第4章 雪の王子(第2話)
《第2話》
寒い。
表情筋が硬くなり、耳の先が痛くなる。
この国は何もかも氷で出来ていた。
氷の人間達は座ったり、歩く為に足を踏み出そうとしたまま、ぴくりとも動かない。
何もかもが静かで澄んでいた。
私は王国の中へ歩き出す。
冷たく重厚な感覚が靴の裏から伝わってくる。
まるで厚い氷の上を歩いているようだ。
少し歩いた所で、足元からちゃぷっと水音がした。
「えっ?」
後ろを振り返ると私が歩いてきた道が全て溶けていた。
先程まであった道はなくなり、私から後ろは全て崖のようになっている。
慌てて下を覗くと、そこには暗闇が広がっていた。
どうしよう。
進んでしまったら、そこから戻る事は出来ない。
「……。」
辛い。
もう限界だ。
でも最早抗う気力も、涙も出てこない。
悲しみも怒りも産み出すにはエネルギーが必要だ。
城を目指して屍のように先へ進んでいく。
歩く毎に木も、建物も、人も溶けていく。
「ハァ…ハァ…。」
自分の白い息が視界を覆う。
寒さのせいか段々と頭がぼんやりしてきた。
『殺してやる』
気を抜くと、すぐにあの声が聞こえる。
「うるさい…お願いだから黙ってよ…。」
『殺してやる』
早く城に辿りつかないと。
仮住まいのこの声が脳みそに永住する前に。
「やめて、もうついてこないで。」
意識を失い気絶して、身体だけ全自動ロボットように動いたら良いのに。
「寒い…寒いよ…。」
誰か助けて。
人の形をした物言わぬ氷が溶けて消えていく。
私の形をした肉がその先を歩いている。
『殺してやる』
飛び散った意識の粒子の中にあの声が混ざって、どれが私なのか最早よく分からない。
城に行って、それから王子に会わないと。
私を救ってくれる王子様に…。
「ひまりさん。」
目の前にぼんやりとした人影が現れる。
氷のように冷たい瞳、サラサラとした薄いブルーの髪、不健康なほど青白い肌。
「王子…。」
王子の横には氷柱で作られたドレスを着た女性が立っていた。
彼女は王子の肩に手をのせ、こちらをじっと見つめている。
王子に触れたい。
触れて安心したい。
私はゆっくりと王子に近付く。
「ひまりさん、こっちへ来て…。」
「王子、助けて。私を救ってよ…。」
私の指先が王子の頬に触れる。
「ひまりさん…。」
王子の目玉が顔から落ちる。
肌がドロドロと溶けて唇が爛れる。
ミキサーで混ぜられた野菜ジュースみたいに
王子だった液体が床にこぼれた。
脳みそが私の手に纏わりつき、
頭部全てが溶けた頃、王子はバランスを失って私の方へ倒れかかってきた。
「ひまりさん、城へ…来て…。」
人体が倒れかかってきたとは思えない、シチューに似た液体が身体にかかってきたような感触。
“王子”が私の服に染みこみ、
爪の間や鼻の穴に入り込んでくる。
「ごぼっ…。」
王子は驚くほど暖かく、
じんわりとした穏やかな快楽が身体に広がる。
むせたり、王子を飲み込んだりしながら
何とか呼吸を保つ。
「ひまり…さん…城へ来て……。」
『殺してやる』
「ごほっ…うっ…ううっ…。」
私は…私はどれだ?
王子が私?
それとも隣の女性が?
いや、本当は頭に響くこの声が…。
あのベンチに座っている氷の人間、
立ち並ぶ家、葉っぱ、地面、崖。
冷たい風…酸素…時間…この世界。
私は…。
私はひまり…。
この世界全ての中にいる醜い肉の塊。
スーパーに売られたパック詰めの安い肉。
糞尿と臓器と欲望を詰め込んだ腸詰の肉。
「城に行って王子に会わないと…。」
肉が…喋っている…。
「王子、助けて…。」
ゴミ箱に捨てられた、
痛んで黒くなった賞味期限切れの肉が。
それが立ち上がり、ふらふらと歩き出す。
汚らしい。
みっともない。
臭くて、生々しい。
「殺してやる。」
違う、これはあの声じゃない。
「殺してやる。」
何度もそう繰り返す。
いつの間にか自分のものになったその言葉を呟きながら、ひたすら歩き続けた。
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