忍者の国のアリス
白里りこ
一ノ巻 ワンダフル・ニンジャ・ランド
第1話 オーマイガー
ある日の朝、アリスはオックスフォード大学の敷地内の芝生で、日本学セミナーで出された課題図書を解読していた。
アリスはおばあちゃんから少し日本語を教わっていたし、大学に入って改めて学び直したから、日本語を話すのは大の得意だった。だが読むのはちょっぴり苦手だ。と言ってもアリスは世紀の大天才であり、不可能など無いと言っても過言ではないくらいの万能人なので、本当にほんのちょっぴり苦手なだけだ。
アリスはその才能にあかせて色々な学問に首を突っ込んでおり、日々学業に忙殺されていた。課題の山は続々と積み重なって今やマッターホルンの如し。しかしやはりその中でも特筆すべき難解さを誇るのが日本学だった。何故ならそれこそがアリスの専攻科目であり、他の学問と比べるとどうしても、深い知識と豊かな教養が際限なく求められるからであった。
因みに今アリスは『竹取物語』の原文を読んでいるのだが、あまりにもちんぷんかんぷんで頭が破裂しそうだった。予習として現代語訳をざっと読んだので
そんな日々なので、昨晩あたりから世界を激震させているあんな事件やこんな事件などには、アリスはあまり構っていられないのだった。もちろん何事も疎かにするのは良くないから、新聞を速読して状況だけは把握していたが、他の学生たちが興奮して議論している場への参加は、遠慮しておいた。
秋は深く、物悲しくなる程に風が冷たい。隣には同じセミナーで学んでいるローザが座っていて、一心不乱に『おくのほそ道』を解読している。
今日は珍しく天気が晴れだから二人で日向ぼっこをしようと提案したのはアリスだったが、ほとんど冬とも呼べる今の季節にそれを決行したのは失敗だった。手が冷えてしまい、ページをめくるのにも難儀する。天才にもこういう凡ミスはある。人間なのだから仕方がない。弘法も筆の誤りと言うではないか。
今は早く一段落させて場所を変えるのが良いだろう。
さっきは本に「寸」という単位が出てきたが、アリスの記憶では一寸はおよそ一インチであるらしいので、
ようやく冒頭を読み終わった。疲労と寒さが相まってうんざりしてきたアリスは、本を膝に置いてうーんと伸びをした。
その時だった。
目の前を、忍者が走り去って行った。
「えっ?」
それは確実に忍者だった。何年か前にヒットしたアメリカの忍者映画に出てきたような、黒装束に黒い覆面の、あの忍者。
アリスはあの映画で忍者に憧れて日本学を志した。本物の忍者が現れたからには是非ともお会いして、インタビューしなければ。
「ごめんローザ、私ちょっと行ってくる!」
「ん? 何?」
ローザが聞き返した時には、アリスはもう本を放り出して走り始めていた。
忍者は足が速かったが、アリスも負けず劣らず速かった。おばあちゃん仕込みの足捌きでぐんぐんと忍者を追いかける。あんまり足が速いので、勉強などやめてオリンピックにでも出ろと、他人様から何度言われたことか。アリスには全くその気が無かったので聞く耳は持たなかったが。
忍者は芝生を横切って、とある木の下に空いた穴に飛び込んだ。得体の知れない穴だけれど、忍者に会うためなら躊躇いなどかなぐり捨てられる。アリスは迷いなくそこにダイブした。
入ってみると、そこにはどこまでも続く暗闇があった。アリスはなすすべもなく落ちていった。
「オ──マイガ──ッ!!」
オックスフォードの天才万能大学生ともあろう者が、つい動揺して叫んでしまった。落ちる、落ちる、落ちる。いつまで落ちるんだ。正直めちゃくちゃ怖い。遊園地のアトラクションだってこうはならないと思う。不安感が尋常じゃない。
「イヤ──ッ!!」
何故か口から飛び出たアリスの日本語の叫びは、黒洞洞たる闇に吸い込まれて誰にも届かない。アリスにはもう、意味もなく周囲を見回すくらいしかできることがない。しかしこれは意外と興味深い景色だった。
