生存遁走

宮塚恵一

1.訪問者

 仕事から帰ってすぐやることは、ベッドに寝ている千恵ちえ優輝ゆうきの顔を見に行くことだ。夜間介護の夜勤明けで帰ると大抵はもう二人ともまだ寝ている時間だから、そっと起こさないように玄関の戸を潜り、インスタントコーヒーを淹れて一息をついてから二人の隣で自分も眠りにつく。

 だが、ここ最近はそんな自分の習慣ルーティンを壊す音がリビングにこだまする。

 ピンポーンとチャイムの鳴る音、それから「美弦さん、いますか」と玄関から声が聞こえた。

 俺は溜息をつき、玄関の戸を開けた。


「うるせぇぞ、トシ。もう来んなつった筈だ」

「すんません。でも美弦さんがいるって分かってんの、この時間帯くらいだから」


 玄関で深々と頭を下げるのは、ここ最近何度か家を訪ねるようになった昔の知り合いだった。

「そういうことを行ってんじゃねえ。俺はお前の話には興味ねえってんだ」

「でも」

「何度も言わせんな。他の住民にも迷惑だろが」

 俺の住んでいるのは古いアパートの一室で、壁もそう厚いわけじゃない。誰かの部屋の前に訪問者が来て、こいつみたいな声量で話せば他の住民にも声が聞こえてしまう。


「とりあえず入れ」

「ありがとうございます」


 俺はトシを部屋の中に誘う。トシはまたも律儀に深々と頭を下げて、部屋の中に入った。


「コーヒー、いるか?」

「すみません、いただきます」


 俺は既にコーヒーメイカーで淹れてあったコーヒーを二杯、台所の水切り籠にあった中から適当に取ったコップに注いだ。


 自分の分には適当に砂糖を混ぜて、トシのはブラックだ。もうこいつも何度かウチに来ているから、特にコーヒーに混ぜ物をしないタイプであることは分かっている。


「それで美弦さん、闘技場の話なんですが」

「くどい。興味ねえ」


 俺は自分のコーヒーに口をつけ、一口飲む。本当ならリラックスできる時間だと言うのに、こいつのせいでままならない。


「でも闘技場はマジでもうダメです。昔の仲間も皆、千葉の奴らにボコられました。闇撃ちされて病院送りになった奴もいます」

「知らねえ」

「奴らのやり方はめちゃくちゃです。オーナーが御法度にしてたガチのデスマッチまで平気でやる。……こないだ田淵が奴らの連れてきた選手にられました」

「田淵が……?」


 田淵は知っている中でもかなり強い。子供の頃からボクシングをやっていたが、高校生の頃に傷害事件を起こして、それから俺やトシのいた地下闘技場に流れてきた男だった。田淵のパンチはプロにも引けを取らず、あいつの俊敏な動きについて来れる奴はそうそういなかった。

 俺もあいつとは優勝争いをしたことがある。その時の試合はかなりの泥試合で、結局は第三ラウンドまでもつれ込んで俺の判定勝ちになった。

 ──だが、それも昔の話だ。


「そりゃ気の毒だったな。あいつとも付き合いは長いし、葬式くらいにゃ顔を出してやっても良い」

「いえ、しばらく葬式はしません」

「あン?」

「千葉の奴ら、闘技場で戦う選手には全員、そこでの死を公表しないことを契約させられるんです。田淵の奴も、後何日か経ったら山ん中から死体が見つかるだけです」

「なんつー馬鹿な。んな契約、何の意味もねえ」

「何人かでチーム組まされて、破ればチーム全員奴らに殺されるんです」


 徹底した暴虐無人ぶりだ。今の世の中、そんなことをよくやるモノだと変に感心する。


「美弦さん、あそこはもうダメだ。今、暁美あけみさんに恩のある人間集めて、奴らに喧嘩おっ始める気でいます。そこに美弦さんがいてくれたら百人力です」

「ふざけんな。今の俺の暮らしぶり見てわかるだろ、そんなことできやしねえよ。コーヒー飲み終わったら、家族が起きないウチに帰れ馬鹿」


 俺は自分の分のコーヒーを飲み終わると、トシの肩を掴んで立ち上がらせた。トシは渋々と玄関まで歩いて行き、それから名残惜しそうに振り向く。


「また来ます」

「二度と来んな」

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生存遁走 宮塚恵一 @miyaduka3rd

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