その死体は恋慕する

谷風 雛香

第一幕

 それは一瞬の出来事だった。頭上から降る水の塊が目に入った時には、私の体はずぶ濡れになっていた。規則正しく並んだタイルの上に大量の水が大きな音を立てて降り注ぐ。どうやら、今日の天気予報は所により大雨だったらしい。


 「ちょっと顔がいいからって、調子に乗ってんじゃないわよ!」


 扉の向こうから、一人の少女の声とパタパタとトイレを出ていく足音が聞こえる。

 両親の都合で、祖母の家があるH県の田舎に引っ越してきた私は、入学式から一週間も経つというのに、いまだにクラスに馴染めずにいた。特に、前の席の関口鏡花という少女には目の敵にされているらしく、こうした嫌がらせを受けることも少なくなかった。


 「……寒い」


 じっとりと濡れたセーラーの袖口から滴る水が、手に持っているモップを伝って水溜りの製作に加担している。早くここから出たい。

 私は個室を出ると床に転がるバケツをチラリと見つつ、トイレの隅にある掃除ロッカーを開けた。鼻につく埃臭さがするその中には、乱雑に並んだ掃除道具が入っている。そこに持っていたモップを放り投げ、私はトイレの扉を開けて外に出た。

 掃除の時間はすでに終わっているらしく、一階の廊下は静まり返っている。私は大きな音を立てないよう気をつけながら廊下を真っ直ぐ歩いていくと、突き当たりを右に曲がり正面に見える階段を登った。

 自分の教室のある二階に辿り着き踊り場から廊下に出ると、数人の生徒達がまばらに歩いているのが見えた。何人かがこちらに気付き振り返るが、ギョッとした顔をしてすぐに顔を背けてしまう。当たり前だ、今の私の外見は濡れ鼠なのだから。


 「はぁ……」


 腫れ物に触るかのような態度にため息をつきつつ、私は教室の扉に手をかける。中からは数人の女子達の囀る声が良く聞こえ、その中にはトイレで聞いたあの声もあった。廊下にホームルームの始まりを知らせるチャイムが鳴り、私は憂鬱になりながらも仕方なく教室に入った。クラス中から向けられる視線の重圧に吐きそうになりつつ、一番後ろの窓際にある自分の席につく。


 「やば~」

 「うわぁ、前田さん可哀想」

 「……教室濡らすなよな」


 非難、同情、好奇心。様々な色を持つ声がいろんな角度から吹き付けられ、私の心をボロボロにしていく。この教室に私の味方はいなかった。

 けれど、その声の嵐も担任が教室に入ってきたことにより静かになっていく。所詮はみんな16歳、大人の視線が気になるお年頃なのだ。


「えー、みんな席につけ。ホームルームを始めるぞ」


 黒縁眼鏡をかけた担任が教卓に立ちそう言った。一度、チラリとこちらに視線を投げたが、すぐに戻して配布書類を生徒に配っていく。

 ふと左側に視線を向けると、窓から黒い雲が空を覆っているのが見えた。暫くすると窓に小雨が打ち付けられるようになり、それは少しずつ勢いを増していく。どうやら、今日は本当に大雨が降るらしい。傘は持ってきていないので濡れて帰らないといけない。私はちょうど良かったと楽観しつつ、この姿に対する家族への言い訳ができたことに気づき苦笑した。




 それから十数分後、私は学校の玄関にいた。木製の靴箱達が並ぶ間を縫うように進み、自分の『前田鈴子』と名札が貼られた靴箱から、新品のローファーを取り出す。私は慣れた手つきで靴を履き替えると、そのまま校門の外に向かった。

 雨は教室から見えていたものよりもずっと強かった。肩に雫の重みを感じつつ、校門から続く緩やかな坂道を駆け下りる。両端に田圃が広がる通学路は、途中までは一本道になっており、その先は枝のように数本の道に分かれていた。私の家があるのは一番右端の林道を通っていく道と、その隣の少し遠回りをする道だった。私はいつも、舗装がされた遠回りの道を使っている。けれど、背に腹は代えられない。今日は一番右端の道を通ろう。


 「はぁっはぁっ、もう無理っ」


 道の途中で立ち止まり深呼吸をして息を整える。この林は学校から歩いて10分程の距離にあり、それほど走ったわけではなかった。けれど、運動不足の私にとっては永遠にも感じるほどの苦行であった。


