#29 夏の木枯らし
生半可な知識で申し訳ないが、早朝からの激しい運動はNGらしい。
ゆえに早朝からジョギングするなら、早めに起きて軽いラジオ体操をしたり、ウォーキングから始めるのがいいと思われる。
だが、早朝に起きる習慣を身に着けていない俺は、ギリギリ四時に間に合う時間に起きるので精いっぱい。事前準備など、水分補給程度だ。
「は、はやい……」
思わず独り言が漏れ出たが、酸素と体力が勿体ない。クソ、嘆く余力さえないのか俺は。
前回も大概だったが、今回は影山さんのペースが異様に早い。
こんなことなら、飛鳥さんも連れてくればよかった。自分よりも遥かに遅い人がいれば、ペースを落とす口実ができるのだから。
「……」
俺の先を行く影山さんが一瞬こちらを見たが、構わず走り続ける。え? ペース落としてくれないの?
(あの女……一人は危ないって言ってんのに……)
前日に調べた起床後の運動による心筋梗塞や脳梗塞のリスクが脳裏をよぎるも、必死にペースをあげる。
距離があきすぎるといざって時に助けられない。いや、近くにいたところで暴漢を倒せるほどの強さは持ち合わせていないのだが、それでも近くにいかねばなるまい。
(待てコラ! 芋ジャージ! 地味女!)
酸素と体力の節約をするため、心の中で叫ぶ。もっとも、平常時でも怖くて口にできないけどな。
あれ? はたから見ると、不審者が女を追い回してる構図にならん?
「……」
足音が大きくなったのが気になったのか、少し驚いた顔で一瞬こちらを見る。
おい! なんでペースを落とさないんだよ! 後で揶揄われたくないから平静な表情を保ってるけど、実際はもう限界なんだぞ! これ以上走ると顔面偏差値がさらに下がっちまう!
(午後から大学あるって言ったろ! もう少し俺を慮れ!)
サボりを検討しながら、必死に食らいつく。
これジョギングじゃなくてランニングだろ! 定義は知らないけど、多分ジョギングじゃねえよ!
住めば都、いや、空腹こそ至高のスパイスという表現の方が適切だろうか。
疲労困憊、満身創痍の俺にとっては、小汚いベンチが高級ホテルのベッドのように思えてくる。高級ホテルなんて泊まったことないけど。
「綺麗ですね……」
「は、はぁ!?」
「朝の青空は……」
「え……ああ、うん」
なんだ、そのリアクション。ああ、口説かれたと勘違いしたのか。どんなタイミングだよ。恋愛下手とかの次元じゃないだろ、空気が読めてないだろ。
「……影山さん」
「……なによ……息切れしてんだから……話しかけないでよ……」
息切れするほど全力疾走すんなよ。おかげで俺は、大学をサボる気満々だぞ。最終的には行くと思うけどさ。
「喋れるほどのペースじゃないと……脂肪は燃えないらしいですよ」
「嘘っ!?」
スポーツ医学とは無縁な俺の生半可な知識に食いつく。申し訳ないが、これ以上語れることなんてないぞ。
「聞いていいのかわからんですが……なんでダイエットを? 細いじゃないですか、貴女は」
「はぁ? 細くないし……」
誰と比べてるんだろう。そりゃモデルさんと比べたら太いのかもしれんけど、あの人らがおかしいだけだろ。
「茜さんの料理の試食でカロリーが気になるし……」
そんな頻繁に参加してるのか。俺以外に対しては律義というか、良い子だよな。
そういや、気を遣うタイプだって飛鳥さんが言ってたな。
「風夏みたいに綺麗だったら、多少は肉があってもいいんだろうけど……」
遠回しに風夏さんを太いって言ってない? たしかにムチムチだけどさ。
「影山さんも綺麗だと思いますけどね」
「はぁ!?」
そのリアクションやめたほうがいいよ、口癖なんか知らんけど。俺はそれで、幼少期に母親から怒られてトラウマだよ。ちなみに母親は普通に使ってる。当時から思ってたけど、大人って本当に自分のことを棚に上げるよな。
