#62 社会の洗礼
俺は今年で二十一歳、つまり大学の三回生だ。
あまり考えたくないが、社会人になる日が刻一刻と迫っている。不安で眠れないとまでは言わないが、少しばかり焦り始めている。
まだ大学三回生の夏だろって? 実家暮らししたくない人間にとっては、深刻な悩みなんだよ。就職に失敗した時はバイトで食いつなぐなんて、甘い考えは毛頭ない。
就職失敗は論外として、ろくでもない会社に就職イコール人生終了だ。盆さえも帰省しないヤツが、実家に泣きつくわけにもいくまい。
となれば、今のうちから動くべきだろう。
思い立ったが吉日、小遣い稼ぎがてら社会経験を積むべくバイトに挑戦した。
結論から言えば、凶日だった。二十歳を超えた男が泣きそうになった。というか、少しだけ泣いた。
「元気出せよぉ」
飛鳥さんが、苦笑いしながら励ましの言葉をかけてくれた。あの、ビールを注いでくれるのは嬉しいんですけど、泡が立ちすぎです。まあいいか、どうせ俺なんか。
あーあ、俺なんかが大学に行っても無駄だよな。親に申し訳ねえよ。
「ほら、遠慮せずに飲んでくれ。私の奢りだから」
お高い個室居酒屋なのに? 俺の愚痴や悩みを聞いてもらう場なのに?
「いえ、一応バイト代が……」
振り込まれるのは来月だが、一応手持ちの金でなんとかなるはず。多分。
「いいからいいから。慰められてるほうはお金なんか出さなくていいんだよ」
か、かっけぇ……。
慰めてくれるどころか、お金まで出してくれるなんて。本来ならば俺が、相談料を払うべきなのに。
「しっかし一週間でやつれたなぁ、キミ」
「お恥ずかしい……」
労働日数で言えば、たったの五日。労働時間で言えば二十時間ほどだ。頑張ったと表現するのがおこがましいほど、短い期間だ。
「帰宅するたびに死にそうな顔してたもんなぁ、キミ」
それを飛鳥さんが知ってるってのも、本来なら変な話なんだけどな。ほとんど同棲状態なんだが、最近疑問に思わなくなってきたよ。もはや、これがあるべき姿だと思える程度には毒されている。
「辛さで言えば出勤前が一番かもしれませんね。二日目から吐き気堪えてましたよ」
「ハズレひいたなぁ……とりあえず、これ食べて元気出しな」
俺を元気づけるために、刺身の盛り合わせを前に出す飛鳥さん。気遣いは嬉しいんだけど、イカとタコしか残ってないじゃん。おい、俺まだウニを一口も食ってないんだけど、まさか全部食ったの? いや、奢りだから文句は言わんけど。
「皿洗いってそんなに大変なのか?」
「他の店は知りませんが、俺が行った店は大変でした。死ぬほど」
俺が皿洗いとして応募したのは、庶民御用達の中華モドキのチェーン店だ。
人員と皿の量が全く合っておらず、常に百パーセント以上のパフォーマンスを要求された。死ぬわボケ! 四時間ぶっ通しで、トイレどころかストレッチする余裕もないとか終わってるぞ。ブラックすぎんだろ。
「忙しさもさることながら、汚いんですよ」
「皿がか? 中華料理だもんなぁ。油が凄そうだ」
「皿っていうか、水ですよ」
「水? えっと、シンクに溜まってる水ってことか?」
「ええ、泥水のほうが綺麗なレベルです」
潔癖症じゃなくてもキツいわ。油やらなんやらで濁った水に手を突っ込まされるんだもの。傷口に入ったら、破傷風になるんじゃね?
「えー? 飲食店だろ?」
「飲食店だからですよ。水が汚すぎて、食器が見えないんですよ」
「聞いてるだけで食欲失せるなぁ」
飲食店の裏側がヤバいというのは良く聞く話だが、あの店は論外だわ。衛生観念の欠片もなかったよ。
「その汚い水に突っ込んだ手で、野菜を補充するんですよ」
勿論、手を洗う暇なんてない。油やら洗剤が付着した手で補充だよ。
「皿洗いが野菜補充!?」
「ええ、カット野菜を手づかみで……」
「無理無理無理」
これ以上聞きたくないと言わんばかりに、耳をふさいで首を横に振る。リアクションが大げさで可愛いな。癒される。荒んだ心に効くわぁ。しみるわぁ。
「トイレ掃除した手で野菜補充とか、デザート作ったり」
デザート作るっていっても、開封して盛り付けるだけなんだけどね。
手でフルーツ乗せるんだけど、食中毒なるんじゃね? 火なんか通さんだろうし。
「そりゃ社長射殺されるわな」
腕組みしながら、うんうんとうなる飛鳥さん。
そういやそんなニュースあったなぁ、懐かしい。
「ひっどい職場でしたよ。普通に社員同士で暴力とかありましたし」
三十超えた大人が仕事中に殴り合いって、民度終わってるぞ。ここ日本だぞ?