 「そろそろ行こうかな」


 息を整えた私は、走ってきた道を今度は歩いて進んでいく。雨の日にこの道を通るのは初めてだった。夕方にしては薄暗い林道を不気味に思いつつ、転がっている小石を見つけては蹴飛ばしていく。それはちょっとした好奇心であったり、学校で起きたアレコレに関する八つ当たりみたいなものだった。

 しばらくそうして遊んでいると、私の視線はある場所に吸い寄せられていった。木々が密集して影になっている場所に、誰かが立っているのが視界の端に映ったからだ。


 「誰?」


 それは、息を呑むほどに美しい一人の少女だった。

 彼女は、白のワンピースに薄紅色のカーディガンといった出で立ちで、艶のある綺麗な黒髪は腰の辺りまで伸び、肌は陶器のように白かった。霧が立ち込める木々の間にひっそりと佇むその姿は、どこか神秘的に見える。

 けれど、その表情は驚きに満ちていて、まるで信じられないとでも言いたげだった。何秒、いや何十分経っただろうか。お互いに見つめあっていると、彼女がこちらに歩み寄ってくる。


 「……久しぶりだね、鈴子」

 「え?」


 予想していなかった展開に思わず声が漏れる。彼女は口元に微笑を浮かべていて、私はその表情にどこか懐かしさを感じた。


 「小さい頃によく遊んでたと思うんだけど、覚えてない?」

 「そうだっけ……?」

 「もう、覚えてないの! 私達は親友だ、なんて言ってくれたじゃない」


 彼女はカーディガンのポケットに手を突っ込むと、小さな水晶がきらりと揺れる、銀色のネックレスを取り出した。それは、私がオルゴールの宝石箱に大事にしまっている、幼少の頃に友達とお揃いで買ったネックレスによく似ていた。


 「もしかして……毬子なの?」

 「そうだよ、やっと思い出したの」

 「あんまり美人になってるから、全然わからなかったよ!」

 「そういう鈴子だって、すぅっごく可愛くなってるよ。見惚れちゃった」

 「それはこっちのセリフだってば」


 懐かしい二人のやり取りに、私達はお互いに笑った。まさか、こんな場所で数年越しに親友と再会できるとは思ってもいなかった。毬子との楽しい会話は、冷たくなった私の体をじんわりと温めた。




 家に着いたのは、十八時を過ぎた頃だった。毬子との思い出話が楽しくて、いつもより一時間も帰りが遅くなってしまった。まだ両親は帰ってきてはいないのか、家の中は暗かった。奥にある祖母の部屋から漏れ出る光だけが木漏れ日のような柔らかさで廊下を照らしている。

 この家は広い中庭を囲うように建てられていて、春は縁側から桜が咲いているのを見ることができた。他にも紫陽花や金木犀、椿や万両が植えられていて、四季を通して花が咲くようになっている。

 玄関で靴を脱いで家に上がると、壁についている明かりのスイッチをパチンと押し、廊下と部屋の電気をつける。


 「ありゃぁ、鈴子ちゃん帰ってたの。おかえり」

 「うん、ただいまおばあちゃん」


 部屋の外が明るくなったのに気づいたのか、祖母の松代が襖と柱の間から顔をだしていた。年相応に皴を刻んだ顔の表情は柔らかく、丸みを帯びた輪郭は満月の様に見える。幼い頃から私は、祖母のこの愛らしい笑顔が好きだった。


 「あらあら、まあまあ。そんなに濡れてどうしたの? お風呂のお湯はもう溜めてあるから、早く入りなさいね。年頃の女の子なのに体を冷やすなんて良くないからね。山田さんとこの甥っ子の娘さんもそれで体調を崩してねぇ」

 「うん、分かったよ気をつけるね。ありがとうおばあちゃん、お風呂入ってくる」


 最近の祖母は話し相手が少ないのが寂しいのか、一度口を開けばなかなか閉じることがない。よって、適当なところで相槌をうって退散するのが前田家の家訓の一つになっていた。私はその場からそそくさと移動すると、自室から着替えを回収してお風呂場に向かった。

 我が家のお風呂は亡くなった祖父のこだわりで、大人二人が入っても余裕があるくらい広く作られている。扉を開けると、先に祖母が入っていたらしい浴室は湯気で鏡が白く曇っており、湯舟には庭の桜から摘んできたのか、薄紅色の花弁が数枚ほど浮かんでいた。