「気持ちはわかりますよ。茜さんや風夏さんって同性から見ても美人でしょうし」
「ふん……男なんて結局……」
「でも、飛鳥さんも未智さんも影山さんも、同じくらい可愛いと思いますよ」
影山さんを五番目って答えたのは、墓まで持っていこう。
っていうか未智さんが悪いわ。星座占いと一緒で、一位だけ知れたらそれでいいじゃんかよ。
「……言いたいことはマウンテンほどあるけど……」
「マウンテン……?」
「なんで私以外、下の名前で呼んでんの?」
「マウンテン……?」
「いつの間に皆と親しくなったのよ」
「マウンテン……?」
「ネカマのくせに、女慣れしてるのね」
頑なに俺のリアクションをスルーして、語り続ける。ダメだ、マウンテンが気になって、話が入ってこねぇ。校長のカツラがズレてる時みたいだよ。
「美羽さんって呼んだ方がいいですか?」
「甘く見んな」
「うぐっ!?」
影山さんが、ベンチを占有する俺の腹に座り込む。それなりの勢いで。
「ほ、ほら……軽いじゃないですか……」
「ふーん……」
「ぐっ……」
俺のお世辞をどう捉えたのか、もう一度座りなおす。やめてください、マーライオンになってしまいます。
「……なんでアンタなんかを誘ったかわかる?」
わからんよ。この状態で会話を続ける貴女の神経も含めてわからんよ。
「女の子に椅子にされて怒れないヘタレだからよ」
「怒っていいんですか?」
言っとくが、結構苦しいんだぞ。気持ち良さと相殺できるくらいには。
「こんな根性無しじゃ、海に連れてっても意味ないわね」
「海?」
「そう、プールか川か海で悩んでるけど、夏の間に行きたいのよ」
なるほど……ナンパ対策とかで男を連れて行こうって魂胆か。この男女比は気を遣うし、日焼けとか怖いから行きたくないんだけど。
「川ぐらいがちょうどいいんじゃないですか? 周りもキャンプとかで来てるでしょうから、ナンパ男も少なそうですし」
「川だと派手な水着の子も少ないわよ」
「どうでもいいです」
俺のことを好色化だと思ってないか? いや、きっと男全員をそういう目で見てるんだろうな。
というか、俺も普通に連れてってもらえるんだな。行くのは気が進まないけど、誘ってもらえるのは嬉しい。
「あっ、もしかして水着を着るためにダイエットを……」
「うるさい」
「やめっ……」
その座りなおす攻撃本当にやめてくれ。安全靴だって、重い物を乗せる分には強いけど、高所から重い物を落としたら脆いもんだぞ。多分だけど。
「どーせアンタは他の子達しか見ないでしょうけど、それでも体を作りたいのよ」
「乙女心ってヤツですか? まあ、貴女も見ますけど……」
「そんなキモいお世辞で落ちるのは飛鳥さんだけだから」
飛鳥さんのヒエラルキーがよくわからん。アラサーだから逆になめられてない?
あと、座りなおすのマジでやめて。そろそろ突き飛ばすぞ。
「で? 今日来てくれた本当の理由は?」
なんだよ、本当の理由って。嘘の理由を言った覚えがないぞ。
「さっきも言いましたが、女性一人だと危ないからですよ」
「こんなブスが襲われると思うの?」
ブスって……過去に何かあったんだろうか。
あとな、百歩譲ってブスだとしても、女だったら誰でもいいってヤツは結構いると思うぞ。変質者の思考とか嗜好は知らんけどさ。
「貴女が自分をどう思おうと、可愛いものは可愛いです」
「可愛くないし……」
ボソッと呟き、そっぽを向く。まず、リアクションが可愛いよ。
「仮に可愛いとして、なんでついてくるのよ」
「そりゃ心配で……」
「なんで? こんなに態度悪いのに、なんで?」
自覚してるなら改めてほしい。いや、無理に自分を変えろとか、そんな話はしてないんだ。過去と他人は変えられないって言うしな。とりあえず俺の上から降りてくれないか? そういう簡単なところから変えてこ?
