらいなのかいまいち想像がつかなかった。正方形にしたら一辺あたり何寸になるのかと問うと、淳奈じゅんなは妙な顔をした。


「そんな小さな単位で言われても分からない」

「他の単位なら分かる?」

「そんな気になる……? えーと……確かだいたい〇・四平方キロメートル……」

「へえ! だったらバチカン市国と同じくらいだ! 広いね!」

「ちょっと黙っててくれる?」


 淳奈は懐から巾着袋を引っ張り出すと、一センチくらいの小さな茶色い丸薬を一つつまみ上げた。それを口に詰め込んで飲み込んだ淳奈は、右の手のひらをアリスにかざした。

 途端、淳奈の手から強烈な威力の温風が吹き出した。


「ワオ!」

「早く立って」

「立つの?」


 淳奈はアリスの周りをグルグル回って、全身を乾かしてくれた。ずぶ濡れだったアリスのコートやセーター、下着や髪までもが、みるみる乾いていった。


「アメイジング! ありがとう!」

「じゃあ、行くよ」

「うん!」


 二人は四十町の森を目指して、平らかな草原を歩き始めた。草原は広く、森までは少し距離があった。あっちを見ても緑、そっちを見ても緑の、何とも長閑な光景だ。空は高く晴れ上がっており、日が傾いていて西はほんのりと橙に染まっている。秋は夕暮れ。然り、然り。

 道中、淳奈が口を開いた。


「アリス。私の方から質問したいんだけど、良いかな」

「いいよ。なあに?」

「さっきも言った通り、忍者の動きは普通の人には見えないくらい速いし、追いかけることなんて到底無理。そしてあなたが忍者ではないのは一目瞭然。なのにどうして、そんな真似ができたの?」


 アリスは首を傾げた。


「よく分かんないけど、私は昔から、動体視力が良いし、足も速かったよ。オリンピックに出られるくらいにね。出ないけど」

「オリンピック選手が走るのは、みんなの目に見えるでしょ」

「ふーん、じゃあ忍者ってもっと速いんだね。すごい! もしかして、音速を超える? ソニックブームとか出せる?」

「忍者だから、音速を超えても忍び足になれるよ」

「へえ! クールだね!」


 アリスは小さく拍手した。淳奈はまた溜息をついた。


「……つくづく怪しい人だなあ……」

「私は怪しくないよ」

「怪しい奴はみんなそう言う」

「怪しくなくても言うよ」

「それはそう」


 アリスたちは歩みを進め、森の手前まで来た。しかし木々の間に足を踏み入れる前に、右上の方から「ハイヤーッ!!」と奇声が聞こえた。アリスが声のした方を振り向くと、ちょうど赤茶色の装束の少年が、木の上からこちらに向かって飛び蹴りを食らわそうとしていたところだった。

 アリスは身の危険を感じ、急いで三歩ほど下がった。淳奈は黙って右腕を上げ、少年の渾身の蹴りを片腕で受け止め、造作もなく弾き返してみせた。少年はクルクルッと空中で三回転くらいすると、地面に着地して跪いた。


