#68 片鱗
決して楽ではないと思ってはいたが、想像以上に大変なんだな料理って。
「ほらっ、ちゃんと足を開いて」
「ぶ、武術みたいですね」
まさか立ち方から指導されるとは思ってなかったよ。知ってた? まな板に向かう時は、肩幅ぐらい足を開くらしいよ? これ、京家独自のルールじゃないの? もしくは……。
「男の子やのに、頼りない足やねぇ」
「あの……衛生面とかありますし、ベタベタ触らないほうが……」
俺の足触りたいだけじゃないの? 普通に口で言えばいいじゃん。『肩幅を目安に足を開いてね』って。わざわざ触らなくていいじゃん。しかもさりげなく尻を触ってくるし。何が楽しいんだよ。
「ほら、包丁は軽くしっかり握って」
ど、どっち? 軽くなの? しっかりなの?
ええっと……肩の力を抜きつつ、握力はしっかりってこと?
「ほら、前腕に力入っとるよぉ」
やっぱり触りたいだけじゃない? 筋肉があるわけでもなければ、贅肉があるわけでもない。こんななんの変哲もない中途半端な腕の何がいいんだ?
お母様も、なんか温かいものを見る目になってるし。いや、そろそろお父さんを助けてあげて。膝を押さえながら、凄い顔してるよ。口から魔物を生み出す時の顔をしてるよ。大魔王の顔だよ。
「これっ! お母さんに鼻の下を伸ばさない!」
違うよ。お父さんの身を案じてるんだよ。早く横にしてあげたほうがいいって。
「伸ばしてませんって」
「いいや、伸ばしとる。私のほうが若いのに」
実の母親相手に若さマウント取るなって。貴女がお母さんより若いってのは、いわば自然の摂理みたいなもんだから。そうじゃなかったら、相当複雑な家庭だよ。
「進ちゃんは年上が好きやもんねぇ」
背後にいるから良く見えないけど、顔を背けた気がする。プイッてした気がする。
いや、アンタも年上だからな?
「なぜそう思ったんです?」
どっちかといえば年下のほうが可愛いと思う派なんだが? いや、別に年齢とかよほど離れてない限り気にしないんだけどさ。
「だって飛鳥ちゃんとベッタリやし……」
「いや、向こうが……」
……本当にそうか? 最初のほうはそうだったかもしれんけど、知らん間に俺から飛鳥さんへの好感度もバリ高になってないか?
ふと、飛鳥さんが俺の前からいなくなった未来が脳裏をよぎったのだが、一瞬で吐き気がこみ上げてきた。
ど、どうなるんだ? 偏見かもしれんが、女性って一回冷めたらすんなりと次に行く気がするんだけど……。それにあの人サッパリしてるし、俺よりもまともな男と出会ったら……。いや、そもそも俺以外の男は皆まともで……。
「それにバーのママさんとか、キャンプ場のお姉さんとか、年上の人と仲良くなるの上手でしょ? 進ちゃんは、女たらしなんよ」
はっ……。
危ない危ない。茜さんの難癖で正気に戻ることができた。あのまま放置されたら、勝手に変な想像を膨らませて自害してたかもしれん。ちょうど包丁持ってるし。
「そうやって目移りされるとねぇ……。さすがの私も……」
「み、見捨てないでください」
飛鳥さんに限ったことじゃない。この人達に見限られたその時が、俺の命日になる気がする。いや、この人達に限らん。俺と仲良くしてくれてる人ら全員に言える。
「進ちゃん? 何を震えて……」
「ちゃんと頑張りますから……料理とかちゃんと覚えますから……」
さっきまで教わったことが恐怖で飛びそうだけど、必死に繋ぎとめる。飛ぶな、留まれ。簡単なことしか教わってないはずだ。こんなことさえできなかったら……。
「慌てんでええよ。ほーら、いい子いい子」
俺の怯えが伝わったらしく、優しく俺の頭を撫でる。
開店前とはいえ調理場ですることではないが、ご両親も咎める様子はない。もっともお父さんは、咎められるような状況じゃないけど。
ああ、落ち着く。先ほどまでの震えが嘘のように止まったぞ。なんていうか、心が浄化されるというか、全てを受け入れてもらっているような安心感というか。
「進ちゃん、何を考えたのか知らんけど……一つええ?」
「え、ええ……ええですよ」
なんだろうか、改まって。まだこれ以上、俺に救いを与えてくれるというのか。
そこまで甘やかされると、良くないタイプの依存が……。
「今後何があっても見捨てるなんてことはあらへんよ」
字面だけを見れば誰でも言えるような軽い言葉だが、ズッシリとした重量感を感じるな。これは、茜さんの誠実さがあってこそだろう。
同じセリフをその辺の一般人が言えば、薄ら寒いだろうに。なんだろな、大して歳変わらんのに、貫禄に差があるというか。やっぱ実家が店をやってると、人生経験が豊富になるのか?
飛鳥さんもその辺のアラサーより貫禄あるし、人との交流って大事なんだろうな。
「茜さん……」
この人についていこう。いや、この人達についていこう。俺は所詮、羊なんだ。オオカミには絶対になれない男よ。
「そんなことしないし……させないし……」
一瞬心臓が止まった気がする。なんていうか、一瞬だけ体温が下がったような。
前にも感じたかもしれないが、あの五人の中で一番ヤバいのは……。
「さっ、もうすぐ開店の時間なんよ。明日は朝から料理について教えるから、今日はホール頑張りんさいや」
いつの間にかそれなりに時間が経っていたらしく、尻を叩いて気合いを注入してきた。包丁を握ってるから、急に衝撃与えないでほしいんだけど。
「は、はい。色々とありがとうございました」
考えすぎだよな? こんな、のほほんとした人がねぇ。ハハハ。
さっ、今日も一日けっぱるべ。っていうかお父さん大丈夫? 膝にヒビとか入ってないよな?
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