たとえば、穴の側面に本棚があって、そこだけは暗い中でもはっきりと視認できた。『豚人間農場』とか、『手ずから仕掛けのバナナ』とか、『サイコパスはモルモットの夢を見るか?』とか、『摂氏零下二七三・一五度』とか、不思議な題名を持つ本が並んでいる。
また少し下へ来ると、宙に浮いている机の上に、小ぶりの地球儀が置いてあるのが見えた。変わった色使いの地球儀だった。陸地は全て赤で、海は全て黒で塗りつぶされているのだ。そして地球儀の後ろには、きちんと等間隔に並べられたドミノの列があった。
しばらくすると、今度は側面に日本の風刺画がいくつか掛けてあるのが見えた。金色の寺院が燃え盛るのを見つめる群衆の後ろで軍服の男が切腹している絵や、大勢の若者たちが鉄パイプを振り上げ火炎瓶を投げ込んている後ろで着物姿の男が差し出された賞状か何かを見つめている絵などがあった。
因みにこれらは全て自由落下の途中で目にしたものであるが、アリスはその並外れた動体視力によって、問題なく鑑賞できていたのだった。
それにしても、落下時間が長すぎる。もう一分くらい経過していやしないか? 速度がどんどん上がるし、このままずうっと落ち続けたら、地殻すら通り越してマントルに到達しかねない。大変! 跡形もなく溶けて死ぬ! あれ、もしそうなったら、土葬になるの? それとも火葬になるの? マントルだって地面なわけだし土葬かな、それとも燃え盛るマグマに飲み込まれるから火葬かな。いや、どっちにしても御免だけど!
アリスが絶望しかけた時、ドボーンと大きな音がして、視界が少し明るくなった。アリスは思いっ切り水を飲んでしまった。どうやら到達地点は深い水の中だったらしい。足先から頭のてっぺんまで、冷たい水がまとわりついてきて、本能的に危機感が生じる。
苦しいし、鼻が痛いし、体が重い。
普段のアリスならバンドウイルカめいた華麗な泳ぎでこんなところからはすぐに脱出できるのだが、思いがけずも勢いよく沈められて水を飲まされてしまっては、焦ってしまって思ったように動けない。遮二無二もがいたが、全く水面に辿り着かない。
まあ、落ちた先が地面だったりしたら、アリスはぺちゃんこになって死亡するのは確実だったし、水面に叩きつけられることもなくこうして上手く飛び込めたのは不幸中の幸いではあるが、このままでは窒息するので結果的には同じだ。
ああ、せっかく忍者を見つけたというのに、一言も話さないまま溺れ死ぬなんて。嫌だ! せめてコンニチワと言ってから死にたい! 欲を言えば握手もしてもらいたい!
アリスがそんなことを考えていると、脇腹の辺りを何かに鷲掴みされた。ぐいっと体が持ち上げられて、気づけばアリスは水中から出て空を飛んでいた。本能的に思い切り空気を吸い込み、次いで激しく咳き込む。信じられないくらい肺が痛い。
ぼたぼたと水滴がこぼれ落ちる視界には、澄んだ色をした大きな湖が広がっていた。アリスは岸まで連れて行かれ、湖のほとりに転がされた。そこは背丈の低い草が茂っている芝生のような陸地だった。
アリスがまだ咳を止められないでいると、目の前にヌッと大きな鳥が現れた。何の種類かはよく見えなかったが、足がとても大きかった。どうやらアリスを引き上げたのはこの鳥らしい。鳥は翼をたたむと、ぐにゃりと変形し、人間の女の子の姿になった。これが超常現象であることは間違いないが、アリスはあんまり苦しかったので、驚いている余裕がなかった。
「大丈夫?」
彼女が発したのは、日本語だった。アリスは頷いて、女の子をちらりと見た。彼女もまた黒い装束を着ていたが、顔を隠してはおらず、黒いショートヘアが風に吹かれていた。彼女は平坦な声で質問を続けた。
「あなた
アリスは分かりませんのジェスチャーをしてみせ、また咳をした。
「ああ、ごめん。落ち着いてからでいいよ」
親切な人だ。相変わらず淡々とした口調ではあったが。
彼女はアリスの背中を叩きながら辛抱強く待ってくれたので、アリスはようやく喋ることができた。