「負けました。さすが淳奈さんです」

「あなたが弱すぎるんだと思う。あと、掛け声は不要。居場所がばれる」

「精進しますッ!」

 少年はひょいっと木の枝に舞い戻り、猿のような俊敏な動きで隣の木に飛び移って森の中に消えた。


 アリスは困惑していた。

「えーっと、今のは何?」

 淳奈は何故か、険しい顔をしていた。

「……あの子は忍者見習い。この国では奇襲は正当な攻撃で、こういうことは日常茶飯事。忍者は仲間相手に攻撃を仕掛けるのが修行の一環だから」

「へえー」

「で、どうやってアリスは今のをよけたの?」


 淳奈はじろりとアリスを睨んだ。その目線の冷たさときたら、まるで真冬の北極海のようで、さしものアリスもたじろいだ。


「どうやってって……」

「あの子、最初はあなた狙いだった。それを回避した時のあなたは、あからさまに忍者の雰囲気をしていた」

「え!」

 アリスは途端に色めき立った。

「私が!? 忍者的アトモスフィアを!?」

 そんな素敵なことがこの世に他にあるだろうか。気分の高揚が止まらなくなり、胸中でハイパーインフレーションが巻き起こる。だが淳奈は棘を含んだ口調で話を続ける。

「今は、ただの一般人に見える。どうしてそんな風に、一般人だったり忍者だったり、気配がコロコロ変わるの? 何の術を使っているの?」

「何にもしてないよ? もしかして私、実は忍者だったの?」

「修行をしなくちゃ忍者にはなれないから、自覚なしに忍者になるのは無理。それともまさか、例外があるのかな……」

「へーっ! 面白い! 俄然わくわくしてきたよ」

「全然面白くない。これは異常事態」


 アリスたちは森に踏み入り、獣道を伝って奥へと進んだ。見慣れない樹木に囲まれたアリスは、目をきょろきょろと動かした。これは東アジアの温帯によくある植生なのだろうか? それとも忍者の国の独特のもの? どちらにせよ、落ち着きがあって味のある風景だ。茜色の紅葉樹と濃緑の常緑樹が混在していて美しい。

 幾重にも重なった枯葉の上をブーツで踏んで歩くのも、木の葉の隙間からちらちらと降り注ぐ日光を眺めるのも、分け入っても分け入っても青々とした草が続く藪の中を通るのも、新鮮な感覚がして楽しい。


 しばらく行くと、今度は突如として空中に、人間の生首が現れた。

「ひゃっ!? 奇襲!?」

 アリスは樹木の陰までとびすさった。普通に生きていれば宙に浮く生首を拝むことなどまずないだろうから、完全に予想外だった。心臓が止まるかと思った。

 その女の子の顔は、まさしくギロチンで首を刎ねられたような格好だが、不気味にニヤニヤしていて、血色も良く、どうも生きているとしか思えない。彼女の髪は長く、二つに分けて結われている。歳はアリスより一回り若いようだが、日本人はだいたい実年齢より幼く見えると聞くので実際のところは分からない。

 淳奈の方は、ちっとも動じていなかった。

「奇襲じゃない。これは友達」

「何だあ、びっくりした……」


 生首はそんなアリスを見ながら喋り始めた。

「淳奈、師匠に何か用? こんな余所者なんか連れてさぁ。ちょっとまずいんじゃないの?」

「この子はアリス・リースマンって名前のイギリス人。何故かここに迷い込んじゃって帰れないから、何者なのかゾウさんに見てもらいたい」

「なーるほど?」


 生首はくるくると回った。彼女の首の断面が一瞬こちらを向いたので、いよいよグロテスクさが増した。淳奈は慣れているらしく、気にせず話し続けた。


知紗ちさは、ゾウさんがどこにいるか知ってる?」

「もちろん知ってるよぉ。そこ。真下。ちっちゃくなってキノコに乗ってる」


 確かに木の根元にはベニテングタケが生えていた。そしてその上には何か……小人みたいなのが乗っていた。


「会うなら、アリスには兵糧丸ひょうろうがんが必要だねぇ」

「えー……しょうがないな」

 淳奈はまた巾着袋を漁り、さっきのと似た丸薬を一つ取り出すと、アリスに渡した。

「はいこれ、食べて」

「これ兵糧丸って言うの?」

「そう。食べると一定時間スーパーパワーが手に入る。小さくなあれって念じながら食べて」

「了解っ!」


 アリスはひょいっと兵糧丸を口に放り込んだ。味は、何だろう、お米を加工したものだろうか。ほんのりと甘い風味がする。もっちゃもっちゃとした食感を楽しみながら咀嚼し、嚥下した。するとあっという間に周囲の景色が大きくなっていったので、アリスは本当に自分が縮んでいるのだと分かった。一体どういう原理なのか、服も体に合わせてちゃんと小さくなっていく。


