#51 キャンプ場が寂れたワケ

 キャンプ場のトイレって、予想はしてたけど汚いな。

 まだ午前だからいいけど、夜とか虫ヤバくて使えないんじゃね?

 まあ、最悪の場合はこっそり立ちションするか。


「ちょっとちょっと」


 トイレを出た瞬間、影山さんに声をかけられる。


「どうしました?」

「アンタ、今男子トイレに行ったのよね?」


 ……? なんか引っかかるな。

 わざわざ〝男子〟ってつける必要ある?


「そりゃ女子トイレには行かんでしょう」


 他の客がいないとはいえ、その勇気はない。

 そもそもメリットなくない?


「女子トイレ、大きい虫がいっぱいいるのよ」

「まあ、扉ないタイプのトイレですし」


 もう八時半を回ってるのに他の利用者がいないって、つまりそういうことよね。

 都会のキャンプ場だったら、もうちょいトイレ綺麗なんかね。


「男子トイレはどうなのよ? アンタ、普通に出てきたけど」

「んー、虫いるっちゃ、いますよ? 俺も虫は嫌いですが、小さいほうなんで、ササッと済ませて出てきました」


 こういうとこが強みよね、男の。

 個室に入らなくていいってのは、本当に大きい。

 虫がいるトイレで個室に入ってパンツ下ろすとか、恐怖以外の何物でもない。


「はぁ? ズルいわよ! 私にもそれ貸しなさいよ!」

「なんですか? それって?」

「だからその……立ってできる……いや、なんでもないわ」


 ああ、そういうことね。

 一瞬わからなかったせいで、影山さんがスベったみたいになってしまった。申し訳ない。お詫びとして、今からでもノってあげるか。


「貸しましょうか?」


 海パンに手をかけながら聞いてみた。

 向こうから言い出したことだし、セクハラにはならんべ。


「本当に持っていくわよ?」

「ごめんなさい……」


 この人、演技とかじゃなくて、わりと本気で怒ってるよ。声にドスが効いてて、正直怖かった。

 いや、俺悪くなくね? 向こうが先に言ってきたんじゃん。


「個室……個室どうだったのよ?」

「いや、見てないですけど……小便器近くの壁には何匹か……」

「見てきてよ、個室」

「え? まさか男子トイレ……」

「いいから!」


 何も怒鳴らなくてもいいじゃんかよ、そっちが間違ったことしてるのに。

 と、ふてくされながら確認に向かう俺。

 うん、ちょっと汚いけど虫はいないかな。


「いませんでしたよ?」

「本当? 本当に? 本当でしょうね?」


 めっちゃ必死やん、ウケる。

 そうか、よっぽど切羽詰まってるんだな。怒鳴ってきたのはそういうことね。


「本当ですって」

「よし! 来なさい!」


 マジかよ、この人。俺を引っ張って男子トイレに入っていったんだけど。

 大阪のオバちゃんだけだぞ? 『今だけ男ー!』って言いながら男子トイレ使って許されるのは。


「ひいっ!?」


 壁に張り付いた虫を見て、小さな悲鳴をあげながら俺にしがみつく。

 うん、俺も怖いんだ。いざって時に逃げられないから、しがみつかないで。


「いないわよね? いないわよね?」


 ビクビクしながら個室を確認する影山さん。完全に変態なんだよなぁ……。

 他の利用者が来たらどうするん? 後数時間もしたら、男子トイレ入れなくなると思うんだけど、今日って泊りだよね?


「いい? 今から個室使うけど、虫が下から入らないように見張ってなさいよ!」

「見張れと言われましても、虫は勝手に……」

「いいから!」


 俺の言葉を最後まで聞かず、個室のドアを閉める影山さん。

 いや、見張るのはいいけど……いや、正直嫌だけど、まあそれはいい。いくら俺が見張ったところで、虫って勝手に入っていかん? 俺がドアの前にいても、勝手に通り抜けていくと思うんだけどさ。


「音聞かないでよ?」

「音? どういうこと……」

「だから! 水の音に決まってるでしょ!」


 水の音……ああ、小便の音ね。

 そうか、女性って気にするもんなんだな。

 そういやショッピングモールのトイレとかって、音が鳴るボタン付いてるな。

 残念ながら、ボタンの有無以前に和式なんだよな。可哀想に。


「音聞いたらマジで蹴り殺すわよ? いいわね?」

「わかりましたって」


 いや、どうしろと。

 音って嫌でも勝手に聞こえるし。

 ………………。

 あれ、全く音がしないな。

 虫と見つめあうの辛いから、早く済ませてほしいんだけど。

 俺あんまり虫知らないんだけど、こいつら飛んでこないよな? 急にジャンプしないよな?


