#107 決して安くない勉強代

 影山さん、今頃何してるだろう。あれから三日経つし、さすがに治っただろ。俺のほうに連絡ないだけで、飛鳥さんには完治の連絡いってるのかな?

 俺? 俺は……。


「食欲あるか? リンゴ剥いてやろうか?  冷却シート換えなくて大丈夫か? 動画サイトで、リラックスできる曲とか探してやろうか?」


 風邪を移されてダウンしてるよ。飛鳥さんが必死に看病してるせいで重症っぽい雰囲気出てるけど、微熱だから正直ほっといてくれても大丈夫だ。まあ……でも、たまにはこういうのも悪くないかな?


「明日にゃ治ってますよ、ハハハ」

「いや、夏風邪を舐めたらダメだぞ。マスクしてたのに移ったんだぞ? それも三日遅れての発症だ。大事をとって医者を……」


 やっぱ良くないわ。心配性にも程があるわ。こんなんで往診してもらうのは、さすがに忍びないって。


「普通に動ける程度に元気ですって、もう」


 一昔前なら学校やら会社やらに行ってるレベルだよ。最近は微熱でも帰らさせられるらしいけど。


「男は熱のせいで子供作れなくなるんだぞ? 前にも言ったかもしれんが、可能であれば子供を生みたいんだよ、私は」


 飛鳥さんの出産願望とか、お相手が俺なこととか、そういうのはさておいて、微熱ぐらいで無精子にならないって。微熱でアウトなら、短時間サウナに入っただけでアウトだよ。下手したら風呂も入れんわ。


「さっき計ったら三十七度ちょいでしたよ」

「油断するなって。同棲して早々、独り身なんて嫌だぞ」


 え、俺死ぬの? 肺炎でも患うの?


「影山さんのほうが重症だったじゃないですか」


 俺なんかに甘えるぐらい弱ってたし、相当重かったはずだ。……不謹慎だけど、普段よりも可愛かったなぁ。だからってもう一度風邪を引けとは思わんけど。


「女は生理で微熱ぐらい慣れてるからな」


 正常な微熱と、ウイルスによる微熱ってわけが違うと思うんですけど。っていうか高熱出てただろ、あの人。


「そんなことよりマスクしてくださいよ。咳が出てないとはいえ、それこそ油断大敵ですよ」


 現に俺も、影山さん特に咳してないのに移されたし。

 まあ、発症時期的に関係なさそうな気もするんだけど。


「一応除菌はしてるさ。それにキミの風邪なら本望さ」


 除菌はナイスだけど、後半が全くわからん。風邪で頭が鈍ってるせいだろうか。

 でもよくよく考えたらこの人、ニートだから風邪ぐらい大した問題じゃないのか。


「飛鳥さんの異常性癖はさておいて……」

「別に性癖ではないが、なんだい?」

「今日は昼頃から、茜さんのところでバイトする予定だったんですよね。あーあ、こういう断りの電話って苦手なんだよなぁ」


 友達の店なのに情けないよなぁ、本当に。この性格で社会人やっていけるのかね?

 とりあえず悩んでても仕方ないし、電話入れるか。こういう連絡って早ければ早い程良いだろうし。


「おいおい、私がいるじゃないか」


 いるからなんだというのだろうか。代わりに電話してくれるのか? いくら電話が苦手とはいえ、そんな情けないことする勇気ないぞ。

 あっ、おい、この人マジで電話かけだしたぞ。ちょ、行かないで、俺に聞こえないところで通話するのやめてくれ。電話相手が誰か知らんけど、知ってるんだよ。やめてくれ、本当に恥ずかしいから。

 まっ、別にどうでもいいか。さすがに会社勤めになったら、自分で電話させてもらうけど、友達の店だからそこまで気にしなくていいか。

 ……なんかナチュラルに同棲を続ける気満々だな、俺。さすがに就職する頃には別居してるだろ、さすがに。……いや、お金貯まるまでは同棲することになるのかな。


「電化製品とか、リサイクルショップで売らなきゃ良かったなぁ」

「ん? 今何か言ったか?」

「いえ、ただの独り言です」


 いつの間に戻ってきてたんだ、この人。タイミング悪いな。別に聞かれて困るような発言じゃないけども。


「そっか。とりあえず二時間後ぐらいに家出るから、今のうちにやってほしいことを言ってくれたまえ」


 『私に任せろ』と言わんばかりに得意げな顔で胸を叩く様を見て、頼もしさと微笑ましさが同時に押し寄せてきた。なんだろ、容姿が容姿なだけに、子供が背伸びしてる感が凄い。でも中身を知っているから、頼もしさも程々にある。いや、んなことよりも……。


「えっと、お出かけするんですか?」


 嫌な予感がしてならないが、恐る恐る訪ねてみた。


「ああ、交渉の末にピンチヒッターの座を手にしたよ」


 手にしないでくれ、そんなもん。しかもお前、頼まれたわけじゃなくて、わざわざ交渉したのかよ。誰がそんなこと頼んだんだよ。

 わりと冗談抜きでやめてほしい。だって、茜さんの個人経営ならまだしもご両親の店だろ? 特に親父さんは俺に対して厳しいし(大体茜さんのせいだと思うけど)。


「なーに、そんな心配そうな顔をするな。早めに帰ってくるさ」


 そんな心配はしてねぇよ! 親父さんがさらに厳しくなることを恐れてんだよ!