「進次郎君は殴られてないよな? もし殴られてたら……」
もしそうなら、何をする気だろう。顔の広さを利用して、社会的な制裁を加えてくれるのだろうか。この人ならできそうで怖い。
「ああ、大丈夫大丈夫。まだ殴られてません」
続ければ、いずれは殴られる気がするけど。
いや、いっそのこと殴ってくんねぇかな。そしたら堂々と辞められるし、金もむしりとれる。
「殴られたらすぐに言ってくれよ? 商店街の筋肉自慢達を招集すっから」
気持ちは嬉しいんですけど、完全に輩じゃないですか。
そのコネ、何? 筋肉コネクション持ってるの? どんな人生歩んだら、持てるんだよ。俺も筋コネ欲しいよ。
「はは、せいぜい暴言ぐらいですよ」
「おいおいおい。まずい流れじゃないか、それ。遅かれ早かれ、殴られるぞ?」
「いつでも報復できるように、一応全部録音してますよ」
実は未智さんから、ボールペン型の録音機を貰ったんだよ。バイトするって話をしたら、お守り代わりってことでプレゼントしてくれた。
たった五日で証拠の音声パンパンだし、胸も感謝でパンパンだよ。
ただ、こんなものを持っている未智さんに恐怖を覚えた。知らないうちに、なんらかの言質を取られてるんじゃないかって。
「仕事のしんどさもさることながら、コミュニケーションがキツかったですよ」
「えー? 進次郎君、コミュ力あんのに?」
「ないです」
所詮はコミュ障だってことを思い知らされたよ。
完全にコミュニティが出来上がってて、新人が入る余地なんてなかった。内輪のノリもキツいし、絡み方も鬱陶しいというか品がなさすぎる。
まあ、まともな企業で働けない中年の集まりだから仕方ないんだけど。
「女性グループが特にキツかったですよ。陰口言われてんの知ったときは、吐きそうでした」
「ひっでぇな。こんな良い男を」
別に良い男ではないが、陰口は酷くない?
底辺の戯言だってのはわかってるけど、それでも傷つく。
「やっぱ一般女性から見るとキモいんですかねぇ、俺」
「自信を持て、進次郎君。んなところで働いてる低俗な女からの評価なんて、気にすんな。ああいうのは、しょうもない男と考えなしに子供作って、悲劇のヒロインぶるだけの愚物なんだよ」
怒りのせいか、普段よりも口調が荒い。
誤解しないでほしいんだが、普段の飛鳥さんは職業で人を見下したりしない。俺のために怒ってくれてるだけなんだよ。
「容姿や品性が劣悪でも、女性から嫌われるのって心にくるんですよ。俺のキモさに起因するとなればなおさら」
恋愛対象外だから嫌われてもいいとか、そんな風に割り切れんよ。
そりゃ勿論、性格の良い美人に嫌われるほうが百万倍キツいけどさ。
「ほら、タバコ吸いに行くぞ。気分変えようぜ」
飛鳥さんは本当に優しいな。しかも頼もしい。こういう人が独身で、職場の変なヤツらが既婚者って納得いかんなぁ。
今のところ俺が候補なんだが、本当にいいのか? 俺なんかが……。
「いやぁ、席で喫煙できる店にすりゃよかったな」
「あるんですか? 今時そんな店」
健康なんちゃら法だか条例だかで、軒並み消え去ったんじゃ?
それにしても何を思ってこんな悪法、愚策を強行したんだろ。禁酒法とか麻薬取締法の悲劇を繰り返すつもりか?
下手に縛れば、反社会的勢力の資金源になるってことが、なぜわからない?
「個人経営の店とか、バーみたいに喫煙が主目的の店なら吸えるよ」
「ほえぇ」
バーって喫煙が主目的なんだ。酒が主目的だとばかり。
でも言われてみれば、バーってタバコ吸ってるイメージあるわ。タバコをツマミにして酒を飲んでるイメージあるわ。
「ここまで働いてわかったことは……」
「わかったことは?」
あんまり食いつかないでくれ、大したことじゃないんだ。言いづらくなるから、やめてくれ。
「飛鳥さん達は勿論、商店街の人達って人間できてるなぁって」
「そうだろうそうだろう! 私はともかく、商店街のおっちゃんら良い人だろ?」
身内を褒められたのがよほど嬉しかったのか、普段よりも大きな声を出している。
なるほど、これが皆から愛される理由か。見習わないとな……。
「あと、飛鳥さん達って一般女性より遥かに可愛いなって、改めて思いました」
「はっはっは、もっとちょうだい。そういうのもっとちょうだい」
飲みすぎかな? なんかテンションおかしいぞ。
はぁ、こりゃ俺も勘違いするわ。こんな拙い誉め言葉で喜んでくれるんだぜ? 女性とコミュニケーション取れるって、勘違いするのも無理ないだろ?
こんなの他の女性にゃ通じんよ。まず、こういう話をする段階までいけないし。
女たらしねぇ……この人達が〝男たらされ〟なだけだと思うんだけどなぁ。
ちなみにこの後、良い気になった飛鳥さんが飲みすぎてダウンした。一ヶ月ぶりにおんぶで連れ帰ったんだけど、アパートの人に見られちまったよ。
大丈夫かな? また変な張り紙されんよな? っていうか通報とかされんよな?
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