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その夜、新次郎は長屋に帰って、残っていた冷や飯に湯をかけて、すすり込んでいた。

かずほ香の物と、温め直した味噌汁だけ。江戸の庶民の平均的なメニューである。

そこへ、例の如く、トントンと障子を叩く音がして、あかねが入って来た。


「先生、これ、食べてね」

皿の上には、里芋の煮付けが湯気を立てていた。

最近では、「作りすぎちゃった」というセリフすら言わなくなっている。

「おお、いつも、すまんの」

「お礼なんか言わないでって、言ってるでしょ。あたしが好きで作ってるんだから」

「さ、さようか」


「それで、先生、どうだった?」

上がりがまちに腰掛けて、あかねが妙に目を光らせて、訊いた。

「うん?」

「ホラ、例の、何とか小町さん」

「ああ、雪江どのか」

「そう、そのかた

「どう、とは?」

「だから〜、道場破りさんたちを簡単にやっつけちゃった先生を見て、ポ〜ッとなっちゃったとか?」

世の中に、女の勘ほど恐ろしいものはない。


「い、いや、さような事はないぞ」

「ホントに〜?」

「無論だ。雪江どのは、婚約者のある身だからの、そんな態度を取るわけがない」

「なんだ〜、その方、婚約してらっしゃるのね」

「うむ」

「良かった」

「え?」

「な、何でもないわ」

あかねは、そう言うと、立ち上がった。


「じゃ、あたしはこれで」

「あ、ああ。ご馳走様」

「お礼はいいってば」

「・・・・・・」

あかねは、腰高障子を後ろ手に閉めながら、新次郎に聞こえるか聞こえないかの声で、呟いた。


「婚約か・・・いいな」


新次郎は、あかねの持って来た里芋を口に運びながら、小さくため息をついた。

(わしに、妻をめとる資格があるかのう・・・)





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