 ……まっ、電話しちまったもんは仕方ないか。飛鳥さんの社会復帰の第一歩にもなるだろうし、欠員補充も悪いことじゃないし、前向きに考えよう。


「お礼は身体的な接触で頼むよ。キミは私以外と接触しすぎだからな」


 飛鳥さんってこんな俗物だったっけ? 出会った頃ならジョークとして聞き流せたけど、ここまで一緒にいると本気だってのがわかっちまうよ。下手すると家族よりも詳しいかもしれん。

 あっ、家族ってのは飛鳥さんのご両親って意味じゃなくて、俺の親と飛鳥さんを比較した場合の話ね。まあ、俺の家族はお互いに関心が薄いってのもあるけど。


「接触ぐらいお礼抜きでしますけど、それより仕事大丈夫ですか?」

「なんだい、大丈夫ですかって」

「あ、いや、仕事のブランクとか……」


 と言いかけたところで思い出したのだが、この人普通に商店街の手伝いしてたな。


「オッちゃん、オバちゃんの相手ならドンと任せたまえ」

「……若い子の相手は?」

「来ないよ、あんな店に」


 〝あんな店〟って……。言われてみりゃ常連のオジさんばかりだけど。


「まっ、心配すんなって」

「……料理はともかく、軽い接客は得意そうですもんね」


 本格的な営業とかは無理だろうけどな。ビジネスマナーとか苦手そうだし。


「そっちじゃなくてだな……」


 え、そっち以外の心配って何よ。


「私は尻軽じゃないから、安心しな」

「……? わかりました……?」


 何を言ってるかサッパリわかんねぇ。話の流れを振り返っても理解できねぇ。

 まあいっか。飛鳥さんほどの人が『安心しろ』と言ってんだから、素直に安心しときゃいいんだよ。




「……私はもうダメかもしれん」


 素直に安心した俺が馬鹿だった。

 五時間にも満たない労働時間で、心バッキバキになって帰ってきたよ、この人。ブラックバイトやってた時の俺みたいになってる。


「飛鳥さんからそんなネガティブな言葉聞きたくなかったですね」

「私だって女の子なんだよぉ!」

「うぐっ!?」


 俺が病人だということを忘れているのか、それともそんなことを考慮する余裕もないのか、どっちかは知らないが、病床に伏している俺に勢い良くダイブしてきた。結構痛かったぞ。アラサーにもなって、自分を〝女の子〟呼ばわりしてるところまで含めて痛かったぞ。っていうか汗かいてる状態でダイブしないでくれ。

 クレームを入れてやりたいけど、とりあえず撫でておくか。


「キミは私専用の精神安定剤だなぁ」


 なんか知らんけど褒められた。悪い気はしないけど、そのワードチョイスちょっと重くない? 〝専用の〟ってわざわざつけるあたり、相当重い。グラビアアイドルの写真集とか見ただけで浮気判定してきそう。


「なぁ、進次郎君」

「なんでしょう?」

「風邪移ってもいいから、今日は一緒に寝てくれないか?」


 難しいお願いだな、これまた。精神的に参ってるみたいだから聞いてあげたいところなんだけど、風邪が移ったら罪悪感で死にそうだし、どうしたもんかね。


「なあ、いいだろ? どうせ私は非生産的なクソニートなんだし、風邪引こうが骨折しようが大した問題じゃないだろ?」


 おかしいな、この国ではニートにも幸福追求権があると思うんだけど。

 飛鳥さんがここまでネガティブになるなんて、一体何があったんだろうな。これは俺から聞かずに、向こうから打ち明けてくるのを待つべきだな。今はただ、優しくしてあげよう。


「それは問題ですけど、一緒に寝るぐらい全然問題ないですよ。別に今日だけと言わずとも……」

「ま、毎日は精神が持たない。さしもの私も」


 え、今更? 事故とはいえ、裸まで晒しちまった仲なのに。

 でも言われてみりゃ、前のアパートにいた頃はほんのたまにしか同衾してなかったな。基本的に飛鳥さんは夜ふかししてゲームしてるから、一緒に寝る機会がなかったんだが、今にして思えば同衾を回避するためだったんじゃないか?


「私か進次郎君が弱ってる時だけにするべきだと思うんだ。今はまだ健全なお付き合いをする時期だと、私は思っている」


 同衾ってかなり健全じゃない? この前のキャンプで俺と未智さん、ガッツリ接触してたけど、不埒だったの? いや、アレはさすがに不健全かも。


「俺は好きですよ」

「え、え、えっ? な、何を急に……」

「ここまで初心な女性は、生きた化石ですよ」

「乙女心を弄ぶのはやめてもらえるかい? 誰がシーラカンスだ、誰が」


 梯子を外されたことに拗ねながら、俺の鼻を摘む。この人はとことん、からかい甲斐があって可愛いなぁ。


「私を元気づけようとしてくれたんだろう? いい子だ」


 あの、摘む威力がセリフと裏腹……あだだだだ! ひねりを加えるな!

 うん、女性をからかうのは程々にしておこう。鼻血が出るまで摘まれるのは、これが最初で最後だよ。あーあ、枕カバー買い替えないと……。

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