 私は服を脱いで裸になると、浴室に入って髪をわしゃわしゃと洗って流し、体も汗と雨の汚れを落とすために念入りに洗っていく。最後に洗顔をして終わりだ。私はこの泡を洗い流した後にする最初の一呼吸がたまらなく好きだった。そして、ゆっくりと足先から湯舟につかっていき、やがて肩までつかると体全体がじんわりと温まってくる。鼻先が水面に近いのもあって、桜の香りが濃かった。


 「桜の良い香り……」


 横たえた白い体の上を桜の花びらがゆらゆらと漂う。私はそれが渡り船に見えて、人差し指でチョンと小突いてみた。突かれた船は波に流されて私の足先に漂着し、くすぐったくなる。

 お風呂からあがると、玄関の方から母が帰ってきた声が聞こえた。ベージュのカバンを肩にかけ、一般的にオフィスカジュアルと呼ばれる格好をした母は、疲れからか表情がしょぼくれている。右手には、近所のスーパーの店名が印刷された買い物袋を持っていた。


 「お母さん、お帰り。お仕事おつかれさま」

 「すずちゃんただいま~。残業で帰るの遅くなっちゃった。もう夜ご飯は食べちゃった?」

 「ううん、まだ」

 「なら、さっきスーパーで買ってきたお惣菜を並べてくれる?お祖母ちゃんには悪いけど今日のご飯はこれで勘弁してね」

 「全然、大丈夫だよ」


 母から買い物袋を受け取ると、私は台所に向かう。足の高いテーブルの上に袋を置いて、食器棚からお皿を出していく。隣の居間になっている和室には大きな木製のテーブルが置かれていて、私はその上にお皿に移し終えたお惣菜を並べていった。


 「ありがとね、すずちゃん」


 食事の準備がひと段落したタイミングで、部屋着に着替え終わった母が居間にやってきた。その時、私は林で再開した毬子のことを思い出して、母に覚えているか聞いてみた。


 「まりちゃんでしょ? 覚えているわよ。とっても可愛い子だったし、鈴子とも仲が良かったから」

 「ふーん」

 「お父さんの転勤で九州に引っ越すまでは、鈴子は夏休みの間はこの家に泊まりに来ててね。よく二人で遊んでたわねぇ、懐かしいわ」


 九州に引っ越したのは、小学五年生の頃のことで、当時の私は11歳だった。母の話が本当なら、毬子とは約五年ぶりの再会ということになる。どうりで、すぐに思い出せなかったわけだ。そう考えると、一目見た瞬間に私だと気づいた毬子の記憶力は相当の物だといえる。

 母が居間に置いてあるテレビをつけると、一週間の天気予報が聞こえてくる。どうやら、明日の天気は晴れらしく、今日のように雨に降られることはないだろう。毬子ともっと話したくなった私は、再びあの林道を訪れることにした。




 翌日、いつもより早く起きた私は、あの林道で毬子が通学してくるのを待ってみた。左手の腕時計を見ると時刻は七時半で、空気は冷え切っていて寒い。かじかむ両手に息を吹きかけつつ、それから四十分程待ってみたが、いつまで経っても毬子が現れることはなかった。どうやら、彼女の通学路はこちらの道ではなかったらしい。

 遅刻ギリギリで教室に辿り着いた私は、肩で息をしながら机の横に鞄をかける。それから教室のストーブで手を温めつつ、毬子に通学路を聞いておけば良かったと、ため息をつくのだった。

 黒板の上に設置されているスピーカーから、朝のホームルームを知らせる音楽が流れる。クラスメイト達がまばらに席に着いていくのを横目で追いつつ、私も自分の席に戻った。憂鬱な一日の始まりだ。

 教室に入ってきた担任が、いつもと同じ朝の連絡事項を告げ、プリントを配布していく。前に座る関口鏡花から、睨まれながらプリントを受け取り、それを机の中へと突っ込む。大事なプリントでもなかったし、既にくしゃくしゃにされているプリントをファイルに挟む気にはなれなかった。

 右肘をついて窓の向こうに視線を向ける。外は天気予報通りの快晴で、真っ青な空が清々しかった。山の頂上付近には小さな雲が浮かんでいて、眩しさを感じる程のその白さに私は毬子を思い出す。記憶の中の彼女は、いつも白いワンピースを着て笑っていたからだ。