 縮小が止まったアリスは、周りの風景の縮尺をざっと見て、自分の身長が三インチくらいであることを割り出した。これなら竹の中にも入れるし、キノコの上にも乗れるという寸法だ。


 向こうの大きな赤いキノコの上には、黒装束のおじさんが座って煙管きせるを吹かしていた。彼のやや茶色っぽい色の髪は、ぼさぼさとしていて冴えない印象を与える。アリスは巨大な枯葉を踏みながら彼に近づいた。


「この人が、森のゾウさん?」

 アリスは、同じく小さくなった淳奈に尋ねた。

「うん」

「ゾウさんって言うから、大きな生き物かと思ってた」

「いや、ただのあだ名。この人は芋沢象平いもさわしょうへい御庭番おにわばんからは半ば引退しているけど、割と頼りになる」

 象平はアリスたちの会話を聞いている様子もなく、ぷかぷかと煙を吐き出している。

 御庭番とは、日本の江戸時代中頃から、将軍に仕えて働いた人々のことだ。その出自は忍者だという説もある。江戸幕府の終焉と共に消えたと思っていたが、こんな形で存続していたとは。


「ゾウさん。ちょっとお願いがあるんだけど」

 淳奈が声をかけた。

「この子が何者なのか、見てくれないかな」


 象平は、フーッと殊更に長々しく煙を吐くと、気怠げにアリスを見下ろし、おもむろに煙管をキノコの上に置いた。両手を組み合わせて人差し指を立て、こんなことを言う。


「忍法・察知の術」

「へ?」

 アリスは間抜けな声を上げた。象平はやがて僅かに頭を振った。

「……こういうのは俺も初めて見たな……」

「何か分かった?」


 淳奈の問いに、象平はゆるゆると頷いた。


「まず、アリスは我々の敵ではないな。そんでもってアリスが元の場所に帰るにはな、ちゃんとした忍者修行をして、上様に認めて頂くのが良いと思うな」


 アリスも淳奈も、ぽかんとして象平を見上げた。一拍おいてから、アリスの全身に、むくむくと喜びが湧き上がって来た。すぐに感情の収拾がつかなくなって、アリスは両手を口の前に持っていった。


「それって……私が、本物の忍者になれる……ってコト……!?」


 願ってもない僥倖に、アリスの興奮はあっという間に限界を突破し、超新星爆発もかくやというレベルにまで達した。


「わあっ、そんな、そんな、あっ、あまりにもエキサイティングすぎるっ……! キャ──!! 最高! 幸せすぎてどうしたらいいか分からない!」


 期待で胸が膨らみまくっているアリスに対し、淳奈は呆れを隠すこともなく口を挟んだ。


「修行の意味、分かってる? 忍術は一朝一夕では身に付かないし、付け焼き刃は通用しないし、忍者になれない人も沢山いる。あなたが帰れるかどうかも分からない」

「ノープロブレム! 何かをやってみてできなかったことなんて、私は一度もないんだし」

「何その自信……オエッフ」


 象平に煙草の煙を吐きかけられた淳奈は、ものすごく嫌そうな顔をして咳き込んだ。しかし象平はどこ吹く風で、また話し始めた。


「あとな、アリス、お前さんは既に、不完全ながら忍術と忍法を使えている」

「えっ、本当?」

「本当だな」

「そっか。でもまあ私は天才だし……やっぱり才能が溢れ出ちゃったのかな。あははっ!」

 笑ってからふと疑問が湧き、アリスは改めて象平を見上げた。

「忍術と忍法って違うの?」

「そうだな。忍術とは、目にも止まらぬ速さで走ったり、武術や道具を操ったりする、基本的な技だ。そして忍法は特別な、超常的な力のことでな、忍者なら一人につき一つ習得している。どっちも、修行によって獲得するもんだ。だからお前さんみたいな事例を俺は見たことがないがな、実際そうなんだから認めるしかないな」


 これを聞いた淳奈は腑に落ちない様子だった。

「そんなこと、あるんだ。じゃあアリスの忍法って何?」

 象平は煙管を指先でくるくる回した。

「アリスは忍者になったり、一般人になったりできるんだろう。それが忍法だな」

「はい?」

「まだ技量が足りないし、任意で操れてもいないがな」

「へええ!」


 アリスはすっかり嬉しくなり、天にも昇る心地だったが、淳奈はにべもなくこう言った。


「そんな忍法、使い物になるの?」

「役には立たんな」

 象平も言い切った。

「だがな、それをアリスが自分の意志で使うことができるように特訓さえすれば、穴を通って故郷に帰れるな」

「ああ、なるほど」

「お前さんも分かったかな、アリス」

「ばっちり」


 アリスは元気よく答えた。


「自力で忍者モードになれる技術を習得すれば、イギリスに戻れるってことだよね? 私、修行を頑張るよ。忍者には是非ともなってみたいし。どんなことをすればいいの?」

「そうだよ、ゾウさん。誰が面倒を見るの」

「お前さんが拾ったんだから、お前さんが見てやればいい」


 拾ったとは、仔犬みたいな扱いだ。アリスはクスリと笑った。一方淳奈は、難色を示した。


「無理。そもそも私、今から任務に行く予定だった。東ドイツに潜入しなくちゃ。今ものすごいことになってるし、早めに行かないと」

「おお、そうだったのか。そんなら知紗にでも頼むかな」


 象平は息を吸い込んで上を向き、呼ばわった。

「知紗ー、おるかー」

 すると、何も無いところから、声だけが降ってきた。

「いるよぉ」

「この外国人のお嬢ちゃんがしばらくこの国に住んで忍者を目指すことになるらしいからな、上様に挨拶せにゃならん。案内してやってくれ」

「んー。分かったぁ。でも、そんなちっさいと時間かかりすぎるから、元の背丈に戻ってもらっていいー?」

「そうだな。それじゃアリス、俺の兵糧丸をやるからな、こいつを食べてくれ」

「分かった。大きくなあれ、と念じるの?」

「いんや、それだと大きくなり過ぎるな。元の背丈になあれ、がいいな」

「はあい」

「もしくはこの赤いキノコを食べれば大きくなれるが」

「それは遠慮するね」


 かくしてアリスの体は、ぐんぐんと元の大きさにまで戻った。


「ふぃー、変な感覚だった」

 アリスは腕を上にあげて伸びをすると、同じく元の大きさに戻った淳奈に尋ねた。

「そう言えば、象平はさっきからどうして小さいままでいるの?」

「小さい方が、煙草を一回に吸う量が少なくても満足できるから、節約になるんだって。この国では煙草は生産してないし、需要も少ないから高価なんじゃないの」

「へー」

「私はもう行く。あとは知紗に頼って」

「了解っ! 淳奈、忙しい中、色々とありがとう」

「別にいいよ、気にしなくて。それじゃ」

「気をつけてね!」


 アリスは、さっさと森を出ていく淳奈を、手を振りながら見送った。淳奈はすぐに、木立の間に姿をくらましてしまった。

 アリスは早速、知紗を探して辺りを見たが、周りには誰もいないし、生首も浮かんでいない。


「知紗、どこ?」

 呼ぶと、また頭上から声が降ってきた。

「しいて言えば、ここらへんかなぁ」

「え? どこ? 上?」

「そうそう。ちょっと待ってね。よいしょ」


 次の瞬間、近くの樹木の枝の上に、黒装束の少女が忽然と現れた。


「わあ」

「改めまして、風間かざま知紗だよ。よろしく」

「よろしく!」


 知紗は猫のようなしなやかな動作で木の上から飛び降りて、アリスにニッと笑いかけた。


「それじゃ、上様のとこまで行こっかぁ」


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