「信頼できない男に冷たくするのは普通ですよ。貴女は間違ってません」
俺を椅子にするのは間違ってるけど、接し方は間違ってないと思うんだよ。他のヤツらがおかしいんだ。
なんだよ、食べかけの牛丼のシェアって。
なんだよ、公衆の面前でお姫様抱っこって。
なんだよ、一緒にAV鑑賞って。
なんだよ、下着交換って。いや、本当になんなんだよ。帰れよ。今頃俺の家で爆睡してるんだろうけど、帰れよ。寝たままでいいから帰れよ。今だけ夢遊病になれよ。
「頭に来ないの? いいように使われて」
「たまに色々と思う時はありますけど、それはそれ、これはこれです。心配しない理由にはなりません」
「……じゃあ、あのペースに必死についてきたのは?」
「追い付かないと、いざって時に助けられないじゃないですか」
息も絶え絶えで、助けられる余力なんてなかっただろうけどな。
それでも、男が近くにいるだけで襲われる確率は格段に減るはずだ。不審者だってバカなりに賢いだろうから、なるべくリスク低いヤツを狙うだろ。
「こんなくだらない理由でダイエットしてるのに、それでも腹立たないの?」
「貴女にとっては大事なことなんでしょう?」
「……ふんっ」
そっぽを向いたかと思えば、おもむろに立ち上がる。
やめろよ? 勢いよく座るとかやめろよ? あっ、俺も起き上がればいいのか。
「言っとくけどね、襲われても平気だから。高校生の頃、男子にタイマンで勝ったこともあるし。何回も勝ってるし。本気で泣かせたこともあるし」
「喧嘩の後日に背後から急所攻撃しただけですよね?」
「なっ……」
残念だけど、風夏さんから全部聞いてるんだよ。聞きたくなかったけど。
「なんで知ってんのよ!」
先程の勝ち誇った顔とは打って変わって、焦り顔になる。朝早いから、あんまり大きな声を出さないでほしいんだけど。
「風夏さんが言ってました」
「あいつ……」
下卑た感性かもしれんけど、そそるねぇ。その恥辱に震える様は。
「勝ちは勝ちだし。不意打ちとか急所とか関係ないんだし。喧嘩だし、男だし」
「それで満足なんですか?」
「反撃しないってことは向こうの負けだし。男なんて大したことないんだし」
だしだしうるせぇな。無理矢理、語尾につけてるから日本語として怪しいんだし。
喧嘩の美学なんか知らないし、そこを議論する気は毛頭ない。だがな、影山さんは一つ重大な点を見落としてる。
「貴女が勝ったのって日常生活の話ですよね?」
「は?」
「男子高校生からすれば、たとえ酷いことされても女子に反撃したら自分が不利になります。だから我慢するでしょうけど、変質者は死に物狂いですよ?」
彼らはダウンしたらお縄だもん。逃げたり襲ったりするための暴力なんて躊躇わんだろうし、逆上して殺される可能性だってある。
「こっちも死に物狂いだし、一発入れたらコンボでそのまま勝つし」
昔の格ゲーの話してる?
「変質者は向こうが不意打ちしてくるんですよ?」
「正面からでも急所は攻撃できるし、なんなら目つぶしもできるし」
「それは向こうも同じです」
急に襲い掛かられたら反撃できんし、初手で殴られる可能性だって十分ある。
女性側は当てるのが難しい急所攻撃とか目つぶし狙わなきゃいかんのに、向こうは普通の攻撃でいいんだぞ。男女の筋力差を考えると、女性なんて全身急所だぞ。
「負けないから。いつなんどき、どこから襲われても、男なんかに負けないから」
「……そうですか?」
急激に立ち上がり、影山さんの両手首を掴む。一瞬ビクッとなったが、振りほどこうともがく。
「それが全力ですか?」
「くっ……」
表情や焦り具合を見るに、本気なんだろうな。予想以上に力の差があるらしい。
仕掛けといてなんだが、これは予想外だ。ジョギングで見せつけられた体力差が嘘みたいだな。
「変質者はもっと乱暴にきますよ? これでも俺は、貴女に怪我をさせないように手加減してます」
「う、うるさい」
必死にもがくが、拘束を解くことができず、顔がどんどん赤くなっていく。ちょっと面白いな。
「通報されても嫌なんで放しますね。危ないから暴れないでください」
影山さんが大人しくなったのを確認してから、手を放す。
ああ、緊張した。もうやりたくねぇ。
「別に女性を侮辱する気はありません。でも、男を侮ると危険ですよ」
こればかりは仕方ないのだ。華奢な女性が筋骨隆々の大男をまっとうな格闘技で倒すなんて、漫画やアニメだけの話なんだよ。
臆病でヒョロヒョロな俺でさえ、体力のある影山さんを押さえつけられるのが現実なんだよ。
「えっと、急にこんなことしてすみませんね。怪我してないですか?」
急に不安になってきた。俺はなんて思い切ったことを……。
アザとかできてないよな?
「さ、触らないで」
俺が差し伸べた手を払いのける。やべっ、嫌われた?
情報共有されて、五人からイジメられるのか? 陰湿なイジメを受けるのか?
自分の行く末に不安を感じて震える俺に、影山さんは背を向ける。
「帰る」
「あっ、近くまで送っ……」
「くんなっ!」
やってしまったかもしれん。マジでやってしまったかもしれん。
そうだよな、怖かったよな。嫌だったよな。嫌われて当然のことをしたんだよな。
俺は黙って見送ることしかできなかった。ジョギングの後だというのに、全力で走り去る影山さんの背中を。
「俺も帰るか……アラサーが起きる前に……」
夏だってのに風が冷たいのは、汗のせいだろうか。それとも……。
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