「影山さん? まだですか?」

「うるさい! 今出そうだったのに!」


 ……上手く出ない気持ちはわかるよ。男子トイレだし、扉の前に人いるし、虫がいつ襲ってくるかわからんし、出したくても出せない気持ちはわかる。

 でもあんまり良い気分しないな。こっち無理矢理、付き合わされてんのに。

 早くしてくれんかな、虫が微妙に動いてて怖い。あっ……。


「影山さん、排水溝から大きめのゴキブリが……」

「ひぃ!?」


 うわ、すっげぇドタバタいってる。気持ちはわかるけど、ゴキブリを刺激しないでほしい。こっちに走ってきたらどうすんだよ。

 などと考えながらゴキブリを見張っていたら、急にドアが開く。


「やだっ!」

「うおっととと」


 あっぶねぇな!

 背中に飛び乗ってきたんだけど、この人。


「早く! 早く外に出て!」


 地に足をつけたくないのわかるけど、俺の気持ちも考えてほしい。

 今ので俺が転んだらどうするつもりだ? トイレで転ぶ時点で相当嫌なんだけど、最悪の場合、ゴキブリにボディプレスするハメになっていたんだが?


「早く! 通り抜けなさいよ! 男でしょ!」


 無茶言いやがるな、このお姫様は。

 荷物背負ったままゴキブリの横を通り抜けるの怖いんだが?

 靴じゃなくてサンダルだから、滅茶苦茶怖いんだが?

 俺一人だったら大ジャンプで飛び出るけど、影山さんを背負ったままそんな芸当できるわけがない。


「じゃあ通り抜けますから、静かにしてくださいね」


 騒がないように釘を刺してから、慎重に足を動かす。

 やだなぁ、近づいた瞬間に動きそうで。


「早くしてよ……壁にも虫がいるんだから……」


 泣きそうな声を出すなよ、俺を巻き込んどいて。

 しゃあない、モタモタしてるとパニクった影山さんに絞め殺されかねんし、覚悟を決めるか。

 ゴキブリがこっちに来ないよう、神に祈りながら急いでトイレを後にした。ああ、緊張した。


「もう大丈夫ですから、降りてくださいよ」

「死ぬかと思ったわ……」


 しゃがみこんで、半泣きの影山さんを降ろす。

 いやぁ、頑張ったな俺。飛び乗ってきた影山さんを支えた足腰、ゴキブリの横を通り抜けた精神力。我ながら見事なり。


「そういえばなんか、背中がジョリジョリして、くすぐったかったんですけど……」


 重ねて言うが、俺は虫が苦手だ。平気な人間から見れば、先ほどの脱出劇は茶番以外の何物でもないだろう。

 だが、俺にとっては死地からの生還に等しい。ゆえに、テンション以上に頭がおかしくなっていた。

 もし冷静だったなら、振り向いちゃいけないことに気付くことができたはずだ。


「あっ……」


 俺の背中に当たっていた謎のジョリジョリの正体。

 なぜ振り向く前に気付かなかったのだろうか。

 見てはいけない物を見てしまい、頭が真っ白になって身動きが取れなくなる。

 そんな俺を見て影山さんは、ようやく気付いたらしい。自分があられもない姿だということに。

 俺以上に頭が真っ白になっているようで、フリーズしちゃってるよ。


「…………」


 小学生時代の話をしてもいいだろうか。

 すぐに泣く男子がいたんだよ、小学一年生か二年生の時だから、別に珍しい話じゃないんだけどさ。

 でね、当時ってプールの着替えが男女一緒の部屋だったのよ。まあ、低学年だし、当時なら普通のことでしょう。今はそういうのうるさそうだけど。

 そんでね? まあ、これもあるあるだと思うんだけど、着替えの時に巻くタオルあるじゃん? ラップタオルっていうの? あれをイタズラっ子に剥ぎ取られたのよ。

 まあ、当然さらけ出されますわな。女子にはないものが。

 低学年ってのもあって、同級生の女子が普通にガン見してるのよ。高学年だったらそれはそれで見るのかもしれんけどさ。

 で、その男子は恥ずかしさのあまり大泣きよ。まあ、わかる。泣き虫がそんなことされたら、泣くわな。それはいいんだ、心中察するよ。

 でもね、そいつ、両手で顔を覆ってるのよ。

 いや、その手で隠すべきは、そっちじゃないだろと。

 個人的にツボだったから、友達とバカ話する時の鉄板ネタになってたんだけどさ、この時初めてわかったよ。

 感情がピークを迎えると、その余裕、隠す余裕さえなくなるんだってな。


「……ひっく……」


 泣いちゃったよ、影山さん。

 手で隠すなり水着を上げるなり、先にやるべきことがあるのに、ガチ泣きしちゃってるよ。

 俺はどうすればいいんだ? 目を背けるのが正解なんだろうけど、この状態の影山さんを放置してもいいのか? かといって俺が水着を上げるわけには……。


「え、えっと……受付で殺虫スプレーか何か貰ってきます!」


 違うんだ、これは逃げじゃないんだ。

 第三者から見れば、トイレの前で泣いている衣服が乱れた女子大生と、その場から逃亡する謎の男。うん、途中から見れば完全に性犯罪後だな。でも違うんだ。

 俺は原因解決のために走り出したんだ。じゃないと、悲劇が次のステージに進んでしまうから。俺の行動は正しいはずだ。

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