「たっ、助けてくれてありがとう。私は、忍者がいたので、追いかけたら、穴に落ちて、こんな所に来てたの。ここはどこ?」
「忍者を追いかけた? あなたが?」
「うん」
「しかも、穴に落ちたの?」
「うん。それで、ここはどこ?」
「ここは忍者の国だけど」
「忍者の……国……! ってことは、日本?」
「んー……概ね日本ではあるけど、どちらかというと異世界みたいなもの……?」
「へえ! 異世界!」
だから、地下に落ちたと思ったのに、空があんなに晴れ渡っているのか。地下の国ならどこも真っ暗かと思っていたけれど、アリスが通ったのは地面に掘られた穴ではなくて、世界を繋ぐゲートだったらしい。
彼女は警戒感も露わにこちらを見ている。
「忍者の国は、基本的には忍者しか来られない所だよ。一般人には穴を通ることはおろか、忍者を追いかけることも、忍者の素速い動きを見ることすらも、できないはずなのに」
「そうなの?」
「あなた、ひょっとしてスパイ? KGBとかの」
「まさか!」
私はブンブンと首を横に振った。
「私はイギリスの大学生だよ!」
「イギリス? ってことは尾けられたのは
「うん?」
「何でもない。つまりあなたは、イギリスの秘密情報部の人ってこと? あるいはCIA?」
「違う違う違う。本当にただの天才万能大学生! 一般人だよ!」
「本当に?」
「本当だよ!」
「じゃあ、どういうことなんだろう。ちょっと、私が新しく穴を作るから、通ってみてくれない?」
「分かった!」
淳奈がピッと人差し指を地面に向けると、湖のほとりに、ぽっかりと黒い穴が空いた。アリスはジャンプして穴に飛び込んでみたが、視界が闇に包み込まれる前に、謎の力がアリスを押し返した。アリスはスポーンと穴から飛び出して、女の子の前に無様に落下、地面にしたたかに体を打ちつけた。
「ぶべらっ」
「通れない……。ちょっと、もう一回やって」
「いいよ!」
スポーン、とまた同じ結果になる。女の子は困り果てた様子でギュッと目をつぶった。
「どうしたらいい? 放っておくわけにはいかないし、かといって殺したら問題になるし、上様の前にお連れするのは論外だし……」
彼女は顎に指を当てて逡巡していたが、やがてもう一度アリスの目を見た。
「よし。まず、森のゾウさんに聞いてみよう。きっとそれが確実。連れて行くから、大人しくついてきて」
「分かった! ……えーと、あなた名前は?」
「
「私はアリス・リースマン! っていうか、淳奈、あなたも忍者なんだよね?」
「うん。くのいち」
「わー!」
アリスははしゃいで手を叩いた。
「私、本物の忍者に会うの、夢だったんだ! まさかこうしてお話できる機会が来るなんて! 質問したいことがたくさんあるんだけど……聞いてもいい?」
「だめに決まってるでしょ」
「そうなの?」
「忍者が好きなら、忍者が隠密活動をするって知ってるよね。要するに私たちはスパイ集団。一般人ならともかく、不審者に情報はあげられない。むしろ、必要であれば、忍法・忘却の術であなたの記憶を消してもらうからね」
アリスは目をプラムのように真ん丸にして淳奈を見上げた。
「忘却の術? すごい! かっこいい! 分かった、聞かないでおくよ!」
淳奈は訝しげな表情になった。
「あなた状況分かってる? 穴を通れないと、元の国に帰れないんだけど」
「そんなの後でどうにかなるって。それよりも忍者に会えて嬉しいんだ。あっ、握手してもらっていい? 握手くらいなら良いよね?」
「それは、良いけど……」
「やったー!」
アリスは差し出された淳奈の手を両手でしっかりと握ると、満面の笑みを浮かべた。
「ありがとう、淳奈!」
「……どういたしまして……」
淳奈はアリスから目を逸らすと、手を引っ込めた。
「……さっさと行こうか。ゾウさんのところ。もうこんな時間だし、早くしなければ暗くなってしまう」
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