 風で流されていく雲を眺めつつ、私は彼女に会いたい気持ちを強くしていった。




 待ちに待った放課後がやってきた。急いで学校を出た私は、林道の入口付近まで来ると腕時計に視線を移す。昨日、彼女と出会ったのはこの時間だったはずだ。そわそわと周囲を気にしながら、毬子がこの道に通りかかるのを待った。今日、ここを通ると聞いているわけでもないのに、もしかしたら会えるかもしれないという淡い期待に私の体は突き動かされていた。いつの間にか、私にとっての毬子の存在はそれほどまでに大きくなっていたのだ。

 林道に着いてから十分程経った頃、遠くの方からセーラー服をきた少女が歩いてくるのが見えて、私の胸は期待でいっぱいになる。けれど、それは次第に失望に満たされていった。なぜなら、その少女は関口鏡花だったからだ。


 「あんた、こんな寂れた道で何やってんの?」

 「……」

 「無視とかありえないんですけど」


 そう言って舌打ちをした彼女は、私の襟元を掴んできた。首が絞められて息苦しくなる。


 「ちょっと、離して!」

 「あんたのことずっと気に食わなかったのよ!私の辰巳に色目を使ってさ、何様のつもり?!」


 目尻を吊り上げて、怒りに顔を赤くした彼女は辰巳という聞き覚えのない名前を吐き出す。私は何か勘違いをされているようだった。


 「辰巳って誰のこと?私知らないっ……」

 「とぼけないで、あんたと同じクラスの斎藤辰巳のことよ! 私の幼馴染でテニス部の!」


 確かに、何人かの男子はテニスのラケットケースを机の横にかけている。けれど、入学してからクラスメイトとは殆ど話していない私には、誰が斉藤辰巳のことなのかまるで心当たりがなかった。

 誤解だと言おうとして口を開けかけた瞬間。視界が揺れ動くのと同時に、右頬に鋭い痛みとパンッと弾けるような音が聞こえた。あまりの衝撃に頭が真っ白になるも、次第に熱を帯びていく頬から、ビンタされたのだと理解する。

 再び、彼女の方に視線を向ければ右手を振りかぶっている最中であった。次の衝撃に耐えようと、私はギュッと目を瞑った。


 「……?」


 けれど、私の予想とは違いそれは訪れなかった。おそるおそる目を開くと、関口鏡花の後ろに少女が一人立っているのが見えた。毬子だった。


 「こっちにこないで、巻き込みたくない!」

 「……はぁ?何言ってんの」

 「もう満足したでしょ、離して!」


 ドンッと関口鏡花を突き飛ばした私は、そのまま毬子のいる方へと走る。驚く彼女の手を引いて、私達は薄暗い林道の中へと消えていった。

 両脇に草花が茂る道を、毬子と一緒に駆ける。途中、誰が設置したのか分からない木製のベンチがあるところまで来ると、私は走るのをやめた。息が苦しかった。

 立ち止まって息を整えていると、毬子の手を掴んだままなのを思い出す。ほっそりとした白い手首はひんやりとしていて、火照った掌を冷まして気持ちよかった。それがなんだか凄くドキドキして、私は思わずパッと手を離してしまう。


 「ごっごめんね、ビックリしたよね。何でもないから気にしないで」

 「私は大丈夫だよ。でも……鈴子は大丈夫なの?」

 「えっと、その、ちょっとした行き違いがあっただけだよ」


 心配そうに見つめる彼女の視線に、私は胸が張り裂けそうになる。毬子にこんな顔をさせた自分が許せなかった。


 「嘘つかないで、私には鈴子のことなんて全部お見通しなんだから」

 「毬子……」


 綺麗な黒髪を揺らして、毬子が私に抱きついてくる。鼻先のあたりに彼女の首元が近づき、淡くて甘い花の香りがした。視線を下に移せば、水晶のネックレスが光を反射してきらりと光る。


 「私だけはずっと鈴子の味方だからね」

 「うん、ありがとう」

 「……ねぇ、私達。毎日この道で待ち合わせしない?」

 「いいの?」


 体を少し離すと、毬子は私の腫れた頬を撫でて微笑んだ。柳のように涼しげな瞳を覗き込めば、そこには私だけが映っている。


 「もちろん。明日も明後日も、ここで鈴子のこと待ってるから会いに来て」

 「うん」


 彼女と私の小指が絡み合い一つの約束を結ぶ。

 日が暮れていく林の中、私達は一生忘れることの出来ない思い出を刻んだのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

その死体は恋慕する 谷風 雛香